冬至の日にシンノウサンの掛軸を掲げるK家。
大和郡山市の雑穀町が住まいである。
同家は『郡山市史』で紹介されている町屋の一つ。
先祖さんは御殿医の旧家と聞いていた。
婦人は大和郡山市の観光ボランティアガイドさん。
城主の柳澤家に仕えた御殿医と話していたが、事実は柳澤城主が甲府から転封される前からの郡山藩の町医であったと話す。
旧家は近年に於いて建て替えられたので当時の面影は見られないが、今尚、神農さんの掛軸を掲げてお供えをすると云う。
神農さんの尊像を描いた掛軸には「上古元来三皇身 耕田稼穡教農民 口爵百草為薬性 醫道流傳始初人 大明國許暻徴書 落款」の文字が書かれているが、詠みは判らない。
お軸は表装を仕直しており、記銘もなく、製作年代は不明である。
神農さんを祭る行事は大阪道修町少名彦神社や奈良高取町の土佐恵比寿神社の神農さんがあるようだが、いずれも11月22日である。
新暦、旧暦の違いであるかも知れないが、雑穀町では12月22日の冬至の日である。
この日のお供えはお頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに洗い米を二杯。
毎年このように供えていると云う。
お供えをするが、手を合わすことも念仏を唱えることはない。
「単に供えるだけだ」と話すK家の現当主の祖母は医者であった。
医師を継ぐこともなく医院を廃業したが、今でもこうして医者の神さんとされる神農さんの掛軸を掲げて祭ってきたそうだ。
祖母の姉が嫁いだ先は安堵町窪田の中家。
中世士豪の平城居館を残す建物は国の重要文化財に指定されている。
嫁ぎ先の中家で生まれた長女の嫁ぎ先は大宇陀の片岡家。
今でもご健在の老婦人がそうだと話す。
片岡家は代々大庄屋を勤めてきた由緒ある旧家。
寛文十年(1670)に建築された入母屋造りの家屋は茅葺きの主屋。
宇陀市の重要文化財に指定されている。
また、行者講の取材先であった市内白土町の喜多家も中家繋がり。
同市の丹後庄町の松本家もそうであった。
取材先の人と人の繋がりには旧家が繋がり。
神農さんの出合いに感謝し手を合わした。
(H25.12.22 EOS40D撮影)
大和郡山市の雑穀町が住まいである。
同家は『郡山市史』で紹介されている町屋の一つ。
先祖さんは御殿医の旧家と聞いていた。
婦人は大和郡山市の観光ボランティアガイドさん。
城主の柳澤家に仕えた御殿医と話していたが、事実は柳澤城主が甲府から転封される前からの郡山藩の町医であったと話す。
旧家は近年に於いて建て替えられたので当時の面影は見られないが、今尚、神農さんの掛軸を掲げてお供えをすると云う。
神農さんの尊像を描いた掛軸には「上古元来三皇身 耕田稼穡教農民 口爵百草為薬性 醫道流傳始初人 大明國許暻徴書 落款」の文字が書かれているが、詠みは判らない。
お軸は表装を仕直しており、記銘もなく、製作年代は不明である。
神農さんを祭る行事は大阪道修町少名彦神社や奈良高取町の土佐恵比寿神社の神農さんがあるようだが、いずれも11月22日である。
新暦、旧暦の違いであるかも知れないが、雑穀町では12月22日の冬至の日である。
この日のお供えはお頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに洗い米を二杯。
毎年このように供えていると云う。
お供えをするが、手を合わすことも念仏を唱えることはない。
「単に供えるだけだ」と話すK家の現当主の祖母は医者であった。
医師を継ぐこともなく医院を廃業したが、今でもこうして医者の神さんとされる神農さんの掛軸を掲げて祭ってきたそうだ。
祖母の姉が嫁いだ先は安堵町窪田の中家。
中世士豪の平城居館を残す建物は国の重要文化財に指定されている。
嫁ぎ先の中家で生まれた長女の嫁ぎ先は大宇陀の片岡家。
今でもご健在の老婦人がそうだと話す。
片岡家は代々大庄屋を勤めてきた由緒ある旧家。
寛文十年(1670)に建築された入母屋造りの家屋は茅葺きの主屋。
宇陀市の重要文化財に指定されている。
また、行者講の取材先であった市内白土町の喜多家も中家繋がり。
同市の丹後庄町の松本家もそうであった。
取材先の人と人の繋がりには旧家が繋がり。
神農さんの出合いに感謝し手を合わした。
(H25.12.22 EOS40D撮影)