ブルックナーは、複雑怪奇な人物である。
「ああ、あの人はこういう人です」とはいえない。奇人変人としての資格を十分有している一方、途轍もなくスケールの大きな天才が、そこに同居している。
つぎの一冊は、わたしのブルックナー理解に、決定的な影響を与えた本。
■「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」田代 櫂(春秋社)2,800円+税
※この本の下に置いたのは、このごろどこへいくにも持ち歩いている「新編 名曲名盤300」(音楽之友社)
以前県立図書館で借りてきて卒読し、ずいぶんといろいろなことを教えていただいた評伝文学の逸品である。いや“文学臭”はさほど感じられず、うまくエピソードをつないで、ある一人の人間の生涯を、過不足なく、客観的にあぶり出しているところが逸品たるゆえんといってもいいだろう。
その本の中に、こういう一節がある。
《高地オーストリアの物寂しい田園風景と、険しい山並みの眺望。絢爛たる大伽藍と、その香煙に混じるかすかな屍臭。「死を想え」(メメント・モリ)の執拗な囁き・・・。これらがブルックナー芸術の母胎である》
もしブルックナーの音楽を数行で要約するとするなら、これ以上適切なことばを、わたしは思いつかない。
いや、宗教音楽の作曲者、あるいは当代随一のオルガン奏者だったブルックナーのことはひとまず擱く。わたしは一昨年ブルックナーに目覚めてから折りにふれて聴いてきている彼の交響曲にだけ、的をしぼって考えている。
ブルックナーについて語られたことばを読んでいると、人間に対する興味が、滾々として湧きあがるのを感じる。笑えるようなエピソードの種もつきない。
あの壮大・壮麗なシンフォニーと、人間アントンのなんという落差だろう(=_=)
わたしが映画監督ならば、ぜひともブルックナーを主人公とした映画を制作してみたい・・・と、かつて考えたことがある。彼の評伝を読んでいると、パトリス・ルコントの「仕立屋の恋」(フランス映画)を連想せずにはいられない(笑)。きっと、そのせいで映画をつくりたくなるのだろう。
ブルックナーのシンフォニーは「永遠への触手」としての音楽である。
この世に別れを告げた魂が、ハングライダーのような存在になって、大空を悠々と飛行してゆく。景色は刻々と変化し、この魂を飽きさせることがない。
もちろん、この音楽は、J・S・バッハから、ベートーヴェンから受けつぎ、アントンが生涯をかけて育てた「魂の深淵をのぞき込むような」音楽で、他に比類がない規模と壮麗さをそなえている。わたしはブルックナーと出会ってから、すっかり交響曲マニアとなり、第7番だけで、10枚のCDをもっている。
徹底的に聴く・・・そうせずにはいられない音楽だったからだ。まあ、5番や8番、9番だって、7番と同じように、あるいはそれ以上に、すばらしいシンフォニーなのだが、わたしがはじめに取り憑かれるように聴いたのが7番だった。
・・・そして4番がやってくる。
この第4番はわたしにいわせれば、この世界に対する「大いなる肯定の炎」のような音楽である。ただし、それを理解するようになったのは、ヴァントがベルリン・フィルとやった名盤と出会ってから・・・なのだけれど^^;
道端にうずくまるようにして、仕事のあいまに耳をすます。
いうまでもないことだけれど、ブルックナーもブラームスもこの世の人ではない。
しかし、彼らが残した音楽――「永遠への触手」としての音楽は、まさに“永遠に”聴きつがれていくだろう。