マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

丹生町の慣わし

2010年08月11日 06時59分59秒 | 奈良市(東部)へ
三日地蔵の風習が残っている奈良市丹生町。

地蔵さんを担いで次の家に持っていく。

入るのは玄関ではなくて縁側と決まっている。

地蔵さんは古くから伝わる厨子に納められている。

取っ手が付いている木製の食器箱も持っていく。

これは風呂敷に包んでいく。

中は瀬戸物の高坏が四杯。

ご飯やお茶を供える食器だという。

三日地蔵は女性の行事だが、力仕事の地蔵さん担ぎは男性が担うこともある。

家族が減って年老いた家人。

それを担ぐのは相当な力がいる。

テレビなどの報道がある際は女性が出ているが実際は男性が運ぶことも多くなってきたと当主のFさんは語る。

「担いでいかなあかんやろと思っている。見えないところでは男性が支えているのだ」と話される。

隣のばーさんが言うにはダイコン汁をお供えするのだという。

基本的には三日間、家に居てもらって参りをするのだが、家の都合とかで短くなったり長くなったりする。

一人住まいの家ではどうしているのか。

聞いてみなければと前置きされ、「飛ばしているのかもしれない」と話す。

現実に一日だけになっている家もあるらしい。

F家ではお供えのご飯は一日一回とは限っていない。

まして朝、昼、夜のときでもない。

家族が食べるご飯を炊いたときに供えている。

一般的にはご飯を炊くのは毎日とは限らない。

「どこの家でも残ったら炊かないでしょう。お櫃が空っぽになったら炊くのです」と話す。

三日地蔵の慣わしは明治時代初頭に政府が発令した「神仏分離令」の布告を受け廃仏毀釈運動からだという。

それは明治19年のことだった。

かつて丹生には七つのお寺があった。

それらは全村民が神道へと改宗しすべての寺を廃寺にされた。

数年前までお堂の跡があったが、それも消えた。

村からすっかり仏事が消えた。

一般的に行われている葬式はお寺さんだが丹生では神式になる。

神主がサカキを振って葬送の儀式を行う。

初七日は十日祭。

四十九日は50日祭になる。

一周忌は1年祭。

その後は一切なくて50年後に50年祭がある。

あるといってもそのころは年代も代替わりになっているのでまず行われることはないという。

儀式はすべてサカキのお祓い。

100年以上も続く神式の葬送。

儀式に気を遣うこともないが墓地はある。

今でも土葬の風習が残る丹生町。

共同墓地に担いでいくのは白い装束を着たオイと決まっている。

Fさんは工務店。

寝棺の棺桶も作っている。

卒塔婆は山の木を切って作っているそうだ。

丹生町は上組、中組、下組の三組。

組はそれぞれに三つの班で構成されている。

上組は元郡山藩、中組は地元柳生藩、下組は津の藤堂藩。

大昔のことだと前置きされて話されたのは「丹生はその字のごとく水銀がでた地。当時は相当裕福な地域だった」。

集まったら必ず出るのがお酒。

なにかあってもお酒。

雨の日に仕事はしない。

そのときは集まって宴会をしていた。

春と秋には道造りをする。

午前中の半日で終える。

後半は飲んで過ごす。

二次会、三次会と延々と飲み続ける。

自分の家で食べることが少なくて他人の家ばかりだとFさんは笑って語る。

そういう習慣の丹生の家の造りは田の字型。

正方形の座敷が四つ合わさった間取りだ。

襖を撤去すれば中央に柱が残るだけ。

大広間が誕生する。

それだけでは足らないので縁側は板の間でなく畳みになっている。

万年青年団も来るし、まだ足らないときは隣の家の座敷も借りる。

そこまで集まる人が多いということだ。

葬儀のときはまな板と包丁だけを持って隣家が支援していた。

