マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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御所市宮前町神農社の薬祖神祭

2017年07月19日 09時20分53秒 | 御所市へ
高取町丹生谷に住む知人のNさんから神農さん関係の行事情報を教えていただいた。

N家は元配置薬家。

父親が各地にある顧客家に出向いて売薬をしていた。

お正月と盆に戻ってくる父親。

そのときに家の床の間に神農さんの掛図を掲げていたそうだ。

ご近所におられる現売薬家の案内で御所市内にある薬製造業社を訪ねられた。

現在はしていないが、家に掛図があると聞いたそうだ。

その昔に掲げていた期日は11月20日ころ。

神社行事を終えた直会の会場に掲げているという。

その行事名は神農祭。

かつては12月の冬至の日にしていたが、現在は一か月前倒しした11月にしていることがわかったと伝えてくれた。

それから2カ月後の11月5日、神農さん関連の情報を伝えてくださったNさんから再び連絡が入った。

御所市の神農さんの行事は11月16日の水曜日。

祭事の場は御所市宮前町に鎮座する鴨都波神社である。

着いてからわかったが、祭事は鴨都波神社摂社の神農社だった。

早めに着いて鴨都波神社松本広澄宮司並びに代表者へ取材の主旨を伝えて了解を得た。

この日の行事に集まった人たちは御所市内の薬関係業者が11社。

五條市から1社。

製薬会社、製薬組合、卸し問屋、配置商業などの組合員が参列する。

今年で35回目になる行事名は薬祖神祭。

行事日は特定日でなく代表役員の集まりで決めるそうだ。

また、組合員は桜井市三輪の大神神社摂社の狭井神社で4月に行われる鎮花祭はなしずめまつり)にも参列しているという。

同祭に供えられる植物に薬草のすいかずら(忍冬)があると話す。

尤も同祭は平成20年4月18日に参拝させていただいた。

社伝によれば、同祭は「平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に鎮花祭のことが記され、春の花びらが散る時に疫神が分散して流行病を起こすために、これを鎮遏(ちんあつ)するために大神神社と狭井神社で祭りを行う。『大宝律令』(701)に国家の祭祀として行うことが定められていた」とある。



父親早逝により15歳で神職を継いだ松本広澄宮司は82歳。

戦前は学校近くにあった粟島神社で行われていた行事だったという。

昭和の時代のころである。

香具師(やし)と薬屋さんに関係深い神農さんを敬愛する神農会を組織していた。

薬業界の商売繁盛を願って共同で行事を営んでいたという。

香具師(やし)は薬を作るとか、売買していた露天商を指す。

縁日に馴染みのあるテキヤさん商売を昔の通りのヤシと呼ぶ人もいる。

元来、ヤシは薬販売業であった。

薬以外に商売を広げたのは藩政時代のころからのようだ。

明治時代以降、ヤシの言葉は禁じられるようになり、テキヤ(※適当屋と呼んでいたことから)と呼ぶようになって消えた。

年齢がいっている人はテキヤと呼ばずにヤシを称する人も多いやに思うこともある。

それはともかく御所の神農会組織は解散されて廃れたようだが、今では前述した薬関係の組合員が業界の安泰、並びに少彦名神に感謝するとともに繁盛願って神農社の薬祖神祭に参列している。

