免停のためクルマにも乗れず
財布の中はカラッピーで
ぼくは七キロの道をとぼとぼ歩いた。
カメラはもっていなかった。
すりへったスニーカーと 安物のジーパン。
風のない おだやかな秋の午後だった。
捨てるに捨てられない夢が
少しおくれてついてくる。
役にたたない 老いた牛のように。
虚無というのではないが
なにか手につかんだものを毀したいという衝動を
ぐっとこらえながら ため息をつきつき歩いていた。
あれから何年たったのだろう。
いまぼくはモーツァルトの弦楽五重奏曲のかたわらにいる。
第4番ト短調 K.516が聞こえている。
身も世もない といいたくなるような悲しみが
この若い作曲家の胸の奥で
見なれぬ深海の魚とでもいうみたいに撥ねて
その飛沫がぼくの耳たぶを濡らす。
なあんにもないんだね
なーんにも。
あのときどうしてあんなことを考えたんだろう?
余命数日のような病者みたいにうつむいたり 空を見あげたり。
ぼくの手に凶器があったら人を殺していただろうか?
そこが崖っぷちだったら この世の外へ飛込んでいただろうか?
「いいさ もう終わりにしよう」
・・・とでもいうみたいに
末期の眼で空を眺めるのは だれもが
きっと一度や二度経験があるだろう。
だけどミニバイクにまたがったピンクヘルメットの女の子が
向こうから不意に現われてぼくは気を取り戻した。
・・・というのはジョークにしても
なにかバカげた偶然に身をまかせて。
そうして今日も歩いている。
あそこで消えてしまったかもしれないぼくを想像しながら。
モーツァルトの音楽がそのとき その場の空気を思い出させる。
人生がいつも悲しいわけじゃない ってことを
ぼくはモーツァルトと あの時間の中から学んだのだね。
捨てるに捨てられない夢が
少しおくれてついてくる いまも。