一週間前に立ち寄った明日香村大字の上(かむら)。
田植終了後の中旬辺りの日曜日は村の田植えのすべてを終えた村人たちが寄って「さなぶり」行事を気都和既(けつわき)神社で行うと話していた。
この日は朝から雨続き。
田飢えも終わって天の恵みに感謝しようということである。
気都和既(けつわき)神社は茂古(もうこ)ノ森に鎮座する。
飛鳥川支流にある冬野川の上流である。
気都和既神社は江戸時代までは牛頭天王社の名であった。
延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する気都和既神社になるそうだ。
神社は上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した宮さんであると云う。
それだけに宮総代の他神社役員は三カ大字の人たちである。
気都和既神社の祭神は気都和既命。
大字細川と尾曽、両社に祀られていた祭神は天津児屋根命。
そのようなわけで摂社は春日神社である。
役員関係者は神事が始まる1時間前から準備をする。
一段と高い場に設えた湯釜。
雑木を燃やして湯を沸かしていた。
本社、摂社には先に供える神饌御供。
スルメ、コンブにカマボコは海の幸。
キャベツ、ニンジン、キュウリ、トマト、ナスビにトウモロコシは里の幸。
他に果物も添えた御供である。
本殿より下にある建物は座小屋のようにも思える。
そう、思った通りに座る位置はそれぞれ三カ大字に別れて座るから座小屋であろう。
その座小屋に壁はない。
この日の風は強くはないが土砂降りである。
境内はびしょびしょの泥まみれ。
座小屋の屋根から流れ落ちる雨は滴ではなく落下激しい滝のような状況であった。
ここら辺りは湿り気が多いのか石の鳥居はコケに丸蔦が這う。
苔むした鳥居に段々模様。
願掛けなのか、それとも遊びで放り投げた鳥居の石が乗ったままに苔むした。
随分前のように思える風情である。
定刻ともなれば神職がやってきた。
飛鳥坐神社宮司の飛鳥さんだ。
これより始める神事はさなぶり。
傘をささざるを得ない雨降りの行事に湯釜の湯をかき混ぜる幣をもつ。
一段高い場で行う作法は湯釜の祈祷。
これを御湯(みゆ)と呼ぶのが正式だと話していた飛鳥宮司の御湯作法はこれまで大字上居(じょうご)の春日神社のさなぶりやヨイミヤがある。
隣村の大字越(えつ)の弁財天社の弁天さんのイノコマツリや大字栢森の加夜奈留美命神社の山の神、大字下平田のトンドの火点けに行われる上平田八坂神社の御湯神事で拝見したことがある。
いずれも同じ作法であるが、土砂降りの雨にもめげずに御湯神事をされたのは初めて見た。
飛鳥宮司にそっと傘をさして身を守る神社役員の心遣いである。
御湯の作法を終えた宮司は二社に祓え。
石段を下りてきて座小屋に座っていた氏子たちに湯で清めた幣で祓ってくださる。
それから再び登って祝詞を奏上する。
場を移動しながら神事を行ってきた宮司にはこの場合においても役員の心遣い。
足元まではとはいかなかった。
宮司が帰られた後は三カ大字それぞれの氏子が座ってパック詰め料理をいただく直会だ。
弁当の数は43個。
大勢が座小屋に座って、しばらくの時間をこの場で過ごした。
今は飛鳥坐神社の飛鳥宮司が斎主をされているが、かつては上尾曽のハチベエさんであった。
身長が低かったハチベエさんは神社の左横に建っていた建物に住んでいたと話す。
直会中に上(かむら)の行事を教えてくださったのは主に上垣内の人たち。
8月13日の朝早くに冬野川へ出かけて先祖さんの迎え。
くゆらした線香を持ち帰って仏壇のオヒカリ(ローソク)に火を移す。
御供の置く葉はハスの葉。レンコンを栽培しているお家にもらう。
お供えにつきものだったのはハクセンコウ。
スイカにマッカ。ナスにキュウリなどをおます。
これらは女性がする。
8月14日は大字細川にある浄土宗のお寺さんに参ってもらう。
翌日の15日は午後3時ころに先祖さんの送り。
迎えと同じように線香をくゆらして、その日に送る。
どこかの家では迎えに「ムカエソーメン」も供えているらしい。
ところで上(かむら)で度々口にする言葉がある。
ひとつは「つくねる」だ。
「つくねる」は一カ所に纏めることを云う。
もう一つは「ゲンジ」。
これはゲンジボタルではなく「コクワガタ」のことだけにややこしい。
節句に食べる「ヨゴミダンゴ」。
これは簡単。
県内各地、どこでもたいがいに聞く「ヨモギダンゴ」のことである。
「コムギモチ」は「サナブリモチ」と呼ぶ。
収穫した小麦と保存していたモチゴメと半々にして練った「サナブリモチ」を作って親戚に配っていた。
この座小屋に木製の構造物がある。
なんとなく壇にみえたそれは二段重ねの鏡餅を供える祭壇である。
12月の30日或は31日。
村の各家が鏡餅を持ってきて供える。
それを設える場は拝殿。
座小屋だと思っていた場は拝殿であったのだ。
正月三日間はそこに置いておく鏡餅。
名前を書いたお札があるから間違わずに持ち帰る。
注連縄は12月30日に結って架ける。
特殊な作り方だけに特別な人が作るらしい。
いつにそれを食べていたのか聞きそびれたタニシの天ぷら。
水田なのか冬野川かわからないが村にはタニシがいた。
採ってきたタニシはかき揚げの天ぷら。
玉子とじの料理もしていたという。
タケノコは「たいたん」だった。
昔は料理を家でこしらえていた。
タニシやタケノコを採っていたのは息子が小学校に通うころだというから随分昔のようである。
