『尋常一様ではない強烈な個性に貫かれているので、当フルトヴェングラー盤と接してしまうと、他盤のどのような演奏もシューマンの交響曲第4番の“ダイジェスト”でしかないように思えてくる危険性すら感じてしまいかねない。それほどまでに圧倒的なカリスマ性をもった演奏内容である。オーケストラの低弦が示す、どこまでも沈潜していき、深い意味を探りあてようとするすごさは、今日ではもう耳にすることがほとんどできない。』
この引用は、「新編名曲名盤300」につけられた、吉井亜彦さんのコメント。
「当フルトヴェングラー盤」というのは、文中にもあるように、
シューマン交響曲第4番ニ短調のことである。
“オーケストラの低弦が示す、どこまでも沈潜していき、深い意味を探りあてようとするすごさ”という表現にとても感心したので、冒頭に掲げた。
誤解がないようにつけくわえておけば、わたしは楽器はなにも扱えないし、高校の音楽の授業程度の教育レベルだから、20年たっても、30年たってもステップアップできない初級者であり、無知蒙昧の徒だと考えている。
しかし、いつのまにか、クラシック音楽CDがたまって、現在350~400枚といったところ。図書館から借りてきて、聴くこともある。
そうしていつも、mixiの日記、gooブログにその感動を綴ろうと、悪戦苦闘するのだが、あまりうまくいったためしがない(^^;)
このあいだ、「アポロン的ディオニソス的」という日記でフルトヴェングラーを取り上げたところ、尊敬するtombiさんから、フルトヴェングラーでは、ベートーヴェンの第7番がすごいので、おすすめですとアドバイスいただいた。
カラヤンで聴き、そのあと、C・クライバーで聴き、わたし的にはそれで、これまではほぼ満足していたが、数日前にBOOK OFFの棚にベトちゃんの第7番があったことを思い出し、買ってきて耳をすました。
はじめは少し酔っぱらって聴いていたので、演奏があまりこころに響かなかった。
ところが、この連休。
猛暑にめげて自宅のエアコン部屋にこもり、15枚ばかりのCDを“浴びるように”聴いた一枚に、1950年、フルトヴェングラーがウィーン・フィルとやったCDがあった(EMIクラシック)。
二度目はむろん、しらふで聴いた。
そうして、胸ぐらを掴まれてしまった(^_^)/~
C・クライバーもカリスマ性をもった、即興的な演奏が得意な天才指揮者だとおもうけれど、フルトヴェングラーと比較すると、音楽の燃焼のさせ方が、まるで違う。
そのあと、寝るまえにもう一度聴いて、確信をふかめた。
tombiさんがおっしゃっていたのは、このことか!!
第2楽章の深沈たる瞑想感は、他に比類がないのではあるまいか?
(そう何枚も聴き比べてはいないけれど)。
そうして疾風怒濤の第4楽章がやってくる。
念のため、いままた、第7番を小さめの音量で聴いて、そこからやってくる感動を、どんなことばで表現したらいいものかと、思案している。フルトヴェングラーは、単純な意味での熱演型・力演型の指揮者ではない。わたしはいま、ことばをまえにして、いささか途方に暮れている。音楽の感動をことばで表現するむずかしさ・・・。
アポロン的な名指揮者は、ほかにもたくさん存在する・・・とおもう。
これからも、知的でクール・・・精緻な“楽譜通り”の指揮をする天才はつぎつぎ登場するだろう。しかし、フルトヴェングラーのような、けたはずれの主観性をもったディ二ソス的な指揮者は、もう出現しないだろう。
そこにフルトヴェングラー神話が生まれる素地がある。
冒頭に引用した吉井さんも、そのことを指摘しておられる。
バーンスタインのシューマン第4で満足していたわたしを、フルトヴェングラーの第4が打ち砕いた! こういうことは、むろんたまにしか起こらない。
「ああ、これだ! この音楽が聴きたかったのだ」
そうした出会いの一瞬をもとめて、音楽に耳をすましているのだから。