(70年ぶりの新訳ということで手にした「神学・政治論」。はたして最後まで読み通せるのか?)
木田元さん、上野修さんに先導されてスピノザに関心が深まったが、どうも「エチカ」には歯がたたないなあ(^^;)
一方「神学・政治論」は、旧約聖書の世界に緻密な論考を加えているけど、このあたりからスピノザに分け入ることができるか・・・どうか?
しかし、読み出してみて気が付くのは、スピノザにおけるデカルトの影響。
デカルトに対するわたしの知識があまりに乏しいことがわかったので、
デカルト周辺も、少しうろついてみることにした。
数学、物理、化学、生理学など、個別科学がまだ未分化だった時代。デカルトはそういう時代のスーパースターであった。
デカルト:1596~1650年
スピノザ:1632~1677年
デカルトが、スピノザに36年先行していることは頭に入れておかなければならない。
それはとても重要なことである。
なぜ、及ばずながら哲学にいまごろ関心をもったのかというと、最初のきっかけは文庫で木田元さんの哲学エッセイを読んだことによる(^^♪
木田さんは満州からの引き揚げ者、そして東北大学で哲学を学び、中央大学で長年教授をつとめ、フッサールの現象学、ハイデガーの存在論の専門家――翻訳・紹介者として、ある時代をリードしてこられた方だ。
しかし、ひたすら研究室にこもって、内外の書物ばかり読んでこられた講壇哲学の人ではない。
東大、京大系のアカデミズムとは一線を画すような来歴をもっているところが、木田さんが書くものに、他の学者・研究者とは違ったおもしろさをもたらしている。
ざっくばらんで、驚くほど率直。
「哲学なんかやったって、きみ、世の中の役にはたたないよ」
そういうことを、いったり、書いたりしている。
哲学はヨーロッパ人が考えたこと、それを東洋の涯にある日本人が、日本語で研究することに、そもそもどんな価値や意味があるのかね!?
木田さんの根っこには、そういう疑問が横たわっているのだ。
哲学そのものというより、キーワードは“哲学史”。
ハイデガーの徒、木田さんの眼には、焦点は後者の方に、より鮮明にむすばれている。そこがキモなのではあるまいか・・・と、わたしはひそかに考えているのだ(=_=)ウ~ム。
しかし、哲学の森に分け入るためには、訓練が必要になる。無知な素人が、いきなり、たとえば有名な「方法序説」(デカルト)を手にとって読みはじめたからといって、すらすら理解できるものではない。
教養というものがないがしろにされて久しいが、教養――それは人類の叡智、二千五百年に及ぶ知の遺産そのものであることは否定しようがない。
そして、その中核に存在するのが哲学である・・・と、わたしは漠然と考えはじめている。
しかし、登り初めてみると、山塊はいよいよ険しく、はたしてどのあたりまでたどり着けるか、はなはだ心許ない。
まあ、そんなことを考えているヒマがあったら、自分の頭や足を鍛えるしかないのだが・・・。
昔の岩波文庫は、翻訳がどれもあまりよくなかった。それは、訳者が一知半解の状態で、額に汗しながら、「こんなものか、これでどうだろう」と、思案を重ねつつ日本語に変換してきたからだろう。
そこに新訳が登場してきたのだ。
こちらを読まない手はない・・・原文などどのみちムリなのだからと思いつつ、参考図書をみつくろって漁っている。
文学、歴史はどちらかといえば得意分野。
だけど、哲学、思想、宗教は、もともと苦手な分野であった。
木田元さんというとっかかりを得て、どこまでこの深いうっそうたる森の奥へ分け入ることができるか?
このあいだ県民マラソンがあったが、あれに参加するビギナーみたいなものだろう。フルマラソンがムリなら、せめてハーフマラソンで(笑)。
まあ、そんな心境に近いものが、胸のうちをたゆたっている・・・のであります。
木田元さん、上野修さんに先導されてスピノザに関心が深まったが、どうも「エチカ」には歯がたたないなあ(^^;)
一方「神学・政治論」は、旧約聖書の世界に緻密な論考を加えているけど、このあたりからスピノザに分け入ることができるか・・・どうか?
しかし、読み出してみて気が付くのは、スピノザにおけるデカルトの影響。
デカルトに対するわたしの知識があまりに乏しいことがわかったので、
デカルト周辺も、少しうろついてみることにした。
数学、物理、化学、生理学など、個別科学がまだ未分化だった時代。デカルトはそういう時代のスーパースターであった。
デカルト:1596~1650年
スピノザ:1632~1677年
デカルトが、スピノザに36年先行していることは頭に入れておかなければならない。
それはとても重要なことである。
なぜ、及ばずながら哲学にいまごろ関心をもったのかというと、最初のきっかけは文庫で木田元さんの哲学エッセイを読んだことによる(^^♪
木田さんは満州からの引き揚げ者、そして東北大学で哲学を学び、中央大学で長年教授をつとめ、フッサールの現象学、ハイデガーの存在論の専門家――翻訳・紹介者として、ある時代をリードしてこられた方だ。
しかし、ひたすら研究室にこもって、内外の書物ばかり読んでこられた講壇哲学の人ではない。
東大、京大系のアカデミズムとは一線を画すような来歴をもっているところが、木田さんが書くものに、他の学者・研究者とは違ったおもしろさをもたらしている。
ざっくばらんで、驚くほど率直。
「哲学なんかやったって、きみ、世の中の役にはたたないよ」
そういうことを、いったり、書いたりしている。
哲学はヨーロッパ人が考えたこと、それを東洋の涯にある日本人が、日本語で研究することに、そもそもどんな価値や意味があるのかね!?
木田さんの根っこには、そういう疑問が横たわっているのだ。
哲学そのものというより、キーワードは“哲学史”。
ハイデガーの徒、木田さんの眼には、焦点は後者の方に、より鮮明にむすばれている。そこがキモなのではあるまいか・・・と、わたしはひそかに考えているのだ(=_=)ウ~ム。
しかし、哲学の森に分け入るためには、訓練が必要になる。無知な素人が、いきなり、たとえば有名な「方法序説」(デカルト)を手にとって読みはじめたからといって、すらすら理解できるものではない。
教養というものがないがしろにされて久しいが、教養――それは人類の叡智、二千五百年に及ぶ知の遺産そのものであることは否定しようがない。
そして、その中核に存在するのが哲学である・・・と、わたしは漠然と考えはじめている。
しかし、登り初めてみると、山塊はいよいよ険しく、はたしてどのあたりまでたどり着けるか、はなはだ心許ない。
まあ、そんなことを考えているヒマがあったら、自分の頭や足を鍛えるしかないのだが・・・。
昔の岩波文庫は、翻訳がどれもあまりよくなかった。それは、訳者が一知半解の状態で、額に汗しながら、「こんなものか、これでどうだろう」と、思案を重ねつつ日本語に変換してきたからだろう。
そこに新訳が登場してきたのだ。
こちらを読まない手はない・・・原文などどのみちムリなのだからと思いつつ、参考図書をみつくろって漁っている。
文学、歴史はどちらかといえば得意分野。
だけど、哲学、思想、宗教は、もともと苦手な分野であった。
木田元さんというとっかかりを得て、どこまでこの深いうっそうたる森の奥へ分け入ることができるか?
このあいだ県民マラソンがあったが、あれに参加するビギナーみたいなものだろう。フルマラソンがムリなら、せめてハーフマラソンで(笑)。
まあ、そんな心境に近いものが、胸のうちをたゆたっている・・・のであります。