友人の告別式に行ってきました。八戸の葬式とはずいぶんと形式が違い、戸惑いました。それに「真言宗」の式ということで、八戸では滅多に見られない形式で行われました。特に、死んだ本人の棺の前で行われ、葬儀が終わってから火葬に行くということが初めてでした。私は大学時代の友人ということで、宇都宮市長の次に弔辞を読ませていただきましたが、出来ることなら2度と読みたくないと思いました。特に同期生、同級生との別れは悲しすぎます。弔辞を書くときもとても時間がかかりました。写真を見ては涙を流し、一行書くと悲しさが増す。あの時、この場所、あの時間が思い出され、あの時こうした、そのときああした・・という彼とのやり取りが時間を超えた波のように思い出されるのです。宇都宮に出発する午前中にやっと書き上げ駅に向かいましたが、心の中は土砂降りのようでした。大学時代、結婚後、12月15日の最後の時間をテーマに書いたのですが、「弔辞」は「長辞」ということが初めてわかりました。思い出があとからあとからあふれ出て、それが全部大事で、私にとってかけがえのない時間だったのです。それでも削って、削って3枚半の原稿(約5分強の時間)にまとめ上げました。読んでいくうち、彼の奥さんが涙を流し、あちこちで嗚咽が始まりました。それが聞こえた時、私と彼との結びつきが深かったのだと改めて思いました。広島の友人からは「気持ちがこもっていて良かったよ。」と言ってもらい少し安心しましたが、彼の無念さを思うと今でも悲しくなります。その後、「火葬」になり、最後に「精進落とし」という会食をして、宇都宮を後にしました。帰りの電車では何も考えられず、かといって眠くなるわけではなく、ただぼーっとしていたような気がします。今日は少し遅めに起きましたが、しばらくこの状態が続きそうです。でも、嬉しいこともありました。このブログを読んだ、長崎の保育園の理事長先生から激励のメールをもらいました。四国八十八か所お遍路経験を踏まえた人生訓をいただきました。生と死・・・永遠の課題だと思いますが、それから逃げてはいけない、死を覚悟したうえで楽しく過ごしなさい、というアドバイスでした。心にしみるグッドタイミングの激励でした。ありがたくて涙がこぼれそうになりました。同じ理念や方向性を目指すと心も近くなるのでしょうか。健康にご留意いただきこれからも良きアドバイスをお願いしたいと思います。ありがとうございました。明日から立ち直ります。