結論からさきにいうと、非常におもしろいのだが、その反面読みにくく、いささか手こずった本である。表現が昨今の日本語としてこなれていないからだ。
本書は最初、岩波新書の一冊として昭和26年に刊行されたのだそうである。難読漢字、めったに使われない表現がしばしば出てきて、悩まされる。
一つ例をあげると「九仞の功を一簣に虧いた(きゅうじんのこうをいっきにかいた)」(367ページ)ということばがある。文脈から判断できないではないが、正確な意味はさっぱりわからない。
昔の訳書は、いまとなっては読むにたえないものが多い。
日本語の表現としてこなれているか、いないかではなく、きちんと内容を理解したうえで訳しているのか疑わしくなる。わたしがときおり開く本では、哲学・思想関連の本にそういった傾向がとくに甚だしい。デカルト、カント、ショーペンハウエルがデカンショであった時代のなごりであろうか。
文体にもクセがある。もってまわった婉曲な表現がとても多く、隔靴掻痒(これも死語か)の感をしばしば抱かざるをえなかった(´Д`)
ツワイクの原文がそうなのか? あるいは訳者が教養をひけらかしている?
原文を読んだわけではないから推測するしかないのだが、訳者の責任は大きいだろう。名著なのだから、新訳があればずっとこなれた日本語になるはず。
古めかしい岩波文庫で、カントやヘーゲルを読もうとしてたちまち挫折した若いころを思い起こす。
とはいえ、中途で投げ出さず最後のページまでたどり着くことができた。
ジョゼフ・フーシェは、知る人ぞ知るフランスにおける稀代のマキャベリスト。
一国のトップに立ったことはなく、警務大臣として歴代の政権に仕え、そしてつぎつぎ裏切って、没落した昨日までの指導者に苦杯をなめさせた政治家である。
まだ読むにはいたってはいないが、バルザックは「暗黒事件」でこのフーシェをあつかっているそうである。
ツワイクはバルザックを調べていて、このフーシェを“発見”したようである。
《バルザックのような人が、彼こそ「人々の上に権力をふるった点においては、ナポレオンさえしのいでいた」と賞讃した》と、フーシェは「はしがき」で述べている。
ツワイクはまた、つぎのように書く。
《現実の生活、実際生活においては、政治という権力がものを言う世界においては̶そしてこのことは、あらゆる軽信をいましめるために特に強調しなければならぬ点だが̶すぐれた人物、純粋な観念の持主が、決定的な役割を演ずることはまれであって、はるかに価値は劣るが、しかしさばくことのより巧みな種類の人間、すなわち黒幕の人物が決定権を握っているのである。》(はしがき 9ページ)
この本は一風変わった評伝・伝記なのだが、ツワイクは政治的人間の類型学的試みであるといっている。本書のサブタイトルに「ある政治的人間の肖像」とあるのはこういった理由による。
文学的人間、歴史的人間、科学的人間、哲学的人間・・・。
ツワイクのこの手法を用いれば、いろいろな人間の類型学といったようなものが構築できるだろう。
このところ、吉田茂や皇帝ネロの伝記を読んできてかんがえるのは、彼らが本来の政治的人間ではないということである。
「では政治的人間とは、何か」。
政治家や皇帝であれば、そのまま政治的人間といっていいわけではない。真に政治的人間はどこにいるのか? それはだれなのか?
そのとき浮上してきた歴史上の人物の一人が、フーシェであった。
政治的人間とは、権力を握りろうとする人間であり、握れないとしても、そこにすり寄る人間である。そうすれば、金や名誉、女がついてくる。
世界史も日本史も、ある一方向から眺めれば、権力闘争の歴史である。だから歴史は、風俗史や生活史ではなく、何よりもまず、政治史なのである・・・とわたしは思う( -ω-)
《“サン⁼クルーの風見”。フーシェにつけられた渾名である。
フランス革命期には徹底した教会破壊者にして急進的共産主義者。王政復古に対してはキリスト教を信ずることのきわめて篤い反動的な警務大臣。
近世における最も完全なマキャヴェリスト、フーシェは、その辣腕をふるい、陰謀をめぐらして大変動期をたくみに泳ぎきる。》(岩波文庫表紙のことば。改行は引用者)
ひとことに要約してしまえば、これがフーシェという男である。公爵(オトラント公爵)に上りつめ、巨万の富をわが物にするが、決して政治の表には出ようとしない。いわゆる黒幕、何十人もの人間を処罰したり断頭台送りにした、警務大臣。
ただし、こんな男も、器量の悪い妻を大切にし、子どもたちに愛情をそそいできた「よき家庭人」としての一面があったという。
首尾一貫していないどころではない。「君子は豹変する」を絵に描いたような男である。
ツワイクは本気になって、この政治的黒幕、カメレオンのごときフーシェの実像を抉り出していく。本編の主人公なのだが、容赦はしない。
フランス革命が生み出した怪物であり、ナポレオンとは不即不離、というか、表裏一体の政治的人間である。しかし、晩年は周囲から相手にされず、祖国フランスから追放処分をうけて転々とヨーロッパをさすらったあと、トリエステで70年の生涯を閉じる。
完全に世間から忘れ去られてしまったというわけだ。フランス革命史をあつかった本を読んでも、フーシェは端役として登場するのがせいぜいである。
バルザックに「暗黒事件」はあるとはいえ、ツワイクがフーシェの伝記を書いてくれなかったら、わたしはこういう男の存在に目を向けることはなかったろう。
《ナポレオンの好戦的な情熱と、その途方もない野心に対するこのひそかな反抗は、彼の臣下のうち犬猿もただならぬ仲の敵同士さえも、ついに手を握るにいたらしめた、すなわち、フーシェとタレーランの結合である。
ナポレオン配下の最も有能なこの二人の大臣は、当代において心理的に最も興味ある人物だが、おたがいに虫の好かぬ間柄だった̶おそらくは多くの点でおたがいにあまりによく似ていたためである。
この二人はともに冷静な現実的な頭のきれる男であり、犬儒気質で薄情なマキアヴェリの徒である。》(231ページ、改行は引用者)
この種の辛辣かつえぐりの利いた指摘はいたるところに書き込まれている。こういったシニカルな、苦々しい現実を描写したくてツワイクは本書を書いた。
ヒーロー、ヒロインとして脚光をあびる人間のかたわらには、黒子がいて舞台をまわしている。フーシェはつねに陰にいるので、目立たない。目立たないが、たしかに“そこ”にいたのである。
ナポレオンは天才的な軍人だったが、変転極まりない激動の時代を泳ぎきったフーシェのようなマキアヴェリストから見たら、“若造”に過ぎないといわんばかり。
どんな手段を使おうが、勝ち残ったものが正義なのだ。それが政治というものの冷酷非情な現実なのである。
本書の読者は、読み終えて粛然たる感慨にとらわれるだろう。フーシェこそ、冷厳な女神がつかわした政治的なものの使徒なのである。
この「ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像」は、政治的人間の類型学としては、読み応え十分な労作である。
5点満点をつけてもいいのだが、冒頭に述べたように翻訳に問題があるとかんがえたので、4点にとどめておく。もっと読みやすい新訳がすでに刊行されているのかもしれないが・・・。
評価:☆☆☆☆