マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

額田部推古神社の行事

2011年03月21日 08時08分35秒 | 大和郡山市へ
推古神社の年中行事を行っているのは一年間氏神を守る当家だ。

それは北町から3人、南町から1人、それぞれ年齢順で選ばれている。

4人の並びも年来順。

長老が1番当家でその次が2番当家で3番、4番となる。

額田部北町はおよそ500軒、南町は100軒ぐらいだそうだ。

その家の総てが当家を勤めるわけでもない。

男性当主が居る家と決まっているから数はそれほど多くないという。

引っ越してきた家、婿養子に迎えられた家で村入りを認められた家も含まれる。

今年の1番当家はNさん62歳。

4人のうち二人は村入りした人だ。

秋祭りがたいそうだという。

分霊を祀るお仮屋造りからウツシマワシ。

それから一週間は当家の家で分霊を祀る。

神社の祭りの日は9、10日と決まっていた。

10日と言えば体育の日。

ところがハッピーマンデーになってからは日程が毎年変わる。

今では体育の日の前日を本宮とし、その前夜をヨミヤとしている。

その夜は氏子たちがお参りに来る。

参拝者を鈴で祓うのは平群の巫女さん。

ウツシマワシは1番から4番当家まで一軒ずつ宮司が分霊遷しをされる。

それぞれのお家が離れているものだからそうとう時間を要する場合もある。

その際に宮司を案内するのは4番当家。

1番、2番、3番のウツシマワシを終えてようやく4番当家になるのだから一日仕事だそうだ。

ヨミヤは特別なことは行われないが本宮はお渡りがある。

当家本人は何も持たないが先頭を歩く息子は大きな御幣を持つ。

その後は当家の孫男児。

根付きの稲束をヤナギの木に掛けて担ぐ。

後方は親兄弟から親戚一同の親族がずらりと並んでお渡りをする。

かつては着物姿の婦人も見られたそうだ。

こうしてお渡りをするのは白装束を着た親子三世代。

代々とも後継者が居るのですと地区の人にお披露目をするようなことらしい。

春日神社、五社さんへ巡拝して推古神社にやってくる。

こうして当家の一年間のお勤めを終える。

実際は1ヶ月まえから引き継ぎを行うので実質は13カ月になるそうだ。

正月を飾る注連縄造りは正月前の日曜日。

自治会役員とともに朝から作るそうだ。

その夜は年越し迎えのとんど焼き。

ユンボで穴掘りして、雑木をそこに置く。

正式なとんどは1月31日だがなんとなく2度あるように感じた。

額田部はかって砂の道を敷いていた。

各家がそれぞれに佐保川から砂を掬って運んだ。

それを箕で撒いていた。

各家がするので道は繋がって長くなった。

昭和30年代のことらしい。

そのころ神社で撒いていたかどうかは覚えていないという。

桃の一大栽培地でもあった額田部。

昭和団地ができあがってすべてが消えた。

当時子供だった1番当家のNさんは冬の間は桃を出荷する箱を作っていた。

家族の一員となって作業していたそうだ。

(H23. 2. 3 記)
(H23. 1. 2 SB932SH撮影)

