大和郡山市椎木町は二社を鎮座する。
東垣内は杵築神社で、西垣内地区は厳島神社だ。
杵築神社は東・西両地区からなる長老十人衆が祭祀を務めているが、西に鎮座する厳島神社は西地区の弁天講(座)が担っている。
平成2年10月発刊、旧村・椎木町の『椎木の歴史と民俗』によれば厳島神社には二社殿があり、本殿は市杵島姫命を祀り、相殿は八王子と書いてあった。
組んだ石垣の上に建之された二社殿。
右の扉は一枚だが、左は三枚の扉になっている。
おそらく右が本殿であろう。
『椎木の歴史と民俗』によれば、崇敬者3名により大正五年七月に祈念の厳島神社合祀祭木札が東地区の光堂寺内に残されているとある。
村の人たちは「ここに持ってきた」と話していた。
木札と記憶伝承から推測するに、西地区へ合祀したのであろう。
村の人が話していた「ここに持ってきた」と一致する。
厳島神社に玉垣を新設寄附されたのは昭和28年12月吉日。
当時の西椎木の世話人一同(24人)だった。
その後の昭和32年7月1日竣工した社殿改築寄附は大字椎木西垣内の氏子一同である。
神域・境内はそれほど広くない。
本殿前にある建物は拝殿であるが、座小屋のようにも思える造りだ。
氏名と家紋を描いた家の提灯を持ち込んで拝殿に吊るした。
この日の行事は西椎木の弁天さんの祭りである。
営みは弁天講の人たちによって行われる。
西椎木弁天講の定書があるそうだ。
表紙に「萬延元年(1860) 申九月七日 弁才天講座定書 新帳写」。
「定 当申年より相談之上当屋壱人二相定昼座ハ当屋二亦相勤メ夕座ハ本社昼前二亦相勤申候年々作徳米之儀ハ村直段二亦当屋ヨリ取立上納差引ハ宵宮賄入用二仕候尤値段高下之儀ハ当人ヨリ引請申候事云々・・・」とある。
定書には続きがあった。
「当屋之儀ハ壱人ニテ御座候得共酉年より相談之上弐人づつ二相定候事」である。
萬延元年の定書では一人当屋であったが、何らかの事情が発生したことから、翌年の酉年には二人制に替えたのだった。
「弁才天講座定書」に御供とか、座の食事内容が書かれている。
昼座の献立は飯、京盛、汁、豆腐、やき頭、青ミ入、坪、竿、め、胡摩がけだった。
座は夕御膳もあったが詳細は省く。
興味を惹かれたのは本殿御供の昼御膳だ。
「もっそう、め、大器盛、供もち・・・」。
県内事例から推測する“もっそう”は蒸し飯を木型に詰め込んだ押し飯であろう。
充てる漢字は「物相(飯)」だ。
私が調査した範囲内であるが、今でも「もっそう」を作って供えている大和郡山市内の地域に白土町、石川町(本座・古基座)のマツリがある。
両地域とも「モッソ」と呼んでいた。
奈良県内では8事例に見られる御供の「モッソ」である。
今では「もっそう」を拝見することはできない西椎木の弁天さんの祭りであるが、カシラ芋を根付き株のまま供える里芋がある。
「座」に場に供えた神饌である。
コイモをたくさん付けたズイキ芋の茎一対を供える。
コイモは子孫繁栄を願った形であろう。
「弁才天講座定書」にある「京盛」は「京ノ飯」とか「饗飯」表記する地域と同じであろう。
「京盛」はそう思った通りに『椎木の歴史と民俗』では「キヨノ飯」とあった。
各戸から集めた粳米を一晩浸けて二度蒸しする。
方三、五寸の枡で目方を計った蒸し飯は蓋で押さえて抜く。
座につく者に配っていたが戦後に途絶えたと書いてあった。
充てる漢字もなく「キヨノメシ」、「キヨウ」表記をしている地域もある。
いずれも椀に盛った蒸し飯である。
奈良県内の京ノ飯は10事例もあった。
私が存知しない地域にも「モッソ」や「キヨウ」がたぶんにあることだろう。
「弁才天講座定書」は慶応年間もある。
「慶応四年(1868) 辰九月相改 弁材天講中座定書」だ。
この文書にも昼座の献立が書かれてあった。
