二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

詩人の決断 ~宮沢賢治の場合

2011年08月14日 | 俳句・短歌・詩集


今日は近所のファミレスでマイミクケンちゃんと「対談」。
気がつけば、約4時間があっというまに過ぎている。
たいへん礼儀正しく、謙虚なお人柄なので、直接知遇のある吉本隆明さん、中沢新一さんなどをめぐって話題がひろがり、知的な刺激に満ちた愉しいひとときを共有することができ、感謝・感謝である。
わたしの方が不勉強なので、彼にしてみたら、ややもの足りないおもいをしたかもしれない。
わたしは近・現代の詩人について、また近ごろハマっている詩作のことなどを取り上げた。
その場で、もう少し話をつづけ、お伝えしたいことがあったが、必要な詩作品を思い出すことができなかったので、歯がゆさがまだ尾を曳いている。

つぎの日記は、したがって、ケンちゃんに伝えたかった今日の話題の補足資料・・・といった意味合いをもっている。

さてさて。
宮沢賢治についてなにか書こうとするのは、現在、非常な厄介事になってしまった。
それはこれまで普及本や文庫本などによって「最終稿」「決定稿」とされてきたものに種々の角度から再検討がくわえられ、多くの疑問をよび出し、テキストが浮遊しはじめたからである。

わたしは賢治の研究者ではなく、熱烈な賢治ファンというのでもないから、詩を書く実作者の立場からの発言である。

たとえば、これ。
「業の花びら」としてよく知られた、彼のいわば「絶唱」を取り上げてみよう。

「業の花びら」

夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえてゐる

これは現在では〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕作品314として新版の全集などには収録されているらしい。
ところが、この作品にはいろいろなバリエーションがあって、どれを決定稿にしようとしたのか、よくはわかっていない。作者の賢治自身が、決断を下さなかったため、全集にはそのバリエーションすべてが掲載されることとなって、わたしのような一読者の眼には、事態が妙に紛糾してしまい、戸惑いが先に立っている・・・というのが、正直なところである。

そのバリエーションの中の一つに、つぎのような詩句をそなえたものがある。

業の花びら(下書稿第二 作品314)

夜の湿気が風とさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒くふるえてゐる
   ……遠くで鷺が啼いてゐる
     夜どほし赤い眼を燃して
     つめたい沼に立ってゐるのか……
松並木から雫がふり
わづかばかりの星群が
西で雲から洗はれて
その偶然な二っつが
黄いろな芒で結んだり
残りの巨きな草穂の影が
ぼんやり白くうつったりする

つまり、最初はもっと長かったのに、作者賢治は、後半をばっさりきりすてて、
たった5行の詩として完成させた、あるいは、そうしようとしたのである。
つまりここには、「作者が、これがこの作品の完成である」という決断がなければ、完成はないのだ・・・という問題がよこたわっていることになる。
レオナルドの「モナリザ」が、じつは未完成だったと聞いたとき、「え!?」という軽い驚きがあった。

しかし、その事実を知った多くの人びとと同様、「未完成」だからといって、その作品の価値は少しもそこなわれはしないし、シューベルトの二楽章の交響曲について、同じことがいえるだろうと、すぐに考えた。カフカの小説にあっても、未完成と「決定稿」のはざまをゆれ、そのことによって、彼の迷宮的世界が強化されるというような側面が存在する。

詩はあまり長大であるよりは、短い方が、作品の内部で語の比重がまし、印象やインパクトが高まる。そういう詩法からいえれば、賢治は最終的には、10行をバッサリ切ってすて、5行を選択的に決断したのであろう・・・そういったスタンスから、この2作品を読み比べた。
しかし、
《……遠くで鷺が啼いてゐる
     夜どほし赤い眼を燃して
     つめたい沼に立ってゐるのか……》
という3行の詩的イメージの魅力もまた、抗しがたいものがある。梅原猛さんやその他の評者のように「夜どほし赤い眼を燃して啼く鷺」が、作者賢治の自画像のように読めるし、業に苦しむ人びと一般のイメージにも読めるからである。

詩人の決断。
それこそが、浮遊し、生まれては消え、また甦る作品の輪郭を決定づける。
だから、この場合、「自分はどちらが好きか、どちらをとるか」ではなく、賢治はどうしたかったのか、どういった決断を下したのかをさぐるべきだろう。
では、わたし的にいえばどうかというと、この詩はやっぱり5行の作品として「完成している」とかんがえる。
最後の7行が説明的すぎて、なくてもいいとおもえるので、作者はそのことを意識していたろう・・・という推論にもとづいて。



※写真はことし6月、榛名高原で見かけた年1化のミヤマセセリ。
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