(H28. 6.19 EOS40D撮影)
田植終了後の中旬辺りの日曜日は村の田植えのすべてを終えた村人たちが寄って「さなぶり」行事を気都和既(けつわき)神社で行うと話していた。
この日は朝から雨続き。
田飢えも終わって天の恵みに感謝しようということである。
気都和既(けつわき)神社は茂古(もうこ)ノ森に鎮座する。
飛鳥川支流にある冬野川の上流である。
気都和既神社は江戸時代までは牛頭天王社の名であった。
延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する気都和既神社になるそうだ。
神社は上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した宮さんであると云う。
それだけに宮総代の他神社役員は三カ大字の人たちである。
気都和既神社の祭神は気都和既命。
大字細川と尾曽、両社に祀られていた祭神は天津児屋根命。
そのようなわけで摂社は春日神社である。
役員関係者は神事が始まる1時間前から準備をする。
一段と高い場に設えた湯釜。
雑木を燃やして湯を沸かしていた。
本社、摂社には先に供える神饌御供。
スルメ、コンブにカマボコは海の幸。
キャベツ、ニンジン、キュウリ、トマト、ナスビにトウモロコシは里の幸。
他に果物も添えた御供である。
本殿より下にある建物は座小屋のようにも思える。
そう、思った通りに座る位置はそれぞれ三カ大字に別れて座るから座小屋であろう。
その座小屋に壁はない。
この日の風は強くはないが土砂降りである。
境内はびしょびしょの泥まみれ。
座小屋の屋根から流れ落ちる雨は滴ではなく落下激しい滝のような状況であった。
ここら辺りは湿り気が多いのか石の鳥居はコケに丸蔦が這う。
苔むした鳥居に段々模様。
願掛けなのか、それとも遊びで放り投げた鳥居の石が乗ったままに苔むした。
随分前のように思える風情である。
定刻ともなれば神職がやってきた。
飛鳥坐神社宮司の飛鳥さんだ。
これより始める神事はさなぶり。
傘をささざるを得ない雨降りの行事に湯釜の湯をかき混ぜる幣をもつ。
一段高い場で行う作法は湯釜の祈祷。
これを御湯(みゆ)と呼ぶのが正式だと話していた飛鳥宮司の御湯作法はこれまで大字上居(じょうご)の春日神社のさなぶりやヨイミヤがある。
隣村の大字越(えつ)の弁財天社の弁天さんのイノコマツリや大字栢森の加夜奈留美命神社の山の神、大字下平田のトンドの火点けに行われる上平田八坂神社の御湯神事で拝見したことがある。
いずれも同じ作法であるが、土砂降りの雨にもめげずに御湯神事をされたのは初めて見た。
飛鳥宮司にそっと傘をさして身を守る神社役員の心遣いである。
御湯の作法を終えた宮司は二社に祓え。
石段を下りてきて座小屋に座っていた氏子たちに湯で清めた幣で祓ってくださる。
それから再び登って祝詞を奏上する。
場を移動しながら神事を行ってきた宮司にはこの場合においても役員の心遣い。
足元まではとはいかなかった。
宮司が帰られた後は三カ大字それぞれの氏子が座ってパック詰め料理をいただく直会だ。
弁当の数は43個。
大勢が座小屋に座って、しばらくの時間をこの場で過ごした。
今は飛鳥坐神社の飛鳥宮司が斎主をされているが、かつては上尾曽のハチベエさんであった。
身長が低かったハチベエさんは神社の左横に建っていた建物に住んでいたと話す。
直会中に上(かむら)の行事を教えてくださったのは主に上垣内の人たち。
8月13日の朝早くに冬野川へ出かけて先祖さんの迎え。
くゆらした線香を持ち帰って仏壇のオヒカリ(ローソク)に火を移す。
御供の置く葉はハスの葉。レンコンを栽培しているお家にもらう。
お供えにつきものだったのはハクセンコウ。
スイカにマッカ。ナスにキュウリなどをおます。
これらは女性がする。
8月14日は大字細川にある浄土宗のお寺さんに参ってもらう。
翌日の15日は午後3時ころに先祖さんの送り。
迎えと同じように線香をくゆらして、その日に送る。
どこかの家では迎えに「ムカエソーメン」も供えているらしい。
ところで上(かむら)で度々口にする言葉がある。
ひとつは「つくねる」だ。
「つくねる」は一カ所に纏めることを云う。
もう一つは「ゲンジ」。
これはゲンジボタルではなく「コクワガタ」のことだけにややこしい。
節句に食べる「ヨゴミダンゴ」。
これは簡単。
県内各地、どこでもたいがいに聞く「ヨモギダンゴ」のことである。
「コムギモチ」は「サナブリモチ」と呼ぶ。
収穫した小麦と保存していたモチゴメと半々にして練った「サナブリモチ」を作って親戚に配っていた。
この座小屋に木製の構造物がある。
なんとなく壇にみえたそれは二段重ねの鏡餅を供える祭壇である。
12月の30日或は31日。
村の各家が鏡餅を持ってきて供える。
それを設える場は拝殿。
座小屋だと思っていた場は拝殿であったのだ。
正月三日間はそこに置いておく鏡餅。
名前を書いたお札があるから間違わずに持ち帰る。
注連縄は12月30日に結って架ける。
特殊な作り方だけに特別な人が作るらしい。
いつにそれを食べていたのか聞きそびれたタニシの天ぷら。
水田なのか冬野川かわからないが村にはタニシがいた。
採ってきたタニシはかき揚げの天ぷら。
玉子とじの料理もしていたという。
タケノコは「たいたん」だった。
昔は料理を家でこしらえていた。
タニシやタケノコを採っていたのは息子が小学校に通うころだというから随分昔のようである。
(H28. 6.19 EOS40D撮影)