一段登った高い処にある神農社は昭和35年(1960)11月22日に薬関係者の発起人12人が建てたようだ。

と、いうことは宮司が話した神農会は戦前・戦中、或は戦後間もないころまであった組織であろう。

これらのことについては話題も出なかった現在の参拝者とは別の組織であったと思われる。

ただ、直会会場になる建物には組織を表示する案内札があり、「神農講」と書いていた。

本日、参列された団体は「神農講」でもあるようだが、拝見した別の資料では「薬祖神講」を表記していた。

はじめにお会いした代表者は製薬会社に所属するが、「薬祖神講」の代表者でもあったのだ。

いずれであっても神農=薬祖神である。

かつてあったとされる鴨都波神社摂社の粟島神社は戦後に戻した。

戻し還した先は桜井の三輪。

そこから勧請していたので元の処に戻っていただいた、ということである。

さて、薬祖神祭の神事である。



社殿脇に立ててあるのは大阪道修町の少彦名神社に出かけて購入したササドラ(笹虎)である。

同じようにササドラを供える奈良県内行事がある。

薬の町で名高い高取町下土佐恵比寿神社境内社神農社で行われる神農薬祖神祭である。

前年の平成27年11月20日に取材したので、重複しないよう、参考までにリンクしておく。



神農社社殿にたくさんの奉木を積んでいる。

奉木は宮司が予め準備しておいた「少彦名神社神霊」である。

30枚も用意した奉木は本日の参拝者にもって帰ってもらうありがたい薬の神さんである。

神饌御供は神社が用意した。

本社殿前に並べるのも宮司をはじめとする鴨都波神社の人たちである。

神饌御供の一つに生卵がある。

かつては鶏一羽だったが、今では生卵。

このような事例は奈良県各地でみられる傾向にある。

そして始まった神事ははじめに修祓。



神前に向かって祓の詞を朗々と詠みあげる。

聞こえてくるのは宮司の詞と鎮守の森に棲んでいる野鳥の声ぐらいのようなものだ。

厳かに斎行される神事である。

幣で祓って献饌。

献饌はすでに神饌御供を並べているのでお神酒の口を開けて献饌の儀をする。

続けて神農祭の祝詞を奏上して玉串奉奠。

式辞に沿ってそれぞれの代表者は玉串を奉げて撤饌で終える。

神事を終えた一同は場を移動して直会が行われる。



直会が始まるまでに許可を得て神農さんの掛図を撮らせていただく。

直会の会場に掲げられた神農さんの掛図は森本製薬㈱の預かりもの。

掛図を描いた作者名などの記載はないが、白髪老人の立ち姿である。尤も白髪は頭髪でなく髭の方である。

神農さんといえば、薬草をもって草を口で舐め毒見をしている姿を思い起こすが、この掛図は噛むこともない立ち状態を描いていた。

代表者それぞれのご挨拶。



そして乾杯で始まった直会の場は遠慮して退室した。

ネット調べであるが、粟島(淡島)神社の鎮座地は関東の千葉県白井市。

西日本は大阪府大阪市、和歌山県海南市、鳥取県米子市、山口県岩国市、大分県豊後高田市、大分県佐伯市、熊本県宇土市にあり、いずれも少彦名神を祭神とする神社である。

御所市の粟島神社の経緯は今となってはわからないことばかりであるが、少彦名神が医薬の神とされていることや、古事記や伯耆国風土記に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま:淡島)から常世|常世の国へ渡って行ったとする記述があることから崇められてきたのであろう。

ちなみに大阪の薬祖講である。

江戸時代、薬を検品する和薬改会所が検査の正確さと神さんのご加護を求めて、安永9年(1780)、薬種中買株仲間の親である団体の「伊勢講」が道修町仲間寄会所に、京都の五条天神宮から分霊をいただいて、日本の薬祖である少彦名命(すくなひこなのみこと)を、以前から祀っていた中国の薬祖である神農氏とともに祀ったことから始まる。

大阪の道修町の神農祭の当初は9月11日であったが、明治時代になってから旧暦から新暦祭事日に移した。

コレラが流行するなど、さまざまな事情によって明治10年に現在の11月22日、23日にしたそうだ。

また、京都市中央区にある薬祖神祠では薬問屋の繁栄を願って11月2、3日に薬祖神祭をしてきた。

ここもまた江戸時代後期に始まった「薬師講」の行事である。

「薬師講」は二条の薬業仲間というから組織化した講中の行事であった。

参拝者にお守り袋と陶器製の寅を括り付けた薬効のある笹の葉の頒布しているようだ。



なお、大阪市中央区道修町の少彦名神社の薬祖講行事は平成19年に大阪市の無形民俗文化財に指定されていることもここで触れておく。

(H28.11.16 EOS40D撮影)


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