額田部推古神社年越し

2011年03月20日 09時05分29秒 | 大和郡山市へ
2月4日は立春。

暦のうえでは春である。

その前日はいわずとしれた節分の日だ。

昼間の気温は上昇し続けて10度近くまでなったが日が落ちるころには急カーブの下降線。

朝晩の冷え込みはさほど変わらない。

1月31日はとんどの日だった額田部の町。

かつては北の町に三カ所あったそうだが、南の町だけは推古神社境内で行われている。

温かい火を求めて十数人が来たそうだ。

それを終えて年末にユンボで掘ったとんど場の穴は元に戻された。

ちなみに北町は1月15日の朝に行っていたそうだ。

とんどを作るのは子供だった。

モチを焼いて食べていたと1番当家は回想される。

古くは立春を正月新年としていた。

節分の日から立春の新年へ。

年を越す日である節分の日。

年越しそばは見られないが節分につきものの大豆が推古神社祭壇に出現する。

とは言っても鬼が現れるわけでもないから豆撒きにする豆でもない。

半紙に包まれた豆は各家から訪れた参拝者が持ち寄ったもの。

始めの豆袋(10個ほど)は当家が用意しておく。

それは炒った豆(15粒ほど)だそうだ。

氏神さんに手を合わせてお参りする。

そして祭壇にその包みを置く。

それはオヒネリの形だ。

持って来たローソクに火を点けて奉る。

そのときに手にしたのは先に供えられた人さまのオヒネリ。

それを手にして持ち帰る。

まるで交換しているかのようだ。


当家が用意したお神酒をいただく人も居る。

持って帰らない人も居る。

こうしてオヒネリの数は徐々に増えていった。

ときには大きな袋を持ち込む人も居た。

中身はと言えば家族の人数分のオヒネリが入っているという。

それは歳の数だけ豆がある。

誰のか判るように名前を記している。

さすがにそれは交換するわけにはいかない。

お参りを済ませばそのまま年越しの豆を持って帰った。

参拝者が訪れなくなったとこを見届けて年越し行事の幕を締める。

供えられた豆は拝殿辺りに撒いて帰宅につくそうだ。

(H23. 2. 3 EOS40D撮影)

手向山八幡宮御田植祭

2011年03月19日 07時37分05秒 | 奈良市へ
2月節分の日に行われる手向山八幡宮の御田植祭は、豊作を祈願する川上町、雑司(ぞうし)町の農家組合の行事でもある。

両町は50軒ほどだが、サラリーマンになった農家もあることから、専業農家は減少し続け今や畑作を営む農家は数軒となったそうだ。

旧正月のころに営む御田植えの行事は豊作を予め祈る行事である。

宮司は農耕所作を行う前に本殿の前で神事を執り行う。

境内には農耕の所作をする登場人物が勢揃い。

翁の面をつけた田主、牛に扮した牛童(うしわらわ)、巫女、農家組合の人たちだ。

神官、幣をつけた笹竹を持つ人を先頭に歩き出した。



田主は牛を操る紐を持っている。

それは牛童に繋がっているのだ。

境内を南に向かい一周して正面から拝殿に登っていく。

これから始まる御田植祭は中世にまで遡る歴史をもっているとされ、江戸時代後期の様子を描いた絵巻物が伝わっている。

田主と地方との掛け合いは能楽の形式をとる謡いである。

まずは、社殿と拝殿の間に降りた田主。

両側に若松を立てた処は水口に見立てた水路であろう。

そこに大豆、切り餅、籾種を供える。



シンバルのような小さな拍子(奈良ではチャンポンと呼ばれることが多い)を叩き、鼓を打つ。

水口祭を終えれば「本日は最上吉日。なればこれから鍬始めをする」と口上を述べて農耕の所作を始める。

田主は「打出の小槌」と口上を述べながら鍬を持って田を耕す。

地方は「はるかや さよの」と応える。

左に右にそして中央へ「打出の小槌」、「はるかや さよの」の所作は三度。

次の口上は「打て候へば、天下泰平、宝作長久、国土安穏、五穀成就、社頭尊厳、氏子繁昌と打よせて候」。

「目出度う候」と地方は応える。

万民の願いがここに打ち寄せられる。

打ち耕した田からは「こしき飯」や「ふる酒」の香りがぱぁーとしたと台詞もはいる。

鍬使いはまさしく稲穂実る打出の小槌なのであろう。

そして登場したのが牛の面を付けた牛童。

田主は鍬から鋤に持ち替えた。

「田を打て候へば牛をつかひ候」と述べて牛を追う。

拝殿を二回廻る牛使い。



モウー、モウーと鳴き声をあげる牛童。

あどけない声で発する。

続いて田主は鋤からエブリに持ち替えた。

左、右、正面へと田を均す。

次の所作は肥えやりだ。



葉で象った天秤棒の肥桶を肩に担いで拝殿を一周する。



そして持ち替えた福桶。

これを左脇に抱えて「福の種蒔うよう」と種を蒔く。

地方はそれに合わせて「福の種蒔うよう」と謡う。

拍子を叩き、鼓をうつ。

まことに格調高い謡である。

福の種は東の田、南の田、西の田、北の田、当地である川上の田から、そして日本の国へ蒔うよう。

所作はまだまだ続く。

次に田主は鋤を肩にして拝殿を一周する。

「見廻って候へば つばめ口になって候」、次に扇を手に腰に着けて「さら竹になって候」と口上する田んぼの見回り。

畦塗りの状況を見回っているのだろう足下に目線がいく。

いよいよ御田植えも終わりに近づいた。

「見廻って候へば 取り時になって候」、「早乙女子をしょうじ申て候」と口上を述べる田主。

稲刈りには相当数の人数がいるのであろう「東の国より八百人」、「西の国・・・南の国・・・北の国・・・合わせて三千二百人の早乙女子をしょうじ申して候」と述べて松苗を神前に捧ぐ巫女が登場する。