「九月七日 昼座 飯、京盛、汁、豆腐、青ミ入、焼頭、坪、いも、め、胡摩がけ」だ。
夕座の献立は「もち、豆のこ、坪、いも、酒、肴、め、なしたし物出」である。
本殿御膳に「もっそう」もある。
今では見られない献立はいつまで続いていたのだろうか。
現住民にはその伝えがないようだ。
が、である。
88歳のY婦人が云うには、今ではパック詰め料理になったが、それまではコイモ・ダイコンの煮物や菜っ葉煮たものもあったようだ。
間引きしたダイコンの味噌和えもあった。
手でぐちゃぐちゃ千切った豆腐を入れた味噌汁椀だけは今尚弁天講の「座」に差し出している。
現在は会所で膳をよばれているが、かつてはヤド(宿)でしていたと文書にある。
西椎木の朝は早い。
早朝から集まった村住民。
男性たちは道造りに川掘り作業。
婦人たちは会所でマツリに掲げる行燈の張替。
障子紙を剥がすように水に浸けてこする。
綺麗になれば新しい半紙で糊付け。
乾かして三方に「御神燈」、「今月今日」、「西椎木町」を墨書するのも婦人たちだ。
行燈は12個。
10月に行われる東地区鎮座の杵築神社のマツリに西・東両地区12カ所にアニトーヤ(兄当屋)・オトウトトーヤ(弟当屋)が掲げる。
トーヤ両人は西・東地区の村座。
西地区独自の弁天講(座)トーヤと重なる年もある。
今年は当たりの年になったとトーヤが云う。
完成した行燈の前に竹数本が置いてあった。
これは弁天さんに奉る御幣や御湯の儀に使われる小幣になる。
この年は神職、巫女とも替わった。
これまで務めていた宮司は年齢および身体事情で辞められた。
それに伴って巫女も替わった。
急な要請に応じてくれた神職は椎木町と関係が深い春日大社である。
これまでの巫女は同市内若槻町在住の加奥さんだった。
神職に連れだって隠居された。
やむなく三郷町在住の坂本巫女に替わったのだ。
詳細な引継ぎをすることもなく座中が撮った写真や言葉で神職に伝えていた。
本殿、相殿に供える御膳などの並べ方はああやこうやと云いながら調えるころともなれば座中婦人や女児たちが集まってきた。
「弁天さんは女の神さんやから私らは玉垣の外までですねん」と云ってその場に居る。
足腰が不自由な人は老人乳母車でやってきてそれに座って待つ。
大・中御幣は予め立てていた。
弁天さん祭りの神事が始まった。
巫女は神職とともに並ぶ。
座中は拝殿に居る。
神聖な場に立ち入ることはできないので、拝殿際の外から撮らせてもらう。
修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠などが行われる。
神事を終えれば境内に場を移す。
プロパンガスの火で予め湯立てた湯釜の前に座る巫女。
小幣と取りだし左右に振る。
皿に盛った洗米をパラパラと湯釜に落とす。
お神酒を何度か注ぐ。
祓った大幣を湯釜に浸けて祝詞を奏上する。
鈴と大御幣を手にして神楽を舞う。
そして二本の笹竹を湯に浸けてばしゃばしゃ。
もうもうと湯けむりがあがる。
椎木の地に神さんを勧請される。
四方ごとにお戻り候と告げる。
そして神楽を舞う。
御湯に浸けた笹竹を手にして座中一人、一人丁寧に湯祓いをされる。
玉垣外に居られた婦女子にも湯祓いをする。
なお、今回は見られなかった巫女の藁帯(サンバイコ)がある。
椎木ではこれを貰って帰り、布団の下に敷いて寝ればお産が軽くなる云い伝えがあった。
丁寧な扱いに喜んでいた座中は境内で直会。
お神酒を飲んで下げた御供のスルメと昆布をいただく。
こうして弁天さんの祭りを終えたら、奉った御幣などを公民館に運ぶ。
弟当屋が徐に御幣を立てた。
その地は荒田の角地だ。
奉奠した玉串とともにその場に立てた。
何故にこういうことをするのか・・誰に聞いても判らないと返した。
(H27. 9.27 EOS40D撮影)
