ずっと以前から気になっているのに、なかなか取りかかれない小説家がいる。
フランス文学では、わたしの場合、バルザックがその代表格である。
はじめて本を買ったのは、たぶん高校生のころ。河出書房のグリーン版世界文学全集で「幻滅」を、中央公論「新集世界の文学」で「従妹ベット」を、あるいは岩波文庫で、バルザックの短編集などを何冊か買って、書棚にならべてあった。
手に入れてしまうと「自分のものになった」というだけで、その魅力が薄れるのは、女性の場合と、似ている。
これを考えると、欲望が「距離の情熱」といわれる意味がわかる。
今回もまた、バルザックの周辺を、なんとなく散歩している。
藤原書店から刊行されている「バルザック『人間喜劇セレクション』」が気になって仕方ない。鹿島茂・山田登世子編集の「バルザックを読む」のⅠ、Ⅱ巻を図書館で借りてきて、あらかた読んでしまった。Ⅰには、編集者をホストとした対談集が、Ⅱにはフランス文学研究者や日本の作家等によるエッセイのほか、参考文献として、バルザック、ジョルジュ・サンドのあいだに交わされた往復書簡が収録されている。
周辺をうろついてばかりで、なかなかその代表作のなかに入れないのはどうしてだろう?
とはいうものの、光文社古典新訳文庫「グランド・ブルテーシュ奇譚」を読みおえたので、少し感想を書いておこう。
本書は四つの短編小説と、雑文一編を、宮下志朗さんが新訳したもの。
「いま息をしている言葉で」訳してあるから、たいへん読みやすく、文字サイズが大きめなので、中高年者にはたいへんありがたいといえる。
表題作は岩波文庫で数年前に読んで感心した覚えがある。だれもが、ポーの「黒猫」を思い浮かべるだろう。語り手を設定した額縁小説。廃墟の描写が秀逸で、読後の印象も鮮やかである。バルザックが残した仕事は、幻想小説、観念小説、風俗小説、経済小説、恋愛小説など多岐にわたるが、本作は、幻想風味の恋愛小説であろうか。
主題は「嫉妬のおそろしさ」といったところだろう。「ことづて」は、コント風味の恋愛短編。
そして、つぎが、いちばん感心した「ファチーノ・カーネ」となる。
解説を参照すると・・・、
作者バルザックの分身とおぼしき「わたし」が、バスチーユ広場近くの屋根裏部屋で勉強にいそしんでいたころの話である。「わたし」の気晴らしは、場末の町に出かけて民衆の心に入り込み、彼らの人生と融合することであり、「群衆と沐浴する」「群衆と結婚する」というボードレールの主題(「パリの憂鬱」『群衆』)を先取りする注目すべき作品。
・・・ということになる。
作者の端倪すべからざる歴史認識に裏付けられた、本短編集最高の秀作である。
そこにバルザックは、こう書いている。
「わたしは、この場末の町の暮らしぶりや、住民の様子、彼らの性格を観察しに出かけていたのである。普段からその界隈に住む労働者たちと同じように粗末な身なりをしていて、外見には無頓着なわたしには、彼らのほうも身構えたりしなかった。おかげで彼らの中にもぐり込んで、連中が取引を成立させたり、仕事を終えた帰り道に言い争ったりしている様子を目の当たりにすることができた。その頃すでにわたしの観察眼は直感の域にまで達し、相手の精神のうちに忍び込んでいったのであるが、もちろんその肉体をないがしろにしていたわけではない。むしろわが観察眼が、外側に現れた細部をしっかり把握したがゆえに、ただちにその内奥にまで達しえたのだ。『千夜一夜物語』に出てくるイスラムの托鉢僧が呪文をとなえ相手の心身に乗り移ったように、わが観察眼によって、わたしはそれが向けられた相手と入れ替わる、つまりその人間の人生を生きることができたのである。」
自分の能力に、ここまで自信がもてるところが、天才の天才たる所以であろう。
「その人間の人生を生きる」とは!