最後に扇を広げて目出度い御田植行事が終了したことを格調高く謡いあげた。

この行事は平成7年4月12日に奈良市の文化財に指定されている。



そのあとは平生に戻ったかのような喧噪に包まれる福の豆蒔き。

自我の欲が自然ともらう手に現れる。

(H23. 2. 3 EOS40D撮影)

井戸野町旧正月のとんど

2011年03月18日 08時14分00秒 | 大和郡山市へ
井戸野町の氏神さんは八幡神社。

その境内に設えたとんど場。

丸い円を描いた砂盛り。

それは土俵のような形になった。

お正月を飾った大注連縄やゴンボと呼ばれる注連縄などはあらゆる箇所から外されてとんど場に置かれた。

万が一のために火消しのホースも準備している。

神さんに尻を向けたらとんでもないと本殿の方角に向けて火を点けた。

またたくまに燃え上がったとんどの火はまだ夜明けの闇を焦がしていく。

日の出間近の時間帯だ。

それらの作業をするのは自治会の神社係の役員たち。

古くなった神社用具の箒や熊手なども一緒に燃やされた。

勢い激しく天へ登るとんどの炎。

燃えさかるころ、地域の人たちは自宅で飾った注連縄や御札などを持ってきた。

次々と投入する。



珍しい形の大注連縄も見られる。

数軒では簾型の注連縄を作っているのだ。

先代から継いで作っている大注連縄はとんどの火よりも長くはみ出してしまった。

ペラペラのめくれ上がる書がある。

子供たちが書き初めした書が炎に包まれる。

上空まであがると上達するとされるのだが肝心の子供の姿はない。

そろそろ登校の時間なのだ。



神社は集団登校の集まる場所。

ランドセルを背負った十数人が集まった。

それを見た役員たち。

子供のときにはサツマイモを焼いていた。

それができあがってから登校したことを思い出された。

かつてはモチも焼いていたという。

境内は子供の遊び場所だった。

それは今でも変わらないが遊び方が変化した。

現代は機械的なゲームに熱中する。

40年も前は「ドウマ」をしていた。

一人目の股に頭をつっこむ。

お尻を突き出すような格好になる。

次の子はそのお尻に顔をつっこむ。

次々と顔をつっこむと「馬」ができあがる。

走っていって跳び箱のように胴の上に跨る。

乗り込む人数は一人ではない。

何人も何人も跳んで胴にのる。

おっせ、おっせすれば体重が加わって絶えきれず胴が崩れる。

それで負けだ。

人間の胴が馬のようになるので名付けられたと思われる「ドウマ」。

子供時代に育った大阪市内でもそれをしていた。

身体をはる子供の遊びは奈良も大阪も同じだった。

神社横の常福寺の先々々代の住職はタコを作っていたそうだ。

墨一色で描いたタコ。

竹籤で編んで紙をノリ付けする。

足は新聞紙だった。

それは強風ですぐに破ける。

そのときにはワラで修繕する。

そんな遊びをしていたなと懐かしく話された。

そうこうしているうちに正月飾りを持ち込む人の足が止まった。

片付けは境内を元の状態に戻すことだ。

水を撒いて完全消火、境内の砂を覆って綺麗にする。

そうして旧正月のとんどを終えた。

(H23. 2. 2 EOS40D撮影)

伊豆七条勝福寺尼講朔日参り

2011年03月17日 07時36分50秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市伊豆七条町は40軒ほどある。