東垣内は杵築神社で、西垣内地区は厳島神社だ。
杵築神社は東・西両地区からなる長老十人衆が祭祀を務めているが、西に鎮座する厳島神社は西地区の弁天講(座)が担っている。
平成2年10月発刊、旧村・椎木町の『椎木の歴史と民俗』によれば厳島神社には二社殿があり、本殿は市杵島姫命を祀り、相殿は八王子と書いてあった。
組んだ石垣の上に建之された二社殿。
右の扉は一枚だが、左は三枚の扉になっている。
おそらく右が本殿であろう。
『椎木の歴史と民俗』によれば、崇敬者3名により大正五年七月に祈念の厳島神社合祀祭木札が東地区の光堂寺内に残されているとある。
村の人たちは「ここに持ってきた」と話していた。
木札と記憶伝承から推測するに、西地区へ合祀したのであろう。
村の人が話していた「ここに持ってきた」と一致する。
厳島神社に玉垣を新設寄附されたのは昭和28年12月吉日。
当時の西椎木の世話人一同(24人)だった。
その後の昭和32年7月1日竣工した社殿改築寄附は大字椎木西垣内の氏子一同である。
神域・境内はそれほど広くない。
本殿前にある建物は拝殿であるが、座小屋のようにも思える造りだ。
氏名と家紋を描いた家の提灯を持ち込んで拝殿に吊るした。
この日の行事は西椎木の弁天さんの祭りである。
営みは弁天講の人たちによって行われる。
西椎木弁天講の定書があるそうだ。
表紙に「萬延元年(1860) 申九月七日 弁才天講座定書 新帳写」。
「定 当申年より相談之上当屋壱人二相定昼座ハ当屋二亦相勤メ夕座ハ本社昼前二亦相勤申候年々作徳米之儀ハ村直段二亦当屋ヨリ取立上納差引ハ宵宮賄入用二仕候尤値段高下之儀ハ当人ヨリ引請申候事云々・・・」とある。
定書には続きがあった。
「当屋之儀ハ壱人ニテ御座候得共酉年より相談之上弐人づつ二相定候事」である。
萬延元年の定書では一人当屋であったが、何らかの事情が発生したことから、翌年の酉年には二人制に替えたのだった。
「弁才天講座定書」に御供とか、座の食事内容が書かれている。
昼座の献立は飯、京盛、汁、豆腐、やき頭、青ミ入、坪、竿、め、胡摩がけだった。
座は夕御膳もあったが詳細は省く。
興味を惹かれたのは本殿御供の昼御膳だ。
「もっそう、め、大器盛、供もち・・・」。
県内事例から推測する“もっそう”は蒸し飯を木型に詰め込んだ押し飯であろう。
充てる漢字は「物相(飯)」だ。
私が調査した範囲内であるが、今でも「もっそう」を作って供えている大和郡山市内の地域に白土町、石川町(本座・古基座)のマツリがある。
両地域とも「モッソ」と呼んでいた。
奈良県内では8事例に見られる御供の「モッソ」である。
今では「もっそう」を拝見することはできない西椎木の弁天さんの祭りであるが、カシラ芋を根付き株のまま供える里芋がある。
「座」に場に供えた神饌である。
コイモをたくさん付けたズイキ芋の茎一対を供える。
コイモは子孫繁栄を願った形であろう。
「弁才天講座定書」にある「京盛」は「京ノ飯」とか「饗飯」表記する地域と同じであろう。
「京盛」はそう思った通りに『椎木の歴史と民俗』では「キヨノ飯」とあった。
各戸から集めた粳米を一晩浸けて二度蒸しする。
方三、五寸の枡で目方を計った蒸し飯は蓋で押さえて抜く。
座につく者に配っていたが戦後に途絶えたと書いてあった。
充てる漢字もなく「キヨノメシ」、「キヨウ」表記をしている地域もある。
いずれも椀に盛った蒸し飯である。
奈良県内の京ノ飯は10事例もあった。
私が存知しない地域にも「モッソ」や「キヨウ」がたぶんにあることだろう。
「弁才天講座定書」は慶応年間もある。
「慶応四年(1868) 辰九月相改 弁材天講中座定書」だ。
この文書にも昼座の献立が書かれてあった。
