二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

「人間・この劇的なるもの」

2008年03月19日 | エッセイ(国内)
 わが国知識人には、一般に右系保守主義者と見られている人がいる。戦後に限定しても、三島由紀夫、西部邁、西尾幹二、それとこの福田恆存が代表格といっていいであろうか?
 小林秀雄あたりも、こういう括りをされることがあるかもしれないが、まあ、そんなことはどうでもいい。
 わたし自身は、彼らの活躍の舞台である論壇には無関心だったので、立ち入った論評をくわえる資格はない。

 福田さんにかぎっていえば、まずはシェイクスピアの翻訳・紹介者として、いちばんひろく知られている。福田訳シェイクスピアを、新潮文庫で読んだという読者は大勢いるに違いない。むろんわたしもその一人。シェイクスピア全集で一時代を築き、その訳行業で読売文学賞を受賞している。
 また、文芸評論家であり、劇作家でもある。離合集散のたえまない劇団の運営にも、長くたずさわった。

「人間・この劇的なるもの」をはじめ、『私の國語教室』や作家論などは、現在でも各社の文庫本でたやすく手に入る。

 さて「人間・この劇的なるもの」だが、まことに奇妙な本である。
 人生論であり、文明批評であり、演劇論でもある。小林秀雄の影響を色濃く残しているような文体もみえる。お得意のシェイクスピア論は、引用が多いのが気にはなるが、まことに説得力があって、ハムレット論などは、いま読んでもたいへんおもしろい。

<私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。>
<ストイシズムは、文化に疎外された田舎者ないしは奴隷の哲学であり、エピキュリアニズムは、力に負けた都会的文化人の哲学である。>
<(われわれ個人は)部分でありながら、全体を意識し、全体を反映し、みずから意志して全体の部分になりうるということなのだ。真の意味における自由とは、全体のなかにあって、適切な位置を占める能力のことである。>

 福田さんは、個人の自由や個性など存在しない、存在するように見えるが、それこそその人間が演じねばならない役割なのだ、といっている。
 アメリカ文化の太鼓持ちめいた甘っちょろいヒューマニストばかりが横行した当時の論壇にあって、こういった言説は保守反動のレッテルをはられ、格好の標的にされる一方、別な勢力からは、「頑固じじい、よくぞいった!」と評価されたのであろうか。いまでも、丸谷才一さんや、山崎正和さんなど、そういった衣鉢を継いで、おおいに気を吐いている。
 どっちが正論なのであろうか、と考え込む必要はあまりない、とわたしは思う。
こまかいところでは異論もあるが、彼らがいうのは、正論なのである。しかし、正論は、しばしば「世に容れられない」こともまた、歴史が語っている。

 本書には人間への苦い絶望がある。その絶望は、歴史への謙虚な姿勢と洞察につらぬかれたものだ。「日本は戦後ずっと、まちがった方向にすすみすぎた。方向転換ができるなら、そうしないと憂うべき社会はいっそう深刻になっていくぞ!」

 たしかに、いまとなっては、旧漢字、旧仮名にはもどれないであろう。
 しかし、「日本も公用語を英語にしよう」などというばかげた運動があることを考えると、彼らの愛国心は本物である、とわたしは信じる。
福田さんがいう「全体」という概念はわたしにはいまひとつよくわからないが、「福田の言説はいまも、十分傾聴にあたいする真実、苦い真実を衝いている」と考えざるをえなかった。
 これは貴重な警世の書でもあるのである。


■福田恆存 1912~1994年(大正元~平成6年)
なお、著作一覧、経歴など詳しくはこちらを参照。
ウィキペディア「福田恆存」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98


「人間・この劇的なるもの」福田恆存 中公文庫 >☆☆☆☆

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