塩野さんは、きっとわたしのために「ローマ人の物語」全15巻(新潮文庫なら43冊)を書いてくれたのだ!(^^)!
読者にそう思わせたら、著者の勝利。これ以上の褒めことばを、いまは思いつかない。
数巻だけ読むつもりでいたが、結局すべて読み返すことになるだろう。
これらを男性ではなく女性が書いたのだ。
《タキトゥスには、誇り高い人間とはどういうものかがわかっていない》(文庫版第17巻212ページ)
ほぼ同時代の歴史家に、そこまで突っ込んで食い付く資格が、1900年後の塩野さんには、たしかにある。
「ローマ人の物語」から学ぶべきことはじつに多い|;゚ロ゚|
いまの日本において政治家はむろん、国家公務員の中にも塩野七生の読者は大勢いることだろう。
第3代皇帝、ティベリウスに対する批評は、眼光紙背に徹すの域にまで達している。この皇帝に、ここまでで肉薄できるとはね(*゚ー゚)
彼女にたいする畏敬の念は深まるばかりだ(-_-)
読め・・・そして考えろ、考えろ! この皇帝によって、帝政ローマの礎が築かれていく、それをわたしもまた検分しよう。
アメリカの覇権下にある現代の日本、そして他国の同胞たちすべてに、塩野さんの熱いメッセージがいつか届くだろう。
理想を語るのではなく、現実を見よ! 賢さも愚かしさも、古代ローマ世界がすべて経験済み。
「そうか、そうか、そういうことなのだ」と、わたしは納得する。そうするしかない(^^;)
それだけのヴォリュームがこのシリーズを、特別な輝きで満たしている。
読め・・・そして考えろ、考えろ!
15年の精華は日本文学に、清新極まりない足跡を刻み込んだのだ。
基本的に塩野七生さんはマキアヴェッリの徒なのである。
甘っちょろいヒューマニズムやことばだけ立派な理念に眼を曇らされてはいない。現実を直視することに集中し、遙か遠い彼方の歴史を、自分の足と頭で徹底的に洗い直す。
そして白紙の上にことばを置く。叙述のくり返しが多いのは、読者に「前提となる過去の事実や考え方」を思い出させるためだ。
資料が足らないところは、想像力でおぎなう。情緒に支配されやすい女性の仕事、あるいは大学の教授のような書斎派の仕事というには、“抉り”の効いた記述が、彼女のしつらえた舞台の奥から立ち上がってくる。
それはしばしば、息を呑むような見事さ!
そのとき、おそらくは「歴史家」としての彼女は舞台の袖に引っ込んでしまう。
人間とは・・・人間とはこういう生き物である。その一点に的を絞り、大抵はど真ん中を射抜く。
練達の士といっていいだろうが、ついていく読者も相応の知力、忍耐力を必要とする・・・アルプスの縦走をする人たちのように。
《わたしと学者たちのちがいは、「わかっていること」を書く彼らとちがって私の場合は「わかりたいこと」を書く点にある。最後の一行を書き終えたときはじめて、わかった、と思えるんですね。》(エッセイ集「ローマの街角から」)
《これは(ローマ人の物語を指す)懐古趣味ではない。なぜなら私は、ローマ人がわれわれよりも優れていたから彼らに魅かれるのではないからだ。人間性に対する幻想をいだかなかったから、興味をもつのである。ちょうど十三世紀から十六世紀にかけてのルネサンス人が、キリスト教によるこの種の幻想から離れ、キリスト教の存在しなかった古代に復帰しようとしたのに似て。》(エッセイ集「ローマの街角から」)
「ローマ人の物語」を書いたあとも、塩野さんは重要な仕事をしている。年一冊のゆっくりした、慎重な足どりで。
現在では「ギリシャ人の物語」が、第2巻まで刊行され、第3巻を執筆中。その刊行を待ちかねているファンは大勢いる。
かくいうわたしも、むろんその一人である(^^)/
新潮文庫「ローマ人の物語」