そのうちの20軒からやってきたお歳をめした婦人たち。

この日は毎月営まれているお念仏の日。

ついたち(朔日)は無住寺の勝福寺に集まってお念仏を唱えるのだ。

婦人たちは尼講と呼ばれている集団。

仕事をもっている人もいるので15人ぐらいはいつも集まるそうだ。

年齢からいっておばあちゃん講とも呼ばれている。

大和では観音講などの念仏を唱える集団をそう呼ぶことは珍しくない。

この日の夜は初集会にもなっている会場。

座りやすいように椅子が備えられている。

3人の当番の人が花を飾ったご本尊は阿弥陀如来さんだ。

灯明に火を点けてお念仏が始まった。



僧侶がいなくとも先導するお経はカセットテープ。

それに合わせて唱える念仏は融通念仏。

地区は融通念仏の宗派なのだ。

毎年11月9日は大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる。

ご一統の家が多いだけにご回在にはそうとうな時間がかかるという。

「なーむあみだーぶーつ、なーむあみだーぶーつ」とお念仏。

会所内には婦人のたちの念仏に包まれた。

それらを終えると般若心経を唱える。

一人の導師が前の席に座って木魚を叩く。

それに合わせて心経を唱える。

朔日参りのお念仏はこうして終えた。



お下がりのお菓子とお茶で雑談会。

わずかな時間は息抜きの放談会。

普段は滅多に顔を合わせることもない。

月に一回はこうして集まり、話題の絶えないコミュニケーションの場なのであろう。

笑顔で会場が満開になった。

尼講の集まりは毎月朔日とも限らない。

春と秋のお彼岸、11月の十夜は重なる月なので朔日参りはしない。

その日は天理市の六条から住職を迎えて法要をする。

そのときは会食をする。

かつてはイロゴハンを作って食べていた。

ホウレンソウのおひたしなど一品を添える。

それが食事の内容だった。

作るのもたいそうになってきたので今はパック詰め料理になった。

イロゴハンを止めた直後はパン食だった。

口にどうもあわないことから仕出し料理にしたそうだ。

(H23. 2. 1 EOS40D撮影)

矢田坐久志玉比古神社筒粥占祭

2011年03月16日 07時31分37秒 | 大和郡山市へ
神事形式を調えてきた矢田坐久志玉比古神社筒粥占祭。

数年前までは参拝者も直にその作法を拝観することができた。

本来は豊作を願う氏子のための行事である筒粥占祭である。

大らかな時代は過ぎ去り格調高い儀式へと移りかわった。

拝殿と本殿下の間には釜が設えられ現代的なガス火で湯を沸かす。

これは変わっていない。

それはともかく氏子役員たちは拝殿に登って一列に座った。

祭壇にはこれから占う竹筒が奉られているが釜と同じように座席の隙間の向こう。

遮られているという表現は好ましくないが、ときおり勢いのある風が厳かな場を通り過ぎていく。

奉られた竹筒は釜に入れられた。

それからは待つことしばし。

取り出す時間は決まっていないようだ。

お声があがって釜からだされた。

氏子たちに囲まれた竹筒は1本ずつ刃が入って割っていく。

実は竹筒の束は二つある。

一組は12本の束。

もう1組は22本の束で稲作や野菜などの出来映え占う。

最初の竹筒は一年間の天候を占う。

粥の入り具合で歓声があがる。

多くても少なくても歓声というかどよめきが聞こえてくる。



それを判定するのは宮司だ。

「よし」と言って印を付ける。

続けてもう1組を開いていった。

これも同じように歓声があがる。

「今年はモチ米や白菜、イモなどの根菜類が豊作や、柿は2年続きで不作や」と神さんのお告げに一喜一憂する。

その結果は神社の掲示板に貼りだされる。

(H23. 2. 1 EOS40D撮影)

登弥神社筒粥祭筒開き

2011年03月15日 08時35分19秒 | 奈良市へ
奈良市の無形民俗文化財に指定(昭和57年3月1日)されている登弥神社の筒粥祭。

数時間前に投入された竹筒が取り出された。

それを見守る氏子たち。

奈良市の石木町、大和田町、大和郡山市の城町(旧城村の東城、西城、主水山)の3カ大字の氏子だ。

筒粥が炊き上がるまでは凡そ1時間半もかかった。

取り出した竹筒は祭壇に供えられる。

湯気が立ち上がっている。

その後に行われるのが筒開きの神事。

列席者は拝殿に登った。

太鼓打ちで始まり、太鼓打ちで終えた。



場は転回して竹筒を1本ずつ取り上げて包丁で割く。

粥はどんな具合になっているか、1本目は特に緊張して開かれる。

皿に盛られた筒開きを覗き込む宮司。

いっぱい詰まっていれば「上々」それより少なければ「上」と、量によって宮司が判定する。

37種類の作物の豊凶を神さんが占った結果は作付け奉書に記す。

周辺農家の人たちはそれを手書きしていく。

作付け、栽培収穫した結果はどうだったのだろうか。

その評価をする行事は見あたらない。

(H23. 2. 1 EOS40D撮影)

