(文庫版一冊はおよそ250ページに分冊。塩野さんのポリシーが貫かれている)
日本の中世史を塗り変えた人に、網野善彦さんがいる。ひところわたしも、網野さんの主著の何冊かを、夢中になって読んだ。
司馬史観ということばは広く知られている。それと同様に、“網野史観”が取沙汰され、史学の転換点となったという評価がいまでは定着している。
網野さんは地理学、民俗学にも造詣が深く、発想の背後には、地味なフィールドワークの多年にわたる蓄積がある。
そういったことを踏まえて、ここでは塩野史観という表現を使ってみたいという欲望を覚える。「ローマ人の物語」は、塩野七生さんが15年をかけた、文字通り畢生の大作である。
ハードカバーで読み、文庫化されたので、ふたたび読んだ。そうして、今度が三度目。
マルクス・アウレリウスに対する関心から、「賢帝の世紀」「終わりの始まり」を手にしたのだが、書評は書かなかった( ´ー`)
わたしの場合、途中でやめてしまう本がけっこう多い。下らないと思ったわけでもないにもかかわらず、飽きてしまって、ほかの世界に関心が移る。
軽率な濫読家の一典型といえるだろう。だけど「賢帝の世紀」「終わりの始まり」は、たびたびため息をつき、ああ、あ~と感心しながら、今回も最後まで読みおえた。
しかし、ユリウス・カエサルについてはやっぱり書いておこう(^^♪
塩野七生さんは、この男に、徹頭徹尾惚れたのである。長年にわたってわたしは塩野さんにつきあっているから、手に取るようにわかるのだ。
「ルビコン以前」の冒頭に、バーナード・ショウのことばが紹介されている。
《人間の弱点ならばあれほども深い理解を示したシェークスピアだったが、ユリウス・カエサルのような人物の偉大さは知らなかった。「リア王」は傑作だが、「ジュリアス・シーザー」は失敗作である。》
カエサルについては「ルビコン以前」、「ルビコン以後」で二巻構成となっている(新潮文庫では全6冊)。ほかの15巻はすべて全一巻だから、異例の詳しさ。詳しいばかりでなく、物書きとしての熱い血潮が、隠しようなく迸って、読者を巻き込んでいく。
筆を抑えよう、抑えようとしているのが、ページの端々からじわじわ伝わってくる。
彼女が本書で歴史叙述の拠り所としたのは、同時代人であるキケロの著作と手紙。百年もたった後世の歴史書など、たいした史料価値がないと考えているが、これは正しい認識である。小説を書こうと意図したのではまったくなく、味わいは歴史ドキュメンタリーというべきであろう。
カエサルは、これまで歴史上に登場した人物の中で、もっとも魅力にとんだ、英雄中の英雄である。この人物に比肩しうる歴史上の人物は、ほかにいない。少なくとも、塩野さんは、そう信じて筆をすすめている。そうしないと表現が躍ってしまう。
抑えよう、抑えようとして書いているその作家的な態度に、わたしは胸をえぐられる。
顔を手でおおい、声を殺してこみあげてくる嗚咽をこらえている。そこまで踏み込んで書いている・・・ということだ。
作家的想像力の到達点が、「ルビコン以前」「ルビコン以後」を、歴史ドキュメンタリーの金字塔たらしめていると、わたしは確信する。
夕べ、夜中に目を覚まし、読みはじめたらやめられず、夜が白むまで読み続けた´д`。
むろん鉛筆を片手に。
「ルビコン以前」は、主としてカエサルの「ガリア戦記」に沿って書いてある。そして後半「ルビコン以後」は、カエサルの友人でもあった、筆まめなキケロの手紙。
キケロはここでは喜劇役者となって、英雄の引き立て役を演じている。
大王アレキサンダー、皇帝ナポレオン、そしてわが国では織田信長・・・こういう歴史を変えた英雄をおもいつくままならべてみても、「ローマ人の物語」に仔細に語られるカエサルほど鮮やかな光芒を発している英雄はいない。
政治家でも軍人でもない塩野さんに、なぜこのような洞察力が発揮しえたのか?
そしてカエサルこそ、塩野さんにとっては“永遠の男”そのものなのである。彼女の愛読者なら、だれ一人それを知らぬものはいない。
(新潮文庫版「ローマ人の物語」第13巻からコピーさせていただいた)
これがカエサルが暗殺されたポンペイウス劇場の復元図。ここで元老院議会が開催されるというその日、カエサルを亡きものにしようとした14人によって、刺殺されたのである。
殺し屋たちの足音、カエサルのうめき声、そして周辺にいた大勢のローマ市民の悲鳴!
