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「なぜおれの写真は変わってきたのだろう」
そんなことを考えているうち、ようやくあることに思いいたった。
アイレベルからの脱却・・・これである。
写真とは、ファインダーに接眼して外界と対峙し、シャッターを押すものである、という固定観念からの脱却。
最初の兆候は、LUMIX LX5が手許にやってきたときにはじまった。
一昨年の10月にLX5を手に入れたが、そのカメラには、ファインダーがなかった。
それ以前、5~6台のコンパクトデジタルカメラを使ってはきたが、コンパクトなので、見やすいとはいえないながら、カメラにはすべてファインダーがあった。
すでに世の中には、背面液晶だけのカメラが数多く出回っていた。
「あんなものは、女子供のオモチャだろう」
ファインダーのないカメラに対して、わたしは内心少々小馬鹿にしていたのである(^^;)
写歴40年。しかし、ベテランにはベテランなりの悩みがある。
一度身につけた自分なりの撮影法に呪縛され、その固定観念から自由になれない。
だから、顔のさきにカメラをかざすようにかまえて、背面液晶を眺めながら撮影するのは邪道である・・・まあ、少なくとも、オーセンティックな撮影法ではないと思い込んでいた。ブレやすいし、正確なピントを確認するのがむずかしいからである。
LX5には、多くのコンデジ同様、ファインダーはついていない。
液晶モニターでフレーミングを決め、ピントを合わせる。
しかし、そんなことをくり返しているうち、カメラはどんどん、わたしの顔から、はなれていった。
それは、大げさにいうと、眼が顔から手のさきへと移動したようなものではないのか?
むろん、いまでもアイレベルへのこだわりは存在する。
小さなものにきちんとピントを合わせ、視野率100%のファインダーをのぞいて、納得の上でシャッターを押したいときは、ニコンD7000を使用する。
だけど、そうではない撮影法があることを、LX5がわたしに教えてくれた。
つぎに、もうひとつの節目がやってきた。
CX4を手に入れたことである。
この一台が、わたしの撮影法を、さらに決定的に変えた。
眼はわたしの顔からはなれ、手のさきへと移動したことで、より多くの自由を得た。
そして、手ぶれ補正機能をもった、タバコ一箱ほどの小型軽量なカメラが、どこへいくにも日常的についてくるようになった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/8b/a4b8e839b94fa8222c7f20bf41997583.jpg)
ミラーレス機の登場は、アイレベル撮影法からの解放を宣言するものであったろう。
市場はその方向へと動き、2011年は、ミラーレス機が、旧来の一眼レフと、販売台数で互角に渡り合うまでに成長してきている。
現在、眼の延長、手の延長として、わたしの身体には、CX6がよりそっている。
むろん、CX6でなくてはいけない・・・というわけではない。
たまたま出会ってしまい、惚れ込んで使い込むうちに、「フラグメント」「働く自動車」など、多くの作品が生み出されてきた。
LX5もCX4も、はじめは、D80の、あるいはD7000のサブ機であった。
それが、ある時点から、メイン機をいわば「食って」しまったのである。
キーワードは「アイレベルからの脱却」と、カメラの小型軽量化。
これによって、写真が、現実が、また少し違って見えてきた。