企画展列品解説2

2011年03月14日 08時50分50秒 | 民俗を語る
取材先の人たちが行ってみたいと言っておられたので2回目の企画展列品解説にも出かけた。

一人は井戸野のお渡りに登場している人だ。

撮影しているときにその人の顔を発見して「あれまぁ、奇遇だこと」と交わしたことを覚えている。

仕事先にも関係していただけにどこにご縁があるか判らない。

お寺のことも当然ながらご存知だけに発見された旧鉦講の鉦に興味をもたれる。

お寺はそれまで4代も替わっている。

いつのころか覚えてないが鉦は本堂にあったという。

子供のときには行者講のホラ貝を吹いていたそうだ。

そして観音講のことも。

写真を挿して「あの人は亡くなりはったけど103歳の婦人は今でも元気でテレビ番組にも出演していた」と話す。

そのコーナーには東明寺の観音講も紹介していた。

実はここが母親の出身地のN家なのだ。

写っている人もよく知っていると話す。

奇遇な縁(えにし)はさらに増幅することになったのだ。

もう一組は白土のKさんご家族。

子どもたちと連れだって来館してくれた。

夏の暑い盛り。

念仏講の取材にはたいへんご協力をいただいた。

熱心に列品解説を録画収録されている。

子供の念仏講は奈良県内に見られる念仏のなかでも極めて珍しいと解説される。

大人の念仏講よりもさらに古い記録が残っている子供の念仏講。

古文書や鉦の刻印から二百七十余年も続いているようだ。

その解説を聞いKさんは驚きを隠せない。

「それほど古いものだとはまったく知らなかった。子供のときからしていたことだし、気にかけてもいなかった。解説を聞いて重要性が判った」と話す。

井戸野の人も同じことをいう。

「昔からしていることやし、することが当たり前やと思っていた」と・・・。展示の品々や写真を見ているだけではそれらは伝わってこない。「すぅーっと通り過ぎてしまうだけだった。この日に来たことはとてもよかった。」と話す突然の来館者。

農具の展示とは違って行事の展示にはひと工夫もふた工夫もいるのではないかと思った。

それを少しでも補おうとしたのが動画である。

熱心に見入っている人を拝見すると嬉しくなる。

その一人は矢田在住の男性。

明日にとんどがあるという。

その地区では1月31日だそうだ。

竹を伐採して火点けの豆ガラを準備しているという。

そういえば15日明けに矢田付近のたんぼを調べてみたらその証しがあったのだ。

話しではそことも違う垣内のようだ。

数カ所があるらしい。

2月の立春明けの日曜にしている地区もあるという。

城町の主水山もそうで、2月1日辺りに行われるとんどがある。

展示写真でも紹介したが番条町では2日と決まっている。

旧暦正月にしている地区があるということだ。

調査対象がますます広がっていく大和郡山の行事。

取材が「これで終わり」だという目処はいつやってくるのだろうか。

(H23. 1.30 SB932SH撮影)

スーパートライアル

2011年03月13日 08時01分27秒 | あれこれテイクアウト
次男が運転する車でかーさんが出かけたスーパーセンター。

店の名前はTRIAL(トライアル)だ。

ときおり次男がそこで買い物をするそうだ。

そこはものすっごく安いのでよく行くらしい。

そんな話を聞いたかーさんは連れてってほしいと願っていった。

安かったからとーさんも行く?と言われて私もでかけたTRIAL。

そこらにあるスーパーと変わりない。

品ぞろえ多くてなかにはたしかに安いのがある。



とびきり安価だと思ったのが弁当だ。

いろんな種類の弁当を目が追いかける。

400円近い弁当もあるが、どれもこれもの250円の値札に感動した。

翌月にはわざわざ買いに行った。

中華弁当を食べてみたら遜色ない味。

おかずの量も多くてお値打ち品。

その後、かーさんはポイントカードを作った。

(H23. 1.30 SB932SH撮影)