http://www.shinchosha.co.jp/topics/shiono/bunko.html
読者にそう思わせたら、著者の勝利。これ以上の褒めことばを、いまは思いつかない。
数巻だけ読むつもりでいたが、結局すべて読み返すことになるだろう。
これらを男性ではなく女性が書いたのだ。
《タキトゥスには、誇り高い人間とはどういうものかがわかっていない》(文庫版第17巻212ページ)
ほぼ同時代の歴史家に、そこまで突っ込んで食い付く資格が、1900年後の塩野さんには、たしかにある。
「ローマ人の物語」から学ぶべきことはじつに多い|;゚ロ゚|
いまの日本において政治家はむろん、国家公務員の中にも塩野七生の読者は大勢いることだろう。
第3代皇帝、ティベリウスに対する批評は、眼光紙背に徹すの域にまで達している。この皇帝に、ここまでで肉薄できるとはね(*゚ー゚)
彼女にたいする畏敬の念は深まるばかりだ(-_-)
読め・・・そして考えろ、考えろ! この皇帝によって、帝政ローマの礎が築かれていく、それをわたしもまた検分しよう。
アメリカの覇権下にある現代の日本、そして他国の同胞たちすべてに、塩野さんの熱いメッセージがいつか届くだろう。
理想を語るのではなく、現実を見よ! 賢さも愚かしさも、古代ローマ世界がすべて経験済み。
「そうか、そうか、そういうことなのだ」と、わたしは納得する。そうするしかない(^^;)
それだけのヴォリュームがこのシリーズを、特別な輝きで満たしている。
読め・・・そして考えろ、考えろ!
15年の精華は日本文学に、清新極まりない足跡を刻み込んだのだ。
基本的に塩野七生さんはマキアヴェッリの徒なのである。
甘っちょろいヒューマニズムやことばだけ立派な理念に眼を曇らされてはいない。現実を直視することに集中し、遙か遠い彼方の歴史を、自分の足と頭で徹底的に洗い直す。
そして白紙の上にことばを置く。叙述のくり返しが多いのは、読者に「前提となる過去の事実や考え方」を思い出させるためだ。
資料が足らないところは、想像力でおぎなう。情緒に支配されやすい女性の仕事、あるいは大学の教授のような書斎派の仕事というには、“抉り”の効いた記述が、彼女のしつらえた舞台の奥から立ち上がってくる。
それはしばしば、息を呑むような見事さ!
そのとき、おそらくは「歴史家」としての彼女は舞台の袖に引っ込んでしまう。
人間とは・・・人間とはこういう生き物である。その一点に的を絞り、大抵はど真ん中を射抜く。
練達の士といっていいだろうが、ついていく読者も相応の知力、忍耐力を必要とする・・・アルプスの縦走をする人たちのように。
《わたしと学者たちのちがいは、「わかっていること」を書く彼らとちがって私の場合は「わかりたいこと」を書く点にある。最後の一行を書き終えたときはじめて、わかった、と思えるんですね。》(エッセイ集「ローマの街角から」)
《これは(ローマ人の物語を指す)懐古趣味ではない。なぜなら私は、ローマ人がわれわれよりも優れていたから彼らに魅かれるのではないからだ。人間性に対する幻想をいだかなかったから、興味をもつのである。ちょうど十三世紀から十六世紀にかけてのルネサンス人が、キリスト教によるこの種の幻想から離れ、キリスト教の存在しなかった古代に復帰しようとしたのに似て。》(エッセイ集「ローマの街角から」)
「ローマ人の物語」を書いたあとも、塩野さんは重要な仕事をしている。年一冊のゆっくりした、慎重な足どりで。
現在では「ギリシャ人の物語」が、第2巻まで刊行され、第3巻を執筆中。その刊行を待ちかねているファンは大勢いる。
かくいうわたしも、むろんその一人である(^^)/
新潮文庫「ローマ人の物語」
http://www.shinchosha.co.jp/topics/shiono/bunko.html