二草庵摘録

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水谷千秋「謎の豪族 蘇我氏」(文春新書 2006年刊)レビュー

2019年08月23日 | 歴史・民俗・人類学
《六世紀に突如現れ、渡来人の先端技術により、天皇をも凌ぐ力を持った蘇我氏は、なぜ一夜で滅んだのか。天皇と豪族の関係から、東アジア情勢までをも視野に入れた新時代の考察。》

WebにあるBOOKデータベースでは、ごく簡略にこう紹介されている。
新時代の考察とはいうが、すでに14年あまり前に刊行され、資料的にはやや古くなっている部分があるやもしれない。
本書は「謎の大王 継体天皇」とならび、切れ味が鋭く、明快な考察がなされていてたいへんおもしろかった。

古代史の著作は、何とも歯がゆい、奥歯にものがはさまったような表現にときおり悩まされることがある。水谷さんのご本は「謎の大王 継体天皇」につづき二冊目となるが、引用される資料の的確さ、明快でわかりやすい論旨の展開に信頼を寄せざるをえないという感想をいだいた。
というわけで、わたし的には水谷さんにすっかり説得され「そうか、うんうん、う~ん」と軽い興奮を覚えながら読みおえることができた。
で、もう一冊「女帝と譲位の古代史」(文春新書)も手に入れ、スタンバイさせてある。

「日本書紀」その他のよく知られている文献を解釈し推測するだけなら、大学教授である必要はない。文章のよしあし、オリジナル性の高い構想力、失われた古代史に対する人間的な飽くことのない探求心が、卓越した良書を生み出すのだ。

《そもそも他氏族の度重なる反対に遭いながらも、稲目や馬子が粘り強く仏教受容の道を追求し続けた真意はどこにあったのだろう。政治的な理由だけでなく、そこに彼らなりの信仰を見てもいいのではないだろうか。
また、当時仏教は東アジア唯一の世界宗教であり、学問・美術・建築・生活規範など含めた、普遍的な大陸文明そのものであった。その受容なくして倭国の将来はないことに、稲目や馬子は早くから気づいていたのではないか。
『元興寺伽藍縁起』の、仏教受容を主張する稲目の言葉を記そう。

他国の貴き物と為すものは、我が国もまた貴きと為すを宣しとすべし

『日本書紀』にはこうある。》(本書143ページ)
《大化の改新はすでに蘇我氏が用意していたものを中大兄らが入鹿を殺して「横取り」したものだ、と喝破する松本清張の慧眼はさすがである。》(194ページ)

水谷さんは乙巳の変(いつしのへん)であえなく滅びた蘇我氏を擁護し、再評価したいのである。
稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代こそが、混乱し弱体化した、6世紀後半から7世紀半ばの王権をささえたのである・・・というのが、水谷さんの構想である。
敏達天皇時代に大臣の位につき、以後用明、崇峻、推古天皇の4代に仕え、54年ものあいだ政権をささえた蘇我馬子の死が推古天皇34年(626年)。
しかも、これ以降の律令国家も、蘇我氏が青写真というか、基本線を引いていたにもかかわらず、中大兄と中臣鎌子(藤原鎌足)に足をすくわれ、卑劣なワナにはまって滅亡する。文学的な表現になってしまうが、あえていえば蘇我氏、その悲劇を洗いなおすこと、それをこそ水谷さんは本書で書きたかったのである。筆者の鼓動の高まりが、ときおり響いてくる。

真相がどうであったか、不完全な文献しか残されていない以上、だれにもわからない。
推測、推理がここでも半分を上まわっている。
しかし、蘇我氏の滅亡は、その後の天皇や日本史のゆくえを左右するような、古代史における一大事件であった。

わたしの浅はかな知見によれば「日本書紀」最大の英傑が聖徳太子、悪役=逆賊は蘇我氏というのが常識であった。水谷さんのこの「謎の豪族 蘇我氏」は、それをものの見事にひっくり返してくれた。
生意気なことをいうようだが、先学の見解、既存の資料の読みも大方は首肯できるものになっている。文章もこなれ格調が高い・・・とわたしは思う。
アカデミズムの学者、有名大学の先生方が書いた類書とは一線を画す仕上がりとなっていると、ためらわず評価しておきたい(*^-^)

文春新書の編集部も力を発揮したのだろう、おすすめの一冊。



評価:☆☆☆☆☆

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