たいそうだからとパック詰め料理になったのは世の流れ。

20年前に改正された。

F家では今年の3月に孫が誕生した。

長男の子供で初孫だという。

誕生後の100日目は「オクイゾメ(お喰い初め)」。

いわゆる歯固めの風習で、モチとセキハン(赤飯)を作る。

それは全国どの家でもされていることだ。

丹生では誕生の一年後にハツタンジョウの儀式がある。

一歳になった孫に、風呂敷で包んだひっくり返るほどの大きなモチを背負わせる。

一升モチの大きさは一生モチのシャレからきているらしい。

今は20cmぐらいの大きさになっている。

女の子の場合は少しモチは小さめにする。

玩具や野球、文具などの道具を入れた箕(み)を置く。

それを手にした子供は将来の職業を選んだことになる。

八島、鹿野園、古市などの平坦部に日笠町、天理の山間で行われている風習が丹生にある。

その初誕生の祝い日までの盆の日。

無事に子供が生まれた、ありがとうといってお礼に名前を書いたのし袋を三日地蔵に供える。

地蔵さんは子供の守り神でもある。

家の伝統行事は残さねばならないといってF家では10年間途絶えていた正月のイタダキサンを復活された。

お正月の若水を汲むことは続けていた。

それはオトコシがする。

オトコシは当主の男性。

ミカヅキサンやホシノモチやカチグリを並べた膳を両手で頭の上に捧げて拝む。

そこにはノシモチに生の現金を添える。

今年も増えますようにと祈る家の儀式だ。

雑煮はカシライモと呼んでいる大きなドロイモが入っている。

また祝いの席には大きな皿に焼き鯛を頭の上に捧ぐように持ち上げて右へ左へと揺らしながら踊る。

「ダイビキ」と呼ばれている作法は鯛が二尾。

皿は二枚になるので二人が伊勢音頭などの囃子に合わせて踊る。

他にも伊勢講やたのもし講もあったようだ。

いつのころか判らないがそれらは4、50年ほど前に消えてしまったそうだ。

(H22. 7. 4 記)
(H22. 7. 7 EOS40D撮影)

染め初め体験

2010年08月10日 08時02分37秒 | メモしとこっ!
染めの道具は洗濯鋏、大小のビー玉、品質切れの小豆、フイルムケース、クリップに箸まである箱本館「紺屋」。

それは多彩なものでいかように使っても構わない。

創造力を膨らませて白いTシャツにデザインしていく。

普段着の上に作業着を装着する。

足は長靴。

手は長いビニール手袋。

完全武装で染めのときに弾ける滴から身体を衛る。

FIXしたら水で絞る。

染めにムラがでないように染料を下地に染みこませるためだ。

一回目の染めに投じる。



静かに沈めていく。

浮かび上がらないように手で押し込む。

ゆっくりとかき回す。

ジワジワと染みこんでいく様子は藍瓶の中だから見えない。

丸い泡がプクと盛り上がった。

エメラルドグリーン色のようだ。

これは酸化の色だという。

3分間、染め込んだら引き上げて手で絞る。

滴が出なくなったら水槽で洗う。



生地に緑色が出なくなるまで洗う。

これも酸化で、そうすると藍の色は発色しないそうだ。

藍染めはアルカリ性だそうだというが頭の中は整理できていない。

この手順は三回するのだが、ラストはとめてあった洗濯鋏などを外した。

全部ではなくてほんの一部にした。

そうするとそこだけが染めが薄くなる。

多少のぼかしがでると思って外したのだがさてさて。

最後の工程はお酢浸け。

フイルムでいえば現像の定着だ。

お酢はアルカリ性。酸化をくい止めるとういうわけだ。

そして水洗い。

かつては前の紺屋川で晒していたのであろう。



できあがりは乾いてからのお楽しみだ。

藍染めの原料となる藍(タデアイ)は裏庭で植生されていることを付け加えておこう。



(H22. 7. 3 SB932SH撮影)

