戦後まもなく中断された橿原市慈明寺町のノガミさん行事。
隣町の寺田町の人らが草刈りしていたときに手足を切って怪我した。
これは祀らなあかんやろと、慈明寺町自治会会長が発起人、役員が世話人となって20年ほど前に農神祭として復活した。
当時は伊勢講の宮座の当番が農具や粽などを作って供えていた。
粽は大人が作る。小学六年生から高等小学校2年までの男児は、前夜に集まり竹やヤナギの木でカラスキ、マンガン、スキ、クワ、カマなどを作っていた。
みんなでまわりべんこして作りあげたんじゃと長老が懐かしそうに話された。
現在のノガミさんは集落から北方500mほどの高取川堤防東。
ここは畑が広がる寺田町との境界。
改修工事以前の高取川は半分ぐらいの川幅、両側に竹藪があり、その横が南北に行き交う街道だった。
昔の木はごっつう高く、枝振りは大きく広がっていたが改修工事で消えた。
その後、何度か木を植えたが、なんべんやっても枯れたという地はノガミさんが宿る雨乞いの神さんで、川沿いにあったことから龍神さんとも呼ばれていた。
復活するには気持ちを切り替えてと祀ったご神体の石は「神祇の碑(平成12年5月建立)」とした。
早朝、公民館に集まった役員方々は神事具を耕運機に載せて川堤に向かう。
碑の周りに四方竹を立てて注連縄、御幣を取り付ける。
前には祭壇を設え神饌を供えたころ、畝火山口神社の宮司が到着する。
一同が並び、祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など農神祭の神事が執り行われる。
(H20. 5. 5 Kiss Digtal N撮影)
隣町の寺田町の人らが草刈りしていたときに手足を切って怪我した。
これは祀らなあかんやろと、慈明寺町自治会会長が発起人、役員が世話人となって20年ほど前に農神祭として復活した。
当時は伊勢講の宮座の当番が農具や粽などを作って供えていた。
粽は大人が作る。小学六年生から高等小学校2年までの男児は、前夜に集まり竹やヤナギの木でカラスキ、マンガン、スキ、クワ、カマなどを作っていた。
みんなでまわりべんこして作りあげたんじゃと長老が懐かしそうに話された。
現在のノガミさんは集落から北方500mほどの高取川堤防東。
ここは畑が広がる寺田町との境界。
改修工事以前の高取川は半分ぐらいの川幅、両側に竹藪があり、その横が南北に行き交う街道だった。
昔の木はごっつう高く、枝振りは大きく広がっていたが改修工事で消えた。
その後、何度か木を植えたが、なんべんやっても枯れたという地はノガミさんが宿る雨乞いの神さんで、川沿いにあったことから龍神さんとも呼ばれていた。
復活するには気持ちを切り替えてと祀ったご神体の石は「神祇の碑(平成12年5月建立)」とした。
早朝、公民館に集まった役員方々は神事具を耕運機に載せて川堤に向かう。
碑の周りに四方竹を立てて注連縄、御幣を取り付ける。
前には祭壇を設え神饌を供えたころ、畝火山口神社の宮司が到着する。
一同が並び、祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠など農神祭の神事が執り行われる。
(H20. 5. 5 Kiss Digtal N撮影)
江戸時代の村の絵図に迹見(とみ)池の痕跡を留め、古図には堤の跡もはっきりかかれていたという大和郡山市池ノ内町。
当時、堤だった南の端には農僕の身代わりとなった奉公牛の伝説が残されている牛の宮塚がある。
朝日が昇るころ自治会役員が集まってくる。
今日は少子化となった現在でも続けられているしんこ喰いの日。
別名、牛の宮参りと呼ばれるもので、数え年16歳になった男児を地区で祝う元服式でもある。
男児がいる施主は、牛の宮へお参りしてしんこ団子とワカメの酢和えを食べるのだが、対象者がいない場合は、いい伝えを継承するため役員がその代行をする。
かっての池ノ内では6月末ころ田植えを終えると野休みに入る。
飼っていた牛は預け牛になって天理の福住にもっていったという。
子供の頃の記憶は鮮明に覚えていて、道中は長く急坂を登ったりするので草鞋三枚が必要だったという。
柔らかい足の牛は守ったらなあかん、大切な家族の一員だった牛にも草鞋を履かせていたんじゃとおっしゃる。
秋冬は福住で育って、春に引き取りにいったらまるまる肥えていたと回想する会長さん。
年季のはいった牛は博労が仔牛を連れてきて追い賃を払って交換したそうだ。
そんな農耕文化も昭和30年代後半には耕運機に変わっていったという。
(H20. 5. 5 Kiss Digtal N撮影)
当時、堤だった南の端には農僕の身代わりとなった奉公牛の伝説が残されている牛の宮塚がある。
朝日が昇るころ自治会役員が集まってくる。
今日は少子化となった現在でも続けられているしんこ喰いの日。
別名、牛の宮参りと呼ばれるもので、数え年16歳になった男児を地区で祝う元服式でもある。
男児がいる施主は、牛の宮へお参りしてしんこ団子とワカメの酢和えを食べるのだが、対象者がいない場合は、いい伝えを継承するため役員がその代行をする。
かっての池ノ内では6月末ころ田植えを終えると野休みに入る。
飼っていた牛は預け牛になって天理の福住にもっていったという。
子供の頃の記憶は鮮明に覚えていて、道中は長く急坂を登ったりするので草鞋三枚が必要だったという。
柔らかい足の牛は守ったらなあかん、大切な家族の一員だった牛にも草鞋を履かせていたんじゃとおっしゃる。
秋冬は福住で育って、春に引き取りにいったらまるまる肥えていたと回想する会長さん。
年季のはいった牛は博労が仔牛を連れてきて追い賃を払って交換したそうだ。
そんな農耕文化も昭和30年代後半には耕運機に変わっていったという。
(H20. 5. 5 Kiss Digtal N撮影)
苗代の花供えは一斉に行われることはない。
それぞれの農家の都合で早朝だったり、昼前だったりする。
4日の夕刻、苗代のほとんどがお供えを終えていた。
ここでは花が供えられるとともに、傍らにモミ種が置かれている。
夕陽が差し込み、水田と花の輝きは豊作を祈るようだ。
(H20. 5. 4 Kiss Digtal N撮影)
それぞれの農家の都合で早朝だったり、昼前だったりする。
4日の夕刻、苗代のほとんどがお供えを終えていた。
ここでは花が供えられるとともに、傍らにモミ種が置かれている。
夕陽が差し込み、水田と花の輝きは豊作を祈るようだ。
(H20. 5. 4 Kiss Digtal N撮影)