二草庵摘録

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魂の食物をこよなく愛した男 ~「ヘンリ・ライクロフトの私記」が胸に沁みた

2023年05月10日 | エッセイ・評論(海外)
■ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」(平井正穂訳)岩波文庫 1961年刊


これまでの人生の中で巡りあうことができた自然の美しさについて、書物について、食についてそのほか思いつくまま、四季折々思いを凝らし、ことばを研磨して、過不足のないすぐれたエッセイにまとめあげる。
これは充実した自叙伝であり、ヘンリ・ライクロフトという名を借りたギッシングの回想録なのだ。
ジョージ・ギッシングは(1857~ 1903年)19世紀イギリスの小説家である。

《私が買うのは文学書、すなわち人間の魂の食物なのだ。》(60ページ)
こういい放ったギッシングには、何のテレもないところがすごい!
読みすすむにしたがって、わたしは沼地にずぶずぶ足をとられるように、この「ヘンリ・ライクロフトの私記」にハマり込んでいった。
平井正穂(ひらいまさお)さんのこの訳は、60年もたっているのにまったく古さを感じさせないすぐれもの。
原文と比較したわけではないが、おそらく“名訳”と称していいのだろう。

《ヘンリ・ライクロフトの生き方が、私の理想である。当時、53歳であったライクロフトに出会ったのは、私が30歳のときであった。彼は英国の南イングランドの片田舎に隠退し、さまざまな思索にふけりつつ静かな余生を送っていた。移りゆく自然に心を惹かれ、読書をこよなく愛する男がここにいた。死について、常に思いを凝らしている男がここにいた。》Amazon榎戸誠さんのレビューより

この岩波文庫で279ページを、ギッシングは、わずか7週間で書き上げたというのだから、一気呵成に、流れるように書いたのである(^^)/
春夏秋冬の各編がほぼ25、6章に短くまとめられているので、2~4ページのエッセイをつづけて読まされている印象がある。
わたしがこの「ヘンリ・ライクロフトの私記」を読みたい・・・と思いはじめたのはいつだったろう。榎戸さんよりいくらか遅く、おそらく30代の終わりくらいだろうから、それからずいぶんと時間がたってしまった。
読み了えたいまとなってはどうでもいいことに属するが、文字が小さいんだよねぇ、と優柔不断なわたしはいじいじと、長いあいだ悩んでいたのだ。

《ともあれ、「ヘンリ・ライクロフトの私記」が、貴重な人生記録の“小さな傑作”としてイギリス文学史上に永久に残ることは明らかである。》と、訳者平井正穂さんが解説で述べておられる。

《あといくたび春を迎えられることであろうか。あと十度か十二度といえばあまりにいい気になりすぎているといえるかもしれない。それなら、せめてあと五度、六度は春を迎えたいと思う。五、六度でも随分長い年月だ。あと五度も六度も春がやってくるのを喜び迎え、はじめて「きんぽうげ」が咲きはじめてから薔薇が蕾をつけるまでその経過を愛情深く見守れるということが、どれほど大きな恩恵であることか!
大地が再び春の装いをつける奇蹟。なんとも名状できないほど目もあやかな光景が、五、六度も私の眼前に繰りひろげられるとは!
そのことを考えただけで、私はなんだか欲ばりすぎているような感じがしてならないのだ。》(29ページ。「春」の6より。2か所改行)

そんな近未来を予想していたのに、本書が刊行された年の12月には、ギッシングは、肺炎(おそらく)のため46歳でこの世を去っている。本書ははからずも“白鳥の歌”となってしまったのだ。
亡くなる数年前に、ある知り合いから遺産を贈られ、イングランドの南西部デボン州のエクセター近郊に、戸建ての家を借りて隠棲した。
本人はたいした額ではないと述べているが、食べるためにあくせくしなくてすむ、いわば“年金生活”に入ったのだ。
そこから、来し方行く末を眺め渡し、近郊散策、読書、旅行その他に持てる時間の大半を費やして、さまざまな感慨にふけっている。

いってみれば、晩年になってようやく手に入れることができた「ゆとりある生活」なのである。ギッシングは神やお手伝いさんなど周囲の人びとに、深い感謝を捧げている(´ω`*)
わたしが「南イタリア周遊記」(原題は『イオニア海のほとり』By the Ionian Sea, 1901年)を読んだのはいつのことだったろう? 
傑作とまではいえないと思ったけれど、心に染み入るような旅行記であった。ギッシングは古典が好きなので、ギリシアやローマ、つまり“地中海”に、特別な思い入れがある。

そしてシェークスピアを母国語で読めるありがたさと幸福感に、十分以上の満足を覚えているのだ。
英文学研究者で翻訳家の小池滋さんが、「ギッシング短編集」の解説で、《昔ながらの文士気質の持主》で《バスに乗り遅れてしまった不器用な男》とからかっておられる。(「ギッシング短編集」268ページ)
彼は二度結婚しているが、二度とも不幸極まりない結婚生活であったという。家庭はやすらぎどころか針のむしろ。一度目は売春婦、二度目は下層階級出身の“わがまま女”に苦しめられた。若いころは生活費の捻出のため盗みをはたらき、短期間ながら、刑務所に収監されてもいる。

そのことに一切ふれたくなかったため、ヘンリ・ライクロフトという架空の人物が必要だったのかもしれない。なお、原書のタイトルは、
THE PRIVATE PAPERS OF HENRY RYECROFT  1902年

・・・である。PRIVATEの一言に、特別なニュアンスがこもっている。
わたし的には、本書をルソーの「孤独な散歩者の夢想」(1778年刊)と比較したくなったが、似ているのは、“夢想”というだけで、文脈はまるで違う。「告白」の切り口は似ていなくはないが、ギッシングには、ルソーにみられるようなラディカルな思想はなく、ジャーナリズムに拠った、ある意味凡庸な小説家であった、とおもわれる。そしてなにより“英国人”であった。

ギッシングは英国人らしく紅茶が大好き♪ そしてイギリス産の牛肉に舌鼓をうち、イギリス流のジャガイモ料理を、自慢そうにたたえている。
そういったところから、著者の“お人好し”ぶりが、ぷんぷんと匂ってくるなあ^ωヽ*タハハ

この本は、老年文学の一大秀作である・・・とわたしは思う。似たような感触を備えた本がほかにもあるのかもしれないが、わたしは読んだ経験がなく、いたるところで、わくわく(・・・というのもおかしいが)させられた。
おもわず引用したくなることばが、たっぷりと鏤められているのだ。高齢者となったわたしは、著者に親しみを覚えながら、十分愉快に読み了えることができた、その英国人らしい“偏見”もふくめて。

しかし・・・しかし40代の半ばである。彼は自分自身の死がこんなに近くまで忍び寄っているとはかんがえてはいなかっただろう。いくら年をとっても、わたし自身をふくめ、人はだれもが、あと五、六年、いや二、三年でもいいから生きたい、生きていられるだろうと思いたがるものである。



   (文庫本で読めるギッシングの本がまだ2冊手許にある)

「ヘンリ・ライクロフトの私記」がおもしろかったので、いずれ、短篇の方もいくつか読めるといいな、読んでみたいな・・・とかんがえている。







  (以上はGoogleの画像検索からの借り物です。ありがとうございました)



評価:☆☆☆☆☆

※調べていたら、かつて「ギッシング選集」(全5巻)が刊行されたことがあったのだ。
小池滋責任編集、秀文インターナショナル、1988年(新版1992年)。

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