荷風や芥川の追想記事をあつめた岩波文庫がおもしろい♪
内容的にも、そんなにつづけては読めないので、ぽつりぽつりと、現在半分近くは読んでいる。
■「荷風追想」(岩波文庫 2020年刊 多田蔵人編)
文豪の追想シリーズは4冊あるようだが、わたしが最初に目星をつけたのが、この一冊であった。
ちなみに荷風の荷は蓮の意味。
初恋の女性がお蓮(れん)という看護婦だったところから命名したという。
女性たちが、記事を寄せているのを漫然と読みはじめたら、これが胸に沁みわたるブリリアントな内容であった。
「交情蜜の如し」 藤陰静枝
「日蔭の女の五年間」 関根 歌
「荷風先生はやさしい人だった」 阿部寿々子
ほかにも小堀杏奴(鷗外の娘)、幸田文(露伴の娘、作家)、吉屋信子(作家)などがいる。
しかし、ここにあげた人は、インテリというにはほど遠い、芸者(あるいは芸妓)、踊り子である。
だからこそのおもしろさ♬
ご本人は書いたというより、しゃべって、それを記者(婦人記者)がまとめたものかもしれない。ただし、インタビュアーは、陰に隠れている。
《明治・大正・昭和の三代にわたる文豪、永井荷風。近代文学に深い刻印を残した荷風は、時代ごと、また場所ごとに、実にさまざまな面影を残した人でもある。荷風と遭遇し、遠くから荷風を慕った同時代人の回想59篇を選んだ。荷風とともに近代を歩くための、最良の道案内。》BOOKデータベースより
《荷風さんが亡くなったという知らせを受けたとき、私は本当にびっくりしました。一時は目の前がまっくらになったような気持ちで、身体中の力が抜け、受話器をもったまま思わずヘタヘタとその場に坐りこんでしまったような始末でした。お別れしてからもう三十年以上にもなる今さら、別に未練があるとか恋しいとか、そういう浮ついた感情が残っているというわけではなく、何かこう心のどこかに支えとなっていた魂の拠り所が失われたような、そういう空白感に襲われております。》(冒頭 122ページ 「婦人公論」1959年7月号)
藤陰静枝とは、左団次夫妻の媒酌で婚礼をあげ、山谷の八百善で披露宴をおこなったのである。そして新居として、大久保余丁町、広い永井家の別宅に、新郎・新婦として住まうことになる。藤陰静枝は日本舞踊の名手で一時代を築いたらしく、ウィキペディアに記事が掲載されている。
こういう女性とはうまくはいかないだろう、荷風さんは間違えているのだ。
《──「僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前では酔払わないこと。処女を犯さないこと。素人の女に関係しないこと。此の三箇条を規則にしている」》
これは、ファンにはよく知られた荷風のことば。
銀座に日本ではじめてのカフェ「プランタン」を媾曳の場所にしたことで、文壇、ジャーナリズムの人士からとやかくいわれたらしい。
《襷がけで手先を墨によごしながら、一枚々々(いちまいいちまい)、先生の草稿の罫紙を板木で何帖となく摺る楽しみも覚えました。浮世絵や骨董品を集めることのすきな先生のおともをして、四谷、日本橋あたりまで出かけたり、ナカリヤを買ってきて二人で餌をやって育てたり、歌沢節の稽古に通ったりもしましたが、妙に几帳面なところもあって、下手に書斎の本などを片づけると先生はものすごくお叱りでした。》125ページ
新妻を迎えた新居のありさまが彷彿としてくるようではないか?
藤陰静枝とは1914年(荷風35歳)に籍を入れたようだ。彼は基本的に“私小説”は書かなったので、その代わりに「断腸亭日乗」がある。
それが全巻、岩波文庫で9冊にわたって出る、のである。
わたしは胸の奥で興奮している。
内容的にも、そんなにつづけては読めないので、ぽつりぽつりと、現在半分近くは読んでいる。
■「荷風追想」(岩波文庫 2020年刊 多田蔵人編)
文豪の追想シリーズは4冊あるようだが、わたしが最初に目星をつけたのが、この一冊であった。
ちなみに荷風の荷は蓮の意味。
初恋の女性がお蓮(れん)という看護婦だったところから命名したという。
女性たちが、記事を寄せているのを漫然と読みはじめたら、これが胸に沁みわたるブリリアントな内容であった。
「交情蜜の如し」 藤陰静枝
「日蔭の女の五年間」 関根 歌
「荷風先生はやさしい人だった」 阿部寿々子
ほかにも小堀杏奴(鷗外の娘)、幸田文(露伴の娘、作家)、吉屋信子(作家)などがいる。
しかし、ここにあげた人は、インテリというにはほど遠い、芸者(あるいは芸妓)、踊り子である。
だからこそのおもしろさ♬
ご本人は書いたというより、しゃべって、それを記者(婦人記者)がまとめたものかもしれない。ただし、インタビュアーは、陰に隠れている。
《明治・大正・昭和の三代にわたる文豪、永井荷風。近代文学に深い刻印を残した荷風は、時代ごと、また場所ごとに、実にさまざまな面影を残した人でもある。荷風と遭遇し、遠くから荷風を慕った同時代人の回想59篇を選んだ。荷風とともに近代を歩くための、最良の道案内。》BOOKデータベースより
《荷風さんが亡くなったという知らせを受けたとき、私は本当にびっくりしました。一時は目の前がまっくらになったような気持ちで、身体中の力が抜け、受話器をもったまま思わずヘタヘタとその場に坐りこんでしまったような始末でした。お別れしてからもう三十年以上にもなる今さら、別に未練があるとか恋しいとか、そういう浮ついた感情が残っているというわけではなく、何かこう心のどこかに支えとなっていた魂の拠り所が失われたような、そういう空白感に襲われております。》(冒頭 122ページ 「婦人公論」1959年7月号)
藤陰静枝とは、左団次夫妻の媒酌で婚礼をあげ、山谷の八百善で披露宴をおこなったのである。そして新居として、大久保余丁町、広い永井家の別宅に、新郎・新婦として住まうことになる。藤陰静枝は日本舞踊の名手で一時代を築いたらしく、ウィキペディアに記事が掲載されている。
こういう女性とはうまくはいかないだろう、荷風さんは間違えているのだ。
《──「僕は若い時から一種の潔癖があって、人の前では酔払わないこと。処女を犯さないこと。素人の女に関係しないこと。此の三箇条を規則にしている」》
これは、ファンにはよく知られた荷風のことば。
銀座に日本ではじめてのカフェ「プランタン」を媾曳の場所にしたことで、文壇、ジャーナリズムの人士からとやかくいわれたらしい。
《襷がけで手先を墨によごしながら、一枚々々(いちまいいちまい)、先生の草稿の罫紙を板木で何帖となく摺る楽しみも覚えました。浮世絵や骨董品を集めることのすきな先生のおともをして、四谷、日本橋あたりまで出かけたり、ナカリヤを買ってきて二人で餌をやって育てたり、歌沢節の稽古に通ったりもしましたが、妙に几帳面なところもあって、下手に書斎の本などを片づけると先生はものすごくお叱りでした。》125ページ
新妻を迎えた新居のありさまが彷彿としてくるようではないか?
藤陰静枝とは1914年(荷風35歳)に籍を入れたようだ。彼は基本的に“私小説”は書かなったので、その代わりに「断腸亭日乗」がある。
それが全巻、岩波文庫で9冊にわたって出る、のである。
わたしは胸の奥で興奮している。