ねんきん

2011年03月12日 07時37分57秒 | ぽつりと
昨年の10月ころに「ねんきん定期便」が届いていた。

これまでにも届いていた定期便の内容に洩れはない。

厚生年金保険は485ケ月、国民年金の加入月数が10ケ月。

これは平成14年秋に早期定年で辞めたときに払っていた月数だ。

二つは合算されて計算される。

長年勤めてきた41年間の証しだ。

60歳に到達すれば老齢厚生年金が支給される。

いわゆる報酬比例部分である。

それから5年後の65歳になれば経過的加算部分が付加される。

そこに老齢基礎年金が加わる。

いわゆる2階建ての構造だと叫ばれている部分だ。

そのころの額であれば生活はさほど苦しくない。

5年間は長い待ち期間。

とはいってもそれまでは老齢厚生年金額しかない。

月額は7年8ヶ月勤めてきた臨時職員の日々雇用給与とさほど変わりない。

早期定年後はその給与額で暮らしてきた。

貧困生活には慣れている。

年金請求の申請は誕生日である。

9年前、早期定年で辞めたときに訪れた社会保険事務所。

久しぶりだ。

手続き書類が間違っていたらなにもならない。

記入した書類に漏れがないか、先に到達したかーさんがたっぷりと点検してくれた。

必要な添付書類の一覧もこさえてくれた。

何事も先駆者がいると助かる。

市役所へ出向いて戸籍謄本、住民票、所得証明書を入手した。

銀行へ行って金融機関の証明をしてもらった。

他に持っていくものに雇用保険被保険者証。

かーさんの年金証書や年金手帳、家族の健康保険証などはコピーで構わない。

一式を揃えて事務所に行った。

待ち時間は1時間だった。

60歳を過ぎても働くことができるようだ。

最大月数は528ケ月。

40ケ月は加算することができるが、厚生年金が付く事業所はおそらくないだろう。

市の施設での臨時職員は3月末で契約が切れる。

アルバイト延長もない。

60歳を超えると契約しない。

行政機関と同じようにしないというわけだ。

市職員ならば減額はされるもののさらに延長して勤めることができる。

臨時職員にはそれができないという市人事の通告で3月末のお払い箱となる。

相方はシルバー人材登録を経て継続雇いになるという。

給与の2割りはシルバー人材の手数料で引かれるのは仕方ないと語る相方。

ただ私にはその請負指令はない。

休んだときの手配ができないとかいうが、疑問が残る・・・。

それはともかく健康保険は任意継続できる。

国民健康保険よりは支出が少ないのでその対応をしなくてはならない。

いずれにしても4月にはハローワーク通いになることは必至である。

忘れそうになったのが企業年金だ。

忘れる。

それもそのはず40年も前のことだ。

高校を卒業して初めて勤務した工場。

9ケ月という僅かな期間だったが先輩たちや寮生活での思い出がいっぱいある。

あれから40年。

それぞれ引退されていることだろう。

その9ケ月はその会社の基金連合会。

本社に連絡すれば解散したそうだ。

引き継いだのが企業年金連合会だった。

老齢年金裁定請求書に必要事項を記入、金融機関の証明の住民票を添付し送付した。

期間が短いだけにほんまに額は少ない。

10円より多いことはたしかだけど・・・当時の物価高が悲しい。

申請した結果は翌月の26日に「国民年金・厚生年金保険年金証書」が届いた。

被保険者期間は488月とあり、月額は11万円程度とある。

さらに、5月には加入者ではなくなったので再計算され6月6日に「年金決定通知書・支給額変更通知書」が届いた。

それによると被保険者期間が491ケ月であって、期間は3ケ月増えたが、支給額が3400円も下がっとるやないか。

こりゃ掛け損かいな。

どういうこっちゃ。

翌日の新聞に年金相談コーナーに記載されていた記事でそれは判明した。

平成23年度が5年ぶりに「年金の物価スライド」が実施されるという記事だ。

今月の振込から全ての受給者に対して年金額が0.4%減額される。

実際に減るのは老齢基礎年金が満額の人らしい。

物価スライドは物価の下落に伴う措置だと・・・。

答えは判ったがやはり確かめなくてはと社会保険事務所に出向いた。

待つこと40分、その通りの結果であった。

年金の見直しは毎年されているのだが、減額されたのが5年ぶりだというがそれにしてもこの通知書には一切そのことが記載されていない。

4月15日付けで「年金振込通知書」が届いていた。

そのときはあまり気にしていなかった年金額。

実際に少なくなっていたのだ。

2ケ月割りをしているのかと思っていたのだ。

その通知書にも物価スライド減額のことは一切書かれていない。

今回の「年金決定通知書・支給額変更通知書」もその件は書かれていない。

新聞で知った物価スライド制。

テレビ報道でもしていたのか判らないが・・・。

出向いた社会保険事務所にはいたるところにその案内を知らしめているチラシが貼られていた。

これで周知徹底していたというのか。

日本年金機構になってからは通知文面も見直しされたというがそれは一般の人には判りにくい専門用語を判りやすい文言にしただけである。

しかしだ。

周知するのは当然ながら受け取るのは個人。

そのときになって理解できる内容文でなければならないと思うのは私一人だけであろうか。

3、4、5、6月の年金履歴を端末で確認した解説した社会保険事務所の担当者も不親切な文面であると、この件を認識された。

(H23. 1.27 記)
(H23. 6.10 記)