(2015年11月 前橋市)
詩人は自分がなしたこと、なそうとしたことのすべてを把握しているわけではない。ことばは指からしたたり落ちる。その最初の読者が、書いた詩人本人なのである。
「おや、こんな詩ができたぞ」
「こんな詩ができてしまったぞ」
セルフ・コントロールということがいわれる。たしかに日常生活においては、自分の行動の8割9割を制御しているといえるかもしれない。それは「意志の力」で、感情を抑えているからである。
そうしないといけないのだと、教育されてきた。
「大人になる」
「一人前になった」とは、そういうことであろう。
しかし、詩を書こうとするとき、大人になった「わたし」が、一人前になった「わたし」が、書いているのではない。
詩が出来てくる現場とは、一種不可解な混沌にあふれている。ある程度は制御できるが、ある程度は制御できない。
第一「わたし」ってなんだろう?
いま詩を書きつつあるわたし、である。日本語のことばの海を、泳いでいるだけ。コップやりんごが目の前のテーブルにあるように、そこにあるわけではない。
過去からやってきたものが混じり合って、掴んだと思ったら滑り抜け、結局のところ、詩を書く「わたし」は、わたし自身にとっても、核心のところは理解不能なものである。
あるいはこういってもいいだろう。複数の「わたし」が、共存しているのだ、と。
詩を書いていると、よくわからなかった「わたし」が、多少明確な形をとる。あるいは見たことのない「わたし」が、姿を現わす。書いている本人が、ほかならぬ最初の読者である、とはそういうことである。
人間にとって、意識の構造とはそういうものであり、詩はその意識の構造に寄り添って書かれてゆくのではないか。
それがわたしの詩である。詩を書くとは、わたしにとっては、そういう行為なのである。書かれたテキストだって、「そのとき、その場」の真実を語っているにすぎない。別な日、別な場所で書けば、違った詩ができあがるだろう。
そういう意味で詩は相対的なものだし、書こうと思えば、いくらでも書ける。ことばは完全に無意識の世界からやってくるわけではないが、無意識の世界のいわば痕跡を、たっぷり抱え込んで、生まれてくる。
たとえていえば詩は汗に似ている。その人自身の体臭を備えた汗。
「あれれ、こんな詩がうまれてきた」
落胆したり、よろこんだり。最初の読者としての「わたし」がそこにいる。
もう一人わたしとはなにか?
可能性としてありうべき自己、ありえたかもしれない自己であり、あるいは日本語の海を泳ぎきろうとしてもがくものとしての自己である。それは大抵の場合、「読む」に値する自己像といっていい。
書いたら、読む。
詩を書くとは、その連続なのである。
コントロールできるもの、できないもののせめぎ合い。
そこに最後のピリオドを打つのはむろんわたしである。タイトルをつけ、署名をする。
なぜかというと、そうしないと行方不明になってしまうからである。
詩人は自分がなしたこと、なそうとしたことのすべてを把握しているわけではない。ことばは指からしたたり落ちる。その最初の読者が、書いた詩人本人なのである。
「おや、こんな詩ができたぞ」
「こんな詩ができてしまったぞ」
セルフ・コントロールということがいわれる。たしかに日常生活においては、自分の行動の8割9割を制御しているといえるかもしれない。それは「意志の力」で、感情を抑えているからである。
そうしないといけないのだと、教育されてきた。
「大人になる」
「一人前になった」とは、そういうことであろう。
しかし、詩を書こうとするとき、大人になった「わたし」が、一人前になった「わたし」が、書いているのではない。
詩が出来てくる現場とは、一種不可解な混沌にあふれている。ある程度は制御できるが、ある程度は制御できない。
第一「わたし」ってなんだろう?
いま詩を書きつつあるわたし、である。日本語のことばの海を、泳いでいるだけ。コップやりんごが目の前のテーブルにあるように、そこにあるわけではない。
過去からやってきたものが混じり合って、掴んだと思ったら滑り抜け、結局のところ、詩を書く「わたし」は、わたし自身にとっても、核心のところは理解不能なものである。
あるいはこういってもいいだろう。複数の「わたし」が、共存しているのだ、と。
詩を書いていると、よくわからなかった「わたし」が、多少明確な形をとる。あるいは見たことのない「わたし」が、姿を現わす。書いている本人が、ほかならぬ最初の読者である、とはそういうことである。
人間にとって、意識の構造とはそういうものであり、詩はその意識の構造に寄り添って書かれてゆくのではないか。
それがわたしの詩である。詩を書くとは、わたしにとっては、そういう行為なのである。書かれたテキストだって、「そのとき、その場」の真実を語っているにすぎない。別な日、別な場所で書けば、違った詩ができあがるだろう。
そういう意味で詩は相対的なものだし、書こうと思えば、いくらでも書ける。ことばは完全に無意識の世界からやってくるわけではないが、無意識の世界のいわば痕跡を、たっぷり抱え込んで、生まれてくる。
たとえていえば詩は汗に似ている。その人自身の体臭を備えた汗。
「あれれ、こんな詩がうまれてきた」
落胆したり、よろこんだり。最初の読者としての「わたし」がそこにいる。
もう一人わたしとはなにか?
可能性としてありうべき自己、ありえたかもしれない自己であり、あるいは日本語の海を泳ぎきろうとしてもがくものとしての自己である。それは大抵の場合、「読む」に値する自己像といっていい。
書いたら、読む。
詩を書くとは、その連続なのである。
コントロールできるもの、できないもののせめぎ合い。
そこに最後のピリオドを打つのはむろんわたしである。タイトルをつけ、署名をする。
なぜかというと、そうしないと行方不明になってしまうからである。