推古神社の年中行事を行っているのは一年間氏神を守る当家だ。
それは北町から3人、南町から1人、それぞれ年齢順で選ばれている。
4人の並びも年来順。
長老が1番当家でその次が2番当家で3番、4番となる。
額田部北町はおよそ500軒、南町は100軒ぐらいだそうだ。
その家の総てが当家を勤めるわけでもない。
男性当主が居る家と決まっているから数はそれほど多くないという。
引っ越してきた家、婿養子に迎えられた家で村入りを認められた家も含まれる。
今年の1番当家はNさん62歳。
4人のうち二人は村入りした人だ。
秋祭りがたいそうだという。
分霊を祀るお仮屋造りからウツシマワシ。
それから一週間は当家の家で分霊を祀る。
神社の祭りの日は9、10日と決まっていた。
10日と言えば体育の日。
ところがハッピーマンデーになってからは日程が毎年変わる。
今では体育の日の前日を本宮とし、その前夜をヨミヤとしている。
その夜は氏子たちがお参りに来る。
参拝者を鈴で祓うのは平群の巫女さん。
ウツシマワシは1番から4番当家まで一軒ずつ宮司が分霊遷しをされる。
それぞれのお家が離れているものだからそうとう時間を要する場合もある。
その際に宮司を案内するのは4番当家。
1番、2番、3番のウツシマワシを終えてようやく4番当家になるのだから一日仕事だそうだ。
ヨミヤは特別なことは行われないが本宮はお渡りがある。
当家本人は何も持たないが先頭を歩く息子は大きな御幣を持つ。
その後は当家の孫男児。
根付きの稲束をヤナギの木に掛けて担ぐ。
後方は親兄弟から親戚一同の親族がずらりと並んでお渡りをする。
かつては着物姿の婦人も見られたそうだ。
こうしてお渡りをするのは白装束を着た親子三世代。
代々とも後継者が居るのですと地区の人にお披露目をするようなことらしい。
春日神社、五社さんへ巡拝して推古神社にやってくる。
こうして当家の一年間のお勤めを終える。
実際は1ヶ月まえから引き継ぎを行うので実質は13カ月になるそうだ。
正月を飾る注連縄造りは正月前の日曜日。
自治会役員とともに朝から作るそうだ。
その夜は年越し迎えのとんど焼き。
ユンボで穴掘りして、雑木をそこに置く。
正式なとんどは1月31日だがなんとなく2度あるように感じた。
額田部はかって砂の道を敷いていた。
各家がそれぞれに佐保川から砂を掬って運んだ。
それを箕で撒いていた。
各家がするので道は繋がって長くなった。
昭和30年代のことらしい。
そのころ神社で撒いていたかどうかは覚えていないという。
桃の一大栽培地でもあった額田部。
昭和団地ができあがってすべてが消えた。
当時子供だった1番当家のNさんは冬の間は桃を出荷する箱を作っていた。
家族の一員となって作業していたそうだ。
(H23. 2. 3 記)
(H23. 1. 2 SB932SH撮影)
それは北町から3人、南町から1人、それぞれ年齢順で選ばれている。
4人の並びも年来順。
長老が1番当家でその次が2番当家で3番、4番となる。
額田部北町はおよそ500軒、南町は100軒ぐらいだそうだ。
その家の総てが当家を勤めるわけでもない。
男性当主が居る家と決まっているから数はそれほど多くないという。
引っ越してきた家、婿養子に迎えられた家で村入りを認められた家も含まれる。
今年の1番当家はNさん62歳。
4人のうち二人は村入りした人だ。
秋祭りがたいそうだという。
分霊を祀るお仮屋造りからウツシマワシ。
それから一週間は当家の家で分霊を祀る。
神社の祭りの日は9、10日と決まっていた。
10日と言えば体育の日。
ところがハッピーマンデーになってからは日程が毎年変わる。
今では体育の日の前日を本宮とし、その前夜をヨミヤとしている。
その夜は氏子たちがお参りに来る。
参拝者を鈴で祓うのは平群の巫女さん。
ウツシマワシは1番から4番当家まで一軒ずつ宮司が分霊遷しをされる。
それぞれのお家が離れているものだからそうとう時間を要する場合もある。
その際に宮司を案内するのは4番当家。
1番、2番、3番のウツシマワシを終えてようやく4番当家になるのだから一日仕事だそうだ。
ヨミヤは特別なことは行われないが本宮はお渡りがある。
当家本人は何も持たないが先頭を歩く息子は大きな御幣を持つ。
その後は当家の孫男児。
根付きの稲束をヤナギの木に掛けて担ぐ。
後方は親兄弟から親戚一同の親族がずらりと並んでお渡りをする。
かつては着物姿の婦人も見られたそうだ。
こうしてお渡りをするのは白装束を着た親子三世代。
代々とも後継者が居るのですと地区の人にお披露目をするようなことらしい。
春日神社、五社さんへ巡拝して推古神社にやってくる。
こうして当家の一年間のお勤めを終える。
実際は1ヶ月まえから引き継ぎを行うので実質は13カ月になるそうだ。
正月を飾る注連縄造りは正月前の日曜日。
自治会役員とともに朝から作るそうだ。
その夜は年越し迎えのとんど焼き。
ユンボで穴掘りして、雑木をそこに置く。
正式なとんどは1月31日だがなんとなく2度あるように感じた。
額田部はかって砂の道を敷いていた。
各家がそれぞれに佐保川から砂を掬って運んだ。
それを箕で撒いていた。
各家がするので道は繋がって長くなった。
昭和30年代のことらしい。
そのころ神社で撒いていたかどうかは覚えていないという。
桃の一大栽培地でもあった額田部。
昭和団地ができあがってすべてが消えた。
当時子供だった1番当家のNさんは冬の間は桃を出荷する箱を作っていた。
家族の一員となって作業していたそうだ。
(H23. 2. 3 記)
(H23. 1. 2 SB932SH撮影)