二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

須臾の間の光(ポエムNO.54)

2011年09月11日 | 俳句・短歌・詩集


ごうごうとうなりをあげる瀑布の轟きが木々の葉をふるわせる。
林間をすかし見ても滝は見えないけれど
前方はるかな山あいに水量ゆたかな滝があるのだ。
都市が時間の重力によって 幾重にも折りたたまれ 
ガクンとたわんでいる その向こう・・・。
須臾の間 ぼくはその瀑布の下を
カメラを手にして旧友と二人で歩き回ったことがあった。
用意した握り飯を二個づつ食べ
渓流の水でのどをうるおしさえした。
その直後 ぼくは彼を見失った。

ああ はやくも枯れ葉が舞っているね。
千変万化する気象の変化に気をとられながら
時間のドアのあちら側へ出ていったしまった男をときおり思い出す。
それは無益な行為であり
そのたびに ぼくはなにかにつまづいたように足許がふらついて
鈍(にび)いろに輝く文明の銀器を手から落とし
茫然とそこいらの街角で立ちすくんだりする。
きっかけがあると 男の記憶の断片がざわめく。
中世の僧侶たちの墨染めの衣がざわめく。

笹舟に乗った一寸法師のようなものが
たしかに たしかにぼくの脳の神経回路をいまも下り
それはぼくが死ぬまでつづくのだ。
ごうごうとうなりをあげる瀑布の轟きが木々の葉をふるわせる。
見えはしないのだけれど
ぼくはそれを感じる。
向こう岸はけぶっていて見えないが
男はそこを渡ってどこかへたどりついたのだ。
そのときも落葉樹の葉っぱが
つぎからつぎへと舞い落ちて。

ああ 須臾の光がうらうらと照っていて
シャガールの馬やブリューゲルの犬がそこかしこに隠れている。
どこから出発してきたのか
どこへ向かっているのか
たぶん だれにもそれがわからない。
須臾の光は 須臾の間の出来事だけを語る。
歳月から抜け毛のように剥落した人びとが
むすうの影法師となって浮遊するあたり。
国の興亡とはかかわりなくしずかに死んでいった男女の絶叫が
数千年にいちど
うるわしいヤマユリのような花を咲かせるあたり。
中世のたよりない 枯れ葉の舟の
――遠いとおいひかりよ。



※須臾の間とは 仏教では「一昼夜の三十分の一の時間」を表しているという。

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