染野の行事

2010年08月09日 07時40分05秒 | 楽しみにしておこうっと
7月の第二日曜はオイナリサンの祭り。

夏祭りでもある。

お宮さんの世話をしている長老十二人衆が集まってくる。

普段はお宮さんの清掃をしている。

12時ころ、新庄の宮司さんがやってきてお祓いをして豊作を祈願してくれる。

当日は雨。

既に終わっていた。

玉串のサカキがそれを物語っていた。

8月は地蔵祭り。

綱を引っ張って提灯を吊す。

16時ころにオニギリやお菓子を供えて石光寺の住職がお経をあげる。

子どもたちもやってきて数珠繰りをしている。

今年は22日の日曜だ。

庚申さんもあるが行事をしているかどうかは判らないと区長さんはいう。

(H22. 6.30 記)
(H22. 7.11 SB932SH撮影)

うなぎの大門

2010年08月08日 07時39分33秒 | 食事が主な周辺をお散歩
いっぺん食べに行きたかったうなぎの大門。

奥さんから話を聞いてから数年も経つ。

天理から大和郡山に移転された場所もしっているのにそれから味の妄想が広がっていた。

テレビ放映を見ていたかーさんが突然行きたいと申し出た。

昼の時間に都合を合わせて待ち行列に参戦した。

皮はパリパリ。

中はトロトロの鰻上。

ほんまや。



トロ丼の味はちょと違うけどまさしくマグロ丼に似たり。

トロロ芋はぶっかけてないのにこの舌食感はなんだ。

うなとろ丼1600円。

テレビで放映された翌日は満席状態が続く。

忙しい日には奥さんが応援している。

この日は昼を過ぎてもいっこうに客足は衰えない。

急遽学校を終えた娘さんも応援にかり出された。

かーさんはうな重上1600円を頼んだ。



これも美味い。

二つのウナギを食べ比べた。

どちらも軍パイはあがった。

(H22. 6.30 EOS40D撮影)

修理枝の行事

2010年08月07日 07時00分45秒 | 楽しみにしておこうっと
かつて修理枝八王子神社の秋祭りは10月23、24日と決まっていたが祝日であれば人は集まりやすいと11月3日になった。

