二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

ブリューゲルというスフィンクス(ポエムNO.41)

2011年08月09日 | 俳句・短歌・詩集



きみの頭の中をいろいろなものたちが
地面で跳ねたり 水中にもぐったり 他のものに姿を変えたり
笑い袋のように笑ったり 
跳梁跋扈し 大気のドアにひっかかり浮き沈みしている。
ピンクの悩ましげな肌をした小悪魔も。
実在するもの 実在しないものはいつもほぼ等量で
奇妙にバランスがとれている。
・・・と油断していると
シーソーはときに片方へ大きくかたむき
きみやぼくは水平線の彼方へと落ちていく。

人間の最大の魔術は
実在しないものを実在するかのように語り
描き 歌うことができること。
けさはなぜか 手や足が遠くに見える。
こころを動かすことはできないけれど
手足ならおおよそぼくの自由に動く
ってのがなんだかうれしい。
昨日ぼくは敷島公園から黄色くなったイチョウの葉っぱを拾ってきて
デスクの上に置いた。
左にふれたり右にふれたり。

視界のはずれで
たえず明滅するその葉っぱのような風景は
ぼくの内部にではなく 外部にある。
やってきたものが遠ざかっていく。
それがいま ここにいる証となる。
ぼくは昨日 ブリューゲルの絵の中から抜け出してきた人物と散歩し
二時間あまり語りあってから
本の表紙みたいな町角でさよならもいわずに別れた。




ああ 八月もなかばとなり セミ時雨がはじまっているね。
ぼくは眼をこらし 耳をそばだて
一枚の絵に見入っていた。
これは何だろう? 何だろう・・・。
いつまでたっても完成しないバベルの塔が
巨大なスフィンクスとなって
そのかたわらに佇む人になぞをかける。
そのなぞを解いた人だけが絵の中から出ていくことができる。
ぼくの半身たるきみはまだ絵の中にいる。
よくよく探さなければみつからない点景人物として。
もうひとりのぼくがそれを見ながら笑っている。

小さな瓶の底に 名のない村が封じ込められ
黄昏せまるその村の空を
冬鳥の群れが南へと渡っていく。
その空の下を獲物にめぐまれなかった猟師の一団が
痩せた猟犬をつれて帰宅をいそいでいる。
一枚の絵のなぞを解いたとおもうと
つぎの絵のなぞが立ちはだかる。
こうしてぼくはブリューゲルの画集のまわりを回っている。
誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように
ぼくはそこで輝くなぞに引き寄せられる。

やがては死ななければならない。
きみもぼくも いつかは。
そう――それだけは確実にいえる。
生まれてきたのだから。
「これが人間であり 人の世なのだ」
ブリューゲルがそんなこというはずはない。
不穏な空を見あげて ぼくが想像をめぐらすだけ。
ああ あのままそこにある絵の中の点景人物だったらよかったのに。
ぼくも・・・きみのようにことばを持たず。




※ほかのタイトルを思いつくことができず、日記と同じタイトルになってしまった。
なお、いつものように詩と写真のあいだには、直接のつながりはありません。

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