「28mmレンズは存在論を語るにふさわしいレンズ。それに比べ、50mmは、
人生論を語るにふさわしいレンズである」
そういう名言をはいたのは、たしか写真家の高梨豊さんである。
高梨さんといえば、いまや東松照明さんとならぶ、わが国写真界の大御所で、東京造形大学の客員教授。
写真集はわたしは「東京人」「面目躍如」「初國」しかもっていないけれど、「アサヒカメラ」などを通じて、その仕事ぶりに、つねに尊敬のまなざしをそそぎつづけてきた写真家。
いちばん欲しかったのは、4×5(シノゴ)、または8×10(エイトバイテン)を使って、あきれるばかり精密に切り取られた「町」という写真集だったが、高価で手が出ず、図書館で借りてきて、舐めるように何度も眺めたことを覚えている。
「年をとると、だんだん50mmレンズが好きになる」
これは、高梨さんの説だが、彼はあちこちで、そういった意味の発言をくり返しているので、わたしはすっかり覚えてしまった。
その高梨さんは、赤瀬川原平さん、秋山祐徳太子さんと二人で「ライカ同盟」を結成し、家元と呼ばれている。わたしがこれまでに見た写真は、その大部分が、ズミルックス、ズミクロンの35mmで撮影されている。
写真といった場合、なんといっても、28~50mmあたりの画角が中心となることは論をまたないだろう。35mmしか使わない、あるいは50mmしか使わないという徹底したフォトグラファーもおられる。
町歩きに、どんなカメラ、どんなレンズをもっていったらいいのか?
これはひとつの選択であり、決断である。
メインとなるカメラ&レンズをまず、ワンセット決める。
そして、サブ機に、コンデジを携帯する。
これがいちばん一般的で、「正しい」撮影のスタイルだろうと、わたしも考えている。
かつては一眼レフにもズームレンズを使用していたが、これを単焦点レンズに切り換えてから、フットワークがとてもよくなった。
被写体を見つけて、ある場所でぴたりと立ち止まる。
たまに迷って、右往左往することもあるが、大抵は、その場所でカメラをかまえてシャッターを押す。レンズの画角は体にしみこませてあるから、逆光のようなむずかしい条件でないかぎり、どういう写真ができあがるか、一瞬で判断できるようになっている。
現在では、単焦点レンズは売れず、使うのは日本人くらいだろうと書かれた記事を読んだことがあるけれど、単焦点を使いこなすことによって、「自分の撮影スタイル」が生まれてくるのだ・・・と、わたしはいまだに信じている(^^;)
これまで愛用していたのは、35mmF1.8。このあいだ手に入れ、使いはじめたのは、40mmF2.8マイクロ。いずれも安価なDXフォーマット専用レンズである。
トップに掲げたのは、最近あちこちでよく見かける、炭の細片みたいな黒い種。指をふれたら、パッと弾けるように飛び散った。
赤い実、青い実。あたりまえだが、植物たちは、きれいキレイな花だけで、世代交代しているわけではない。
しかし――こういう写真を撮ってしまうと、それで一段落した気分になり、リサーチしようとおもっているうちに、時間が経過し、大抵は忘れてしまう(=_=)
「これはなんですか?」と、ときどき訊ねられるが、よくまちがえるので、わたしの答えはあてにはできない。
最後にもう一枚。40mmマイクロで、地面にはいつくばるようにして撮った、オオイヌノフグリのどアップ。日射しが強すぎて、ハイライトが飛び気味だけれど、セーラー服のデザインみたいな蘂(しべ)の可憐さに息をのむ。家を一歩出て、畑や野道を歩いていると、この青い豆粒のようなサイズの花が、足許一面に咲いている。
これきりに径(こみち)尽たり芹の中
これは蕪村の名句(春の句)だけれど、このあたりでは、いま、どこへいっても、ホトケノザと、オオイヌノフグリの群落が、草むらに彩りをそえている。