三日地蔵の風習が残っている奈良市丹生町。
地蔵さんを担いで次の家に持っていく。
入るのは玄関ではなくて縁側と決まっている。
地蔵さんは古くから伝わる厨子に納められている。
取っ手が付いている木製の食器箱も持っていく。
これは風呂敷に包んでいく。
中は瀬戸物の高坏が四杯。
ご飯やお茶を供える食器だという。
三日地蔵は女性の行事だが、力仕事の地蔵さん担ぎは男性が担うこともある。
家族が減って年老いた家人。
それを担ぐのは相当な力がいる。
テレビなどの報道がある際は女性が出ているが実際は男性が運ぶことも多くなってきたと当主のFさんは語る。
「担いでいかなあかんやろと思っている。見えないところでは男性が支えているのだ」と話される。
隣のばーさんが言うにはダイコン汁をお供えするのだという。
基本的には三日間、家に居てもらって参りをするのだが、家の都合とかで短くなったり長くなったりする。
一人住まいの家ではどうしているのか。
聞いてみなければと前置きされ、「飛ばしているのかもしれない」と話す。
現実に一日だけになっている家もあるらしい。
F家ではお供えのご飯は一日一回とは限っていない。
まして朝、昼、夜のときでもない。
家族が食べるご飯を炊いたときに供えている。
一般的にはご飯を炊くのは毎日とは限らない。
「どこの家でも残ったら炊かないでしょう。お櫃が空っぽになったら炊くのです」と話す。
三日地蔵の慣わしは明治時代初頭に政府が発令した「神仏分離令」の布告を受け廃仏毀釈運動からだという。
それは明治19年のことだった。
かつて丹生には七つのお寺があった。
それらは全村民が神道へと改宗しすべての寺を廃寺にされた。
数年前までお堂の跡があったが、それも消えた。
村からすっかり仏事が消えた。
一般的に行われている葬式はお寺さんだが丹生では神式になる。
神主がサカキを振って葬送の儀式を行う。
初七日は十日祭。
四十九日は50日祭になる。
一周忌は1年祭。
その後は一切なくて50年後に50年祭がある。
あるといってもそのころは年代も代替わりになっているのでまず行われることはないという。
儀式はすべてサカキのお祓い。
100年以上も続く神式の葬送。
儀式に気を遣うこともないが墓地はある。
今でも土葬の風習が残る丹生町。
共同墓地に担いでいくのは白い装束を着たオイと決まっている。
Fさんは工務店。
寝棺の棺桶も作っている。
卒塔婆は山の木を切って作っているそうだ。
丹生町は上組、中組、下組の三組。
組はそれぞれに三つの班で構成されている。
上組は元郡山藩、中組は地元柳生藩、下組は津の藤堂藩。
大昔のことだと前置きされて話されたのは「丹生はその字のごとく水銀がでた地。当時は相当裕福な地域だった」。
集まったら必ず出るのがお酒。
なにかあってもお酒。
雨の日に仕事はしない。
そのときは集まって宴会をしていた。
春と秋には道造りをする。
午前中の半日で終える。
後半は飲んで過ごす。
二次会、三次会と延々と飲み続ける。
自分の家で食べることが少なくて他人の家ばかりだとFさんは笑って語る。
そういう習慣の丹生の家の造りは田の字型。
正方形の座敷が四つ合わさった間取りだ。
襖を撤去すれば中央に柱が残るだけ。
大広間が誕生する。
それだけでは足らないので縁側は板の間でなく畳みになっている。
万年青年団も来るし、まだ足らないときは隣の家の座敷も借りる。
そこまで集まる人が多いということだ。
葬儀のときはまな板と包丁だけを持って隣家が支援していた。
たいそうだからとパック詰め料理になったのは世の流れ。
20年前に改正された。
F家では今年の3月に孫が誕生した。
長男の子供で初孫だという。
誕生後の100日目は「オクイゾメ(お喰い初め)」。
いわゆる歯固めの風習で、モチとセキハン(赤飯)を作る。
それは全国どの家でもされていることだ。
丹生では誕生の一年後にハツタンジョウの儀式がある。
一歳になった孫に、風呂敷で包んだひっくり返るほどの大きなモチを背負わせる。
一升モチの大きさは一生モチのシャレからきているらしい。
今は20cmぐらいの大きさになっている。
女の子の場合は少しモチは小さめにする。
玩具や野球、文具などの道具を入れた箕(み)を置く。
それを手にした子供は将来の職業を選んだことになる。
八島、鹿野園、古市などの平坦部に日笠町、天理の山間で行われている風習が丹生にある。
その初誕生の祝い日までの盆の日。
無事に子供が生まれた、ありがとうといってお礼に名前を書いたのし袋を三日地蔵に供える。
地蔵さんは子供の守り神でもある。
家の伝統行事は残さねばならないといってF家では10年間途絶えていた正月のイタダキサンを復活された。
お正月の若水を汲むことは続けていた。
それはオトコシがする。
オトコシは当主の男性。
ミカヅキサンやホシノモチやカチグリを並べた膳を両手で頭の上に捧げて拝む。
そこにはノシモチに生の現金を添える。
今年も増えますようにと祈る家の儀式だ。
雑煮はカシライモと呼んでいる大きなドロイモが入っている。
また祝いの席には大きな皿に焼き鯛を頭の上に捧ぐように持ち上げて右へ左へと揺らしながら踊る。
「ダイビキ」と呼ばれている作法は鯛が二尾。
皿は二枚になるので二人が伊勢音頭などの囃子に合わせて踊る。
他にも伊勢講やたのもし講もあったようだ。
いつのころか判らないがそれらは4、50年ほど前に消えてしまったそうだ。
(H22. 7. 4 記)