昔は夜の9時ころにトヤを先頭に松明を手にした村人がついてお渡りをした。

それはいつしか7時に早まった。

チョーサヤ、チョーサヤと囃子ながら神社を目指す。

村は現在16軒。

だから16人もの人たちの火の行列が続くのだと7年間区長を務めたNさんの奥さんが語る。

16年ほど前にトヤを担った。

それはたいそうな行事だったと回顧されて話し出した。

1本のダイコン。

葉は漬け物にした。

本体はイチョウ切りにしてトーフすまし汁に入れた。

白米はおこめから蒸した。

それを一升桝に押し込んだ。

桝は型どりである。

それはおそらくオシメシ(スシメシかも)であろう。

今は家の順になったが、昔のトヤは長男と決まっていた。

お渡りを終えたらお宮さんの前でトヤ家の男性を胴上げする。

男性は小学一年生以上が対象だ。

生まれたての子供も本来は対象なのだが危険を避けて骨格ができあがったその年齢にしてある。

今はパック詰め料理で簡単になったが、昼間の接待はたいそうだった。

トヤの家が上垣内であれば下垣内の人たちをヨバレの接待をする。

下垣内であれば上垣内になる。

親戚まで担ぎ出して接待のごちそうをこしらえるのがたいへんだったと話される。

長く太い箸。

お椀はとても大きい木椀だったようだ。

それに大きな盃になみなみと注いだお酒。

集まった人たちがそれの回し飲みをする。

唄も歌っていたが曲名は判らないという。

2月のケイチンもごちそうはたいそうだった。

長さ20cmほどに切ったゴボウ。

ダイコンナマスとトウガラシの入ったコンニャクの煮物と一緒に竹の皮に乗せる。

お菓子も出した。

それらは時間も決まっていた。

これらは16年前に大幅改正し簡略化された。

息子さんは現在35歳。

およそ27年前に改正された。

昔からきちんと守られてたいそうだった行事食がいとも簡単に改正された。

あれは一体何だったのか。

気が抜けたし矛盾を感じたそうだ。

年度末には公民館で「トシイワイ」をしている。

男性は42歳、60歳、70歳、77歳、88歳になったとき。

女性は60歳のときに行われる祝いごと。

60歳は老人会への仲間入りだ。

その際には大きな一尾のシオサバが献じられる。

お宮さんにも参拝されるそうだ。

9月12日は「薬師さん」がある。

薬師さんの仏像を祀っているのは公民館。

食事会を兼ねているお祭りは鉦を叩いて西国三十三カ所のご詠歌を唱える。

当番の人は村で買ったお菓子を供えてローソクを点ける。

薬師さんのお祭りは女性だけでなく男性も数人が集まるそうだ。

また伊勢講や庚申講もある。

下垣内は6軒だったが現在は4軒。

伊勢講も同じ軒数だ。

ヤドの家に夜7時に集まってお勤めをする。

掛け軸も掲げており、パック詰め料理を食べたあとにヤドの家が次のヤドの家へ持っていく。

閏年に行われる庚申のトアゲもある。

花立ては公民館で作るそうだ。

その名残が墓地横の石造の傍らにあった。

しかも青面金剛杖も立てかけてあった。

梵字もあり、判読できない文字もあったが「亡奉供養南無青面金剛○子講中安全○命子孫長久如意輪萬融通念佛南無阿弥陀佛」とあった。

杖は次回のときまで残しているという。

葬儀のときもアジゴハンを作るなどたいそうだった。

平成9年ころまでは自宅で葬送されていたが現在は葬儀社になった。

(H22. 6.30 記)
(H22. 7. 4 EOS40D撮影)

井戸野金丸講回り講の営みヤド家

2010年08月06日 07時20分59秒 | 大和郡山市へ
朝、昼、夕方の3回。子供たちが町内を巡って呼び出しの貝吹きをした。

今夜は毎月金丸講の当番の家で営まれる回り講の日だ。

ほぼ地区全戸が大峰山に参拝される行者講の村でもある旧村井戸野。

回り講はおよそ20組。

隣家を入れて3軒で1組としている。

その順番は決められていて、毎月(1月や彼岸は除く)ヤドと呼ばれる当番の家でお勤めがされる。

井戸野の金丸講は大峰さんの八代講の一つとして挙げられている。

八代講を縮めて八講(やっこう)とも呼んでいる。

金丸講の鉢巻姿はつとに有名だそうだ。

ヤドの座敷には行者像が納められた古い形の厨子が置かれ、祭壇が組まれている。

後方には行者像や理源大師などの掛け軸を所狭しに掛けられている。



厨子の前に置かれた屏風の裏面(表は不動明王や行者像)には現大先達の三代前の名が記されている。

60年ほど前に奉られたものだという。

夕方の貝が吹かれた一時間後、先達らや子供たちが集まってくる。

子どもたちを入れておよそ15、6人が集まったそうだ。

お勤めは1時間半ほど。

お下がりをいただいた子どもたちは自転車に乗って夜道を帰っていった。

座敷に残ったのは先達の人たち。

ビールとつまみで後宴の夜会に話が弾む。

「井戸野歴史は古い。講の記録帳は宝暦11年もんがあるし、お寺の涅槃図は相当な年代ものや。銭屋の跡地を掘ったら小判がザクザクやろ」などと次から次へと井戸野の話題が吹き出る。