「マダム・フィルミアーニ」の一編だけが、構成に前半・後半の破綻が感じられるものの、バルザックらしい、いわば「人生の分厚さ」のようなものをただよわせているところは読み逃せない。
このところ、鹿島茂さんの本をたてづつけに読んだが、彼はまぎれもなくバルザシアン。いやでも影響をうけてしまう。
さーて、そろそろ、手許にある代表作にとりかからねばならないだろう。
五十代六十代が、「人生の秋」といえる時季だとすれば、この時節に読むべき作家として、バルザックあるいはゾラほどふさわしい作家はほかにいないと思っている。
巻末に31ページにわたるバルザック年表が付せられ、ライトな伝記のおもむきがあって愉しい。
評価:★★★★
フランス文学では、わたしの場合、バルザックがその代表格である。
はじめて本を買ったのは、たぶん高校生のころ。河出書房のグリーン版世界文学全集で「幻滅」を、中央公論「新集世界の文学」で「従妹ベット」を、あるいは岩波文庫で、バルザックの短編集などを何冊か買って、書棚にならべてあった。
手に入れてしまうと「自分のものになった」というだけで、その魅力が薄れるのは、女性の場合と、似ている。
これを考えると、欲望が「距離の情熱」といわれる意味がわかる。
今回もまた、バルザックの周辺を、なんとなく散歩している。
藤原書店から刊行されている「バルザック『人間喜劇セレクション』」が気になって仕方ない。鹿島茂・山田登世子編集の「バルザックを読む」のⅠ、Ⅱ巻を図書館で借りてきて、あらかた読んでしまった。Ⅰには、編集者をホストとした対談集が、Ⅱにはフランス文学研究者や日本の作家等によるエッセイのほか、参考文献として、バルザック、ジョルジュ・サンドのあいだに交わされた往復書簡が収録されている。
周辺をうろついてばかりで、なかなかその代表作のなかに入れないのはどうしてだろう?
とはいうものの、光文社古典新訳文庫「グランド・ブルテーシュ奇譚」を読みおえたので、少し感想を書いておこう。
本書は四つの短編小説と、雑文一編を、宮下志朗さんが新訳したもの。
「いま息をしている言葉で」訳してあるから、たいへん読みやすく、文字サイズが大きめなので、中高年者にはたいへんありがたいといえる。
表題作は岩波文庫で数年前に読んで感心した覚えがある。だれもが、ポーの「黒猫」を思い浮かべるだろう。語り手を設定した額縁小説。廃墟の描写が秀逸で、読後の印象も鮮やかである。バルザックが残した仕事は、幻想小説、観念小説、風俗小説、経済小説、恋愛小説など多岐にわたるが、本作は、幻想風味の恋愛小説であろうか。
主題は「嫉妬のおそろしさ」といったところだろう。「ことづて」は、コント風味の恋愛短編。
そして、つぎが、いちばん感心した「ファチーノ・カーネ」となる。
解説を参照すると・・・、
作者バルザックの分身とおぼしき「わたし」が、バスチーユ広場近くの屋根裏部屋で勉強にいそしんでいたころの話である。「わたし」の気晴らしは、場末の町に出かけて民衆の心に入り込み、彼らの人生と融合することであり、「群衆と沐浴する」「群衆と結婚する」というボードレールの主題(「パリの憂鬱」『群衆』)を先取りする注目すべき作品。
・・・ということになる。
作者の端倪すべからざる歴史認識に裏付けられた、本短編集最高の秀作である。
そこにバルザックは、こう書いている。
「わたしは、この場末の町の暮らしぶりや、住民の様子、彼らの性格を観察しに出かけていたのである。普段からその界隈に住む労働者たちと同じように粗末な身なりをしていて、外見には無頓着なわたしには、彼らのほうも身構えたりしなかった。おかげで彼らの中にもぐり込んで、連中が取引を成立させたり、仕事を終えた帰り道に言い争ったりしている様子を目の当たりにすることができた。その頃すでにわたしの観察眼は直感の域にまで達し、相手の精神のうちに忍び込んでいったのであるが、もちろんその肉体をないがしろにしていたわけではない。むしろわが観察眼が、外側に現れた細部をしっかり把握したがゆえに、ただちにその内奥にまで達しえたのだ。『千夜一夜物語』に出てくるイスラムの托鉢僧が呪文をとなえ相手の心身に乗り移ったように、わが観察眼によって、わたしはそれが向けられた相手と入れ替わる、つまりその人間の人生を生きることができたのである。」
自分の能力に、ここまで自信がもてるところが、天才の天才たる所以であろう。
「その人間の人生を生きる」とは!
「マダム・フィルミアーニ」の一編だけが、構成に前半・後半の破綻が感じられるものの、バルザックらしい、いわば「人生の分厚さ」のようなものをただよわせているところは読み逃せない。
このところ、鹿島茂さんの本をたてづつけに読んだが、彼はまぎれもなくバルザシアン。いやでも影響をうけてしまう。
さーて、そろそろ、手許にある代表作にとりかからねばならないだろう。
五十代六十代が、「人生の秋」といえる時季だとすれば、この時節に読むべき作家として、バルザックあるいはゾラほどふさわしい作家はほかにいないと思っている。
巻末に31ページにわたるバルザック年表が付せられ、ライトな伝記のおもむきがあって愉しい。
評価:★★★★