(H22. 7. 7 EOS40D撮影)
地蔵さんを担いで次の家に持っていく。
入るのは玄関ではなくて縁側と決まっている。
地蔵さんは古くから伝わる厨子に納められている。
取っ手が付いている木製の食器箱も持っていく。
これは風呂敷に包んでいく。
中は瀬戸物の高坏が四杯。
ご飯やお茶を供える食器だという。
三日地蔵は女性の行事だが、力仕事の地蔵さん担ぎは男性が担うこともある。
家族が減って年老いた家人。
それを担ぐのは相当な力がいる。
テレビなどの報道がある際は女性が出ているが実際は男性が運ぶことも多くなってきたと当主のFさんは語る。
「担いでいかなあかんやろと思っている。見えないところでは男性が支えているのだ」と話される。
隣のばーさんが言うにはダイコン汁をお供えするのだという。
基本的には三日間、家に居てもらって参りをするのだが、家の都合とかで短くなったり長くなったりする。
一人住まいの家ではどうしているのか。
聞いてみなければと前置きされ、「飛ばしているのかもしれない」と話す。
現実に一日だけになっている家もあるらしい。
F家ではお供えのご飯は一日一回とは限っていない。
まして朝、昼、夜のときでもない。
家族が食べるご飯を炊いたときに供えている。
一般的にはご飯を炊くのは毎日とは限らない。
「どこの家でも残ったら炊かないでしょう。お櫃が空っぽになったら炊くのです」と話す。
三日地蔵の慣わしは明治時代初頭に政府が発令した「神仏分離令」の布告を受け廃仏毀釈運動からだという。
それは明治19年のことだった。
かつて丹生には七つのお寺があった。
それらは全村民が神道へと改宗しすべての寺を廃寺にされた。
数年前までお堂の跡があったが、それも消えた。
村からすっかり仏事が消えた。
一般的に行われている葬式はお寺さんだが丹生では神式になる。
神主がサカキを振って葬送の儀式を行う。
初七日は十日祭。
四十九日は50日祭になる。
一周忌は1年祭。
その後は一切なくて50年後に50年祭がある。
あるといってもそのころは年代も代替わりになっているのでまず行われることはないという。
儀式はすべてサカキのお祓い。
100年以上も続く神式の葬送。
儀式に気を遣うこともないが墓地はある。
今でも土葬の風習が残る丹生町。
共同墓地に担いでいくのは白い装束を着たオイと決まっている。
Fさんは工務店。
寝棺の棺桶も作っている。
卒塔婆は山の木を切って作っているそうだ。
丹生町は上組、中組、下組の三組。
組はそれぞれに三つの班で構成されている。
上組は元郡山藩、中組は地元柳生藩、下組は津の藤堂藩。
大昔のことだと前置きされて話されたのは「丹生はその字のごとく水銀がでた地。当時は相当裕福な地域だった」。
集まったら必ず出るのがお酒。
なにかあってもお酒。
雨の日に仕事はしない。
そのときは集まって宴会をしていた。
春と秋には道造りをする。
午前中の半日で終える。
後半は飲んで過ごす。
二次会、三次会と延々と飲み続ける。
自分の家で食べることが少なくて他人の家ばかりだとFさんは笑って語る。
そういう習慣の丹生の家の造りは田の字型。
正方形の座敷が四つ合わさった間取りだ。
襖を撤去すれば中央に柱が残るだけ。
大広間が誕生する。
それだけでは足らないので縁側は板の間でなく畳みになっている。
万年青年団も来るし、まだ足らないときは隣の家の座敷も借りる。
そこまで集まる人が多いということだ。
葬儀のときはまな板と包丁だけを持って隣家が支援していた。
たいそうだからとパック詰め料理になったのは世の流れ。
20年前に改正された。
F家では今年の3月に孫が誕生した。
長男の子供で初孫だという。
誕生後の100日目は「オクイゾメ(お喰い初め)」。
いわゆる歯固めの風習で、モチとセキハン(赤飯)を作る。
それは全国どの家でもされていることだ。
丹生では誕生の一年後にハツタンジョウの儀式がある。
一歳になった孫に、風呂敷で包んだひっくり返るほどの大きなモチを背負わせる。
一升モチの大きさは一生モチのシャレからきているらしい。
今は20cmぐらいの大きさになっている。
女の子の場合は少しモチは小さめにする。
玩具や野球、文具などの道具を入れた箕(み)を置く。
それを手にした子供は将来の職業を選んだことになる。
八島、鹿野園、古市などの平坦部に日笠町、天理の山間で行われている風習が丹生にある。
その初誕生の祝い日までの盆の日。
無事に子供が生まれた、ありがとうといってお礼に名前を書いたのし袋を三日地蔵に供える。
地蔵さんは子供の守り神でもある。
家の伝統行事は残さねばならないといってF家では10年間途絶えていた正月のイタダキサンを復活された。
お正月の若水を汲むことは続けていた。
それはオトコシがする。
オトコシは当主の男性。
ミカヅキサンやホシノモチやカチグリを並べた膳を両手で頭の上に捧げて拝む。
そこにはノシモチに生の現金を添える。
今年も増えますようにと祈る家の儀式だ。
雑煮はカシライモと呼んでいる大きなドロイモが入っている。
また祝いの席には大きな皿に焼き鯛を頭の上に捧ぐように持ち上げて右へ左へと揺らしながら踊る。
「ダイビキ」と呼ばれている作法は鯛が二尾。
皿は二枚になるので二人が伊勢音頭などの囃子に合わせて踊る。
他にも伊勢講やたのもし講もあったようだ。
いつのころか判らないがそれらは4、50年ほど前に消えてしまったそうだ。
(H22. 7. 4 記)
(H22. 7. 7 EOS40D撮影)