回り講の営みを終えると行者厨子や掛け軸は次のヤドへ送られる。

回る日は次のヤドが都合のいい日。

決まったらヤドの人が車に乗せて次のヤドの家に運ぶ。

以前は次のヤドが都合のいい日に取りに来ていた。

しかし、半年経っても取りに来ないこともあったので渡しに替えたそうだ。

行者講は近隣の旧村である白土、大江、若槻、稗田、美濃庄、番匠田中、下と上三橋などがあるという。

いずれも行者像を納めた厨子があるらしい。

矢田山のほうでは横山。

市境北部の奈良市石木町にも同じようにあるという。

また、矢田寺の御坊のひとつである念仏院の寺前に行者講の名前が記された標があるという。

大和郡山一帯に亘っていた行者講。

共に同行して大峰山に登ることもあったそうだ。

(H22. 6.27 EOS40D撮影)

新幹線でGO

2010年08月05日 07時51分24秒 | もっと遠くへ
東京へ転勤した長男の様子伺いにかーさんが新幹線に乗ってでかけた。

私なんぞはもう10年も乗っていないのに、下関旅行から数えて2回目。

金曜の夜にでかけて東京で長男と落ち合うはずだったが、仕事が終わるのが深夜。

どころか泊まりになりそうだと直前に電話があった。

仕方なく切符を再手配して土曜の朝に出かけて行った。

11時には東京に着いて住むマンションにたどり着いたようだ。

(H22. 6.25 記)

三宅町の花アサザ

2010年08月04日 07時49分21秒 | 三宅町へ
度々訪問する石見。鏡作神社のさなぶりは前週日曜に終わっていたことを公民館の方に教えていただいた。

ふと下を見ればプランターに青々した植物が置かれている。

黄色い花が咲いていた。

万葉の花のひとつにあげられるアサザ。

色合いはキュウリの花と同じようだ。

花は朝に咲いて午後には萎む。

朝に咲くからアサザと名がついたというが、さてさて。

石見の各戸にはそのアサザが分けられて玄関口に植えているという。

自生地はどこだか判らない。

持って帰ってくださいと数株を分けてくださった。

アサザはスイレンと同じ浮葉性植物で多年生の水草。

地下茎のランナーが伸びて成長していく。

アサザは万葉の花。

当時はアザサと呼ばれていた。

「三宅乃原ゆ(みやけのはらゆ)」で詠まれたことから三宅町の花に指定されているが、準絶滅危惧種であるがゆえ大切に育てたい。

が、だ。

一か月を過ぎた。

根グサレだろうか絶滅した。

お詫びするしかない。

ちなみに石見の人たちは万葉詠みで「アザサ」と呼んでいる。

(H22. 6.25 EOS40D撮影)