筆をすすめながら、塩野さんの眼や耳に、その現場のありさまが、ありありと再現されていただろう。
劇場ではあるが、劇が演じられたわけではない。
歴史上もっともすぐれた指導者であり、軍人、政治家であった人物が、二流三流の暗殺者たちに、よってたかって殺されたのである。
カエサルがうけた傷は全部で23カ所であったと、本書には書かれている。
「ローマ人の物語」はヒマラヤかアンデスにも例えられる壮大極まりない歴史叙述である。その中でも、カエサルを扱った二巻と、「パクス・ロマーナ」が、その峰々のピークを形づくっている。わたしには、そう見える・・・ということだ。
主役は立ち去ってしまった。塩野さんは、カエサルがそうであったように、冷徹な洞察力を発揮し、カエサル以後を・・・だれがどのようにふるまい、没落し、苦闘し、つぎの世代がその大きな傷跡をどう修復していくのか? と考察をすすめていく。
あるときは歴史家、あるときは文学者。
塩野さんはチャンネルを頻繁に切り替えながら、つぎのステージへと歩をすすめる。
次のステージの主役は、カエサルが遺言で指名し、その大任を背負うこととなった若きオクタウィアヌス=アウグストスである。時代遅れとなってしまった元老院主導の共和制に幕が下ろされ、帝政が開始される。
著者の一言一句に耳をそばだてながら、読者はことのなりゆきを、固唾をのんで見守るしかあるまい(^^♪
今度読み返していたら、塩野さんがめずらしく、「あとがき」のようなものを付していることにあらためて眼を瞠った。通常は「読者へ」と題する「まえがき」だけなのに。
彼女自身に「カエサルとその時代のローマを書ききった」という手応えがあったからだろう。
建国からおよそ700年。
一般的には衰退期に入った国家は、そのまま滅びるか、坂をころげ落ちるようにさらに衰退していくものだが、ローマだけはさらに300年以上生き延びる。その立役者こそカエサルなのである。塩野さんは本書に幕を引くにあたって、そうお書きになっている。
その向こうに21世紀の日本を見据えている・・・からであろうと、わたしは思う。
日本の中世史を塗り変えた人に、網野善彦さんがいる。ひところわたしも、網野さんの主著の何冊かを、夢中になって読んだ。
司馬史観ということばは広く知られている。それと同様に、“網野史観”が取沙汰され、史学の転換点となったという評価がいまでは定着している。
網野さんは地理学、民俗学にも造詣が深く、発想の背後には、地味なフィールドワークの多年にわたる蓄積がある。
そういったことを踏まえて、ここでは塩野史観という表現を使ってみたいという欲望を覚える。「ローマ人の物語」は、塩野七生さんが15年をかけた、文字通り畢生の大作である。
ハードカバーで読み、文庫化されたので、ふたたび読んだ。そうして、今度が三度目。
マルクス・アウレリウスに対する関心から、「賢帝の世紀」「終わりの始まり」を手にしたのだが、書評は書かなかった( ´ー`)
わたしの場合、途中でやめてしまう本がけっこう多い。下らないと思ったわけでもないにもかかわらず、飽きてしまって、ほかの世界に関心が移る。
軽率な濫読家の一典型といえるだろう。だけど「賢帝の世紀」「終わりの始まり」は、たびたびため息をつき、ああ、あ~と感心しながら、今回も最後まで読みおえた。
しかし、ユリウス・カエサルについてはやっぱり書いておこう(^^♪
塩野七生さんは、この男に、徹頭徹尾惚れたのである。長年にわたってわたしは塩野さんにつきあっているから、手に取るようにわかるのだ。
「ルビコン以前」の冒頭に、バーナード・ショウのことばが紹介されている。
《人間の弱点ならばあれほども深い理解を示したシェークスピアだったが、ユリウス・カエサルのような人物の偉大さは知らなかった。「リア王」は傑作だが、「ジュリアス・シーザー」は失敗作である。》
カエサルについては「ルビコン以前」、「ルビコン以後」で二巻構成となっている(新潮文庫では全6冊)。ほかの15巻はすべて全一巻だから、異例の詳しさ。詳しいばかりでなく、物書きとしての熱い血潮が、隠しようなく迸って、読者を巻き込んでいく。
筆を抑えよう、抑えようとしているのが、ページの端々からじわじわ伝わってくる。