「九月七日 昼座 飯、京盛、汁、豆腐、青ミ入、焼頭、坪、いも、め、胡摩がけ」だ。
夕座の献立は「もち、豆のこ、坪、いも、酒、肴、め、なしたし物出」である。
本殿御膳に「もっそう」もある。
今では見られない献立はいつまで続いていたのだろうか。
現住民にはその伝えがないようだ。
が、である。
88歳のY婦人が云うには、今ではパック詰め料理になったが、それまではコイモ・ダイコンの煮物や菜っ葉煮たものもあったようだ。
間引きしたダイコンの味噌和えもあった。
手でぐちゃぐちゃ千切った豆腐を入れた味噌汁椀だけは今尚弁天講の「座」に差し出している。
現在は会所で膳をよばれているが、かつてはヤド(宿)でしていたと文書にある。
西椎木の朝は早い。
早朝から集まった村住民。
男性たちは道造りに川掘り作業。
婦人たちは会所でマツリに掲げる行燈の張替。
障子紙を剥がすように水に浸けてこする。
綺麗になれば新しい半紙で糊付け。
乾かして三方に「御神燈」、「今月今日」、「西椎木町」を墨書するのも婦人たちだ。
行燈は12個。
10月に行われる東地区鎮座の杵築神社のマツリに西・東両地区12カ所にアニトーヤ(兄当屋)・オトウトトーヤ(弟当屋)が掲げる。
トーヤ両人は西・東地区の村座。
西地区独自の弁天講(座)トーヤと重なる年もある。
今年は当たりの年になったとトーヤが云う。
完成した行燈の前に竹数本が置いてあった。
これは弁天さんに奉る御幣や御湯の儀に使われる小幣になる。
この年は神職、巫女とも替わった。
これまで務めていた宮司は年齢および身体事情で辞められた。
それに伴って巫女も替わった。
急な要請に応じてくれた神職は椎木町と関係が深い春日大社である。
これまでの巫女は同市内若槻町在住の加奥さんだった。
神職に連れだって隠居された。
やむなく三郷町在住の坂本巫女に替わったのだ。
詳細な引継ぎをすることもなく座中が撮った写真や言葉で神職に伝えていた。
本殿、相殿に供える御膳などの並べ方はああやこうやと云いながら調えるころともなれば座中婦人や女児たちが集まってきた。
「弁天さんは女の神さんやから私らは玉垣の外までですねん」と云ってその場に居る。
足腰が不自由な人は老人乳母車でやってきてそれに座って待つ。
大・中御幣は予め立てていた。
弁天さん祭りの神事が始まった。
巫女は神職とともに並ぶ。
座中は拝殿に居る。
神聖な場に立ち入ることはできないので、拝殿際の外から撮らせてもらう。
修祓、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠などが行われる。
神事を終えれば境内に場を移す。
プロパンガスの火で予め湯立てた湯釜の前に座る巫女。
小幣と取りだし左右に振る。
皿に盛った洗米をパラパラと湯釜に落とす。
お神酒を何度か注ぐ。
祓った大幣を湯釜に浸けて祝詞を奏上する。
鈴と大御幣を手にして神楽を舞う。
そして二本の笹竹を湯に浸けてばしゃばしゃ。
もうもうと湯けむりがあがる。
椎木の地に神さんを勧請される。
四方ごとにお戻り候と告げる。
そして神楽を舞う。
御湯に浸けた笹竹を手にして座中一人、一人丁寧に湯祓いをされる。
玉垣外に居られた婦女子にも湯祓いをする。
なお、今回は見られなかった巫女の藁帯(サンバイコ)がある。
椎木ではこれを貰って帰り、布団の下に敷いて寝ればお産が軽くなる云い伝えがあった。
丁寧な扱いに喜んでいた座中は境内で直会。
お神酒を飲んで下げた御供のスルメと昆布をいただく。
こうして弁天さんの祭りを終えたら、奉った御幣などを公民館に運ぶ。
弟当屋が徐に御幣を立てた。
その地は荒田の角地だ。
奉奠した玉串とともにその場に立てた。
何故にこういうことをするのか・・誰に聞いても判らないと返した。
(H27. 9.27 EOS40D撮影)