大和田の田んぼで広がる話題

2010年08月03日 07時15分52秒 | 大和郡山市へ
田植え後の苗箱を洗っておられた77歳の男性と女性に尋ねてみた。

女性は下仁興の出身。

宵宮の子供相撲で盛り上がった。

尋ねたのは虫送りと思われる松明のことだ。

そないな、虫送りは見たことも聞いたこともないが、大きく立ち上っていく真っ黒ろけのやったら見たことあるという。

それはおそらく蚊柱。

ウンカなのかどうかは判らない。

藺生で聞いた話は聞き間違いだったのだろう。

大和田は登弥神社の氏子区域。

明治のころまでは北は二名町で南は法隆寺まであった広大な地域だったそうだ。

地区は平野の大念仏の信仰が厚い。

11月には如来さんがやってくる。

「ムギマキボウズ」が来たと言っていた。

かってムギ栽培していたから、丁度そのころにやってくる如来さんに親しみを込めていっていたそうだ。

二毛作は何十年も前にやめてその言葉は聞かれなくなったという。

大和田はかって二つの地区だった。

北はこわだ村で南がおおむかい村だった。

合併して地名も統合しておおわだ村になった。

現在は奈良市になっているが生活圏は大和郡山市だ。

富雄の小学校に行くのも主水山を抜けて九条駅へ。

そこからぐるりと電車に乗って登校したという男性。

富雄川を渡る橋はおおむかい橋と呼んでいる。

当時は板橋だったと話す。

男性は身体を壊すまではイチゴハウスを栽培していた。

そういえば、30年前に越してきたころは電照ハウスがたくさんあった。

そのころの大和田は電照の明かりばかり。

それが必要としなくなったイチゴに転換された。

それからは消えていって今では数か所。

男性はさらに語る。

手術をしてからはトマト栽培ぐらいになった。

毎日見かけるのはカラスの群れ。

栽培ゴミを置いて数分もたたんうちにあさりにくる。

カラスを見ないようになったとおもったら今度はアライグマ。

昨年に見たが今年はまだ。

天理のほうでもたくさん出没しているようだと話す。

昼間は見ない。

夜行性なのだろうがカラス以上に田んぼを荒らす。

カラスよりも凶暴性があるんで難儀やと言った。

観察会のうめちゃんの話では3年前の10月には明日香でくっきりとした足跡を発見していた。

その後、アライグマを疑わせる形跡は矢田丘陵で散見していたそうだ。

今年の6月13日にロードキルを発見した。

交通事故に遭った跋扈のアライグマに確証を得た。

昨年、今年とも時期状況が一致した。

一方、やまちゃん先生は天理街道(169号)の東側に居たアライグマが道路を超えて西側に移動したという。

自宅付近にも現れるようになった。

隣家に住みついたかもしれないという。

これも男性の話とほぼ一致する。

肉球と四本指の犬、猫、キツネ、タヌキ。アライグマの前足の足跡の特徴は指が五本。

違いは判別できる指数。

見かけたらそこに存在するわけだ。

(H22. 6.20 記)

長谷町の行事

2010年08月02日 08時22分35秒 | 奈良市(東部)へ
田原の里のひとつに長谷(ながたに)町がある。

白砂川の上流を遡っていくとそこが長谷町。

ムネデ、シミズガイト、ニシタニガイト、オクガイト、カイトワケからなる五つの垣内がある。

ムネデは峰出が訛ったものであろう。

山添村の峰寺の呼び方はムネデラだった。

現在はミネデラ。

ミネをムネと訛る傾向があるようだ。

こんな話をしたら自治会長さんは肯かれた。

それはともかくムネデから急こう配な山道を登りつめた地に日吉神社が鎮座している。

長老らの話では来週が虫祈祷。

塔ノ森参りを済ませてから神社で祭式。

8月の末には風の祈祷が行われるという。

神社で虫祈祷ははじめて聞いた。

虫供養の祈祷をあげているのは寺行事。

各地でみられるのはお寺さんだった。

それが長谷町では神社の行事。

橿原のほうから神職を迎えて行うという。

神仏混合であるのか、水間もそうであるというから神社事例は研究の余地がある。

興味深いのは風の祈祷だ。

村の人は手に手に笹竹を持って走り回るという。

本殿の周りを3周。

境内も3周。

走って風を巻きおこす。

天の災いや難を避けるというそうだ。

風を表現するにはモノが動くこと。

灯明の火が消えるのは風のせい。

風を造るのが扇ぎ。

写真表現と同じで「風」の表現は面白い。

ちなみに長谷町では五つの垣内ごとに庚申講がある。

旧暦閏年にされている庚申さん。

街道の傍らの庚申さんには桜井市の山間で行われているトアゲの花立てと形状が似ているものがある。

春の時期だというから同じ日であろう。

一つ違うのはそこに青竹で組まれた大きな鳥居があることだ。

長谷町は過疎化が進んでいる。

50軒あった町は十年ほどの間に32軒に減った。

子供はいない。

伊勢講や1月中旬に新年会を兼ねて行うコンピラ講もあるというが、行事を勤めていくのがとても難しいと自治会長は仰る。

(H22. 6.20 SB932SH撮影)