彼女が本書で歴史叙述の拠り所としたのは、同時代人であるキケロの著作と手紙。百年もたった後世の歴史書など、たいした史料価値がないと考えているが、これは正しい認識である。小説を書こうと意図したのではまったくなく、味わいは歴史ドキュメンタリーというべきであろう。
カエサルは、これまで歴史上に登場した人物の中で、もっとも魅力にとんだ、英雄中の英雄である。この人物に比肩しうる歴史上の人物は、ほかにいない。少なくとも、塩野さんは、そう信じて筆をすすめている。そうしないと表現が躍ってしまう。
抑えよう、抑えようとして書いているその作家的な態度に、わたしは胸をえぐられる。
顔を手でおおい、声を殺してこみあげてくる嗚咽をこらえている。そこまで踏み込んで書いている・・・ということだ。
作家的想像力の到達点が、「ルビコン以前」「ルビコン以後」を、歴史ドキュメンタリーの金字塔たらしめていると、わたしは確信する。
夕べ、夜中に目を覚まし、読みはじめたらやめられず、夜が白むまで読み続けた´д`。
むろん鉛筆を片手に。
「ルビコン以前」は、主としてカエサルの「ガリア戦記」に沿って書いてある。そして後半「ルビコン以後」は、カエサルの友人でもあった、筆まめなキケロの手紙。
キケロはここでは喜劇役者となって、英雄の引き立て役を演じている。
大王アレキサンダー、皇帝ナポレオン、そしてわが国では織田信長・・・こういう歴史を変えた英雄をおもいつくままならべてみても、「ローマ人の物語」に仔細に語られるカエサルほど鮮やかな光芒を発している英雄はいない。
政治家でも軍人でもない塩野さんに、なぜこのような洞察力が発揮しえたのか?
そしてカエサルこそ、塩野さんにとっては“永遠の男”そのものなのである。彼女の愛読者なら、だれ一人それを知らぬものはいない。
(新潮文庫版「ローマ人の物語」第13巻からコピーさせていただいた)
これがカエサルが暗殺されたポンペイウス劇場の復元図。ここで元老院議会が開催されるというその日、カエサルを亡きものにしようとした14人によって、刺殺されたのである。
殺し屋たちの足音、カエサルのうめき声、そして周辺にいた大勢のローマ市民の悲鳴!
筆をすすめながら、塩野さんの眼や耳に、その現場のありさまが、ありありと再現されていただろう。
劇場ではあるが、劇が演じられたわけではない。
歴史上もっともすぐれた指導者であり、軍人、政治家であった人物が、二流三流の暗殺者たちに、よってたかって殺されたのである。
カエサルがうけた傷は全部で23カ所であったと、本書には書かれている。
「ローマ人の物語」はヒマラヤかアンデスにも例えられる壮大極まりない歴史叙述である。その中でも、カエサルを扱った二巻と、「パクス・ロマーナ」が、その峰々のピークを形づくっている。わたしには、そう見える・・・ということだ。
主役は立ち去ってしまった。塩野さんは、カエサルがそうであったように、冷徹な洞察力を発揮し、カエサル以後を・・・だれがどのようにふるまい、没落し、苦闘し、つぎの世代がその大きな傷跡をどう修復していくのか? と考察をすすめていく。
あるときは歴史家、あるときは文学者。
塩野さんはチャンネルを頻繁に切り替えながら、つぎのステージへと歩をすすめる。
次のステージの主役は、カエサルが遺言で指名し、その大任を背負うこととなった若きオクタウィアヌス=アウグストスである。時代遅れとなってしまった元老院主導の共和制に幕が下ろされ、帝政が開始される。
著者の一言一句に耳をそばだてながら、読者はことのなりゆきを、固唾をのんで見守るしかあるまい(^^♪
今度読み返していたら、塩野さんがめずらしく、「あとがき」のようなものを付していることにあらためて眼を瞠った。通常は「読者へ」と題する「まえがき」だけなのに。
彼女自身に「カエサルとその時代のローマを書ききった」という手応えがあったからだろう。
建国からおよそ700年。
一般的には衰退期に入った国家は、そのまま滅びるか、坂をころげ落ちるようにさらに衰退していくものだが、ローマだけはさらに300年以上生き延びる。その立役者こそカエサルなのである。塩野さんは本書に幕を引くにあたって、そうお書きになっている。
その向こうに21世紀の日本を見据えている・・・からであろうと、わたしは思う。