■フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」小川高義訳(光文社古典新訳文庫文庫 2009年刊)
最初に結論めいたことを述べておくと、「グレート・ギャツビー」は、わたしの独断と偏見によれば、世にいわれるような傑作ではなく、Aの下または、B上あたりのランクであろう。もちろん秀作は秀作なのだ。だらだらと終わりそうで終わらない結末がよくない。
フィッツジェラルドは“書きすぎて”しまった。
《絢爛豪華な邸宅に贅沢な車を持ち、夜ごと盛大なパーティを開く男ギャッツビーが、ここまで富を築き上げてきたのはすべて、かつての恋人を取り戻すためだった。だが、異常なまでのその一途な愛は、やがて悲劇を招く。過去は取り返せると信じて夢に賭け、そして砕けた男の物語。リアルな人物造形によってギャッツビーの意外な真実の姿が見えてくる新訳!》BOOKデータベースより
「グレート・ギャツビー」は、現在、新潮文庫(野崎孝訳)、中央公論新社(村上春樹翻訳ライブラリー)、そしてこの光文社古典新訳文庫文庫(小川高義訳)の3つが、文庫本としてラインナップされている。とくに村上春樹訳は、評価が高いといっていいかもね♬
しつこいようだが、つぎに村上訳BOOKデータベースの情報を引用してみる。
《村上春樹が人生で巡り会った、最も大切な小説を、あなたに。新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語―。読書家として夢中になり、小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作に、翻訳家として挑む、構想二十年、満を持しての訳業。》
村上さんがあとがきで、この「グレート・ギャツビー」を褒めちぎっているのは、わたしも読ませていただいた。
「へええ、そんなにすばらしい小説なのか!?」
しかし、はっきりいえば、その期待は裏切られた。
「カラマーゾフの兄弟」
「グレート・ギャツビー」
「ロング・グッドバイ」
この3冊が、村上春樹セレクトの3大小説だという。
・・・という仕儀で、村上訳「グレート・ギャツビー」を読みはじめた。
ところが、第2章の半ばほどで、挫折しそうになった(´?ω?)
主要登場人物が、スッキリと頭に入ってこない。
わたしの手許には、3冊の「グレート・ギャツビー」がある。その中で、光文社古典新訳文庫の小川さんのものだけ、主要登場人物の一覧が、別刷りで文庫本に挟み込まれているのだ。
プロットがはっきりとは頭に入らないため、途中から光文社文庫の小川訳に乗り換えた。
“小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作”。それが村上春樹にとっての「グレート・ギャツビー」なのである。
《新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語》(村上訳)
・・・なのか、はたまた、もっとリアルに、
《異常なまでのその一途な愛は、やがて悲劇を招く。過去は取り返せると信じて夢に賭け、そして砕けた男の物語》(小川訳)なのか(。-ω-)
わたしは本書の語り手ニック・キャラウェイにも、ジェイ・ギャツビーにも感情移入できなかった。まして、ヒロインのデイジー・ブキャナンなど、論外。
小川訳で読む限り、村上春樹がなぜこれほど褒めちぎるのか、さっぱりわからない。
経済的な“バブル現象”は、小さな、あるいは大きな悲喜劇を無数に残して、消えていった。わたしもそういったバブル景気に踊らされた口である。
群馬県には伊香保という温泉街があるが、カメラを手にしてその“バブル遺産”を、4回、5回と撮り歩いたことがある。
本書は「哀しくも美しい、ひと夏の物語」なんかではない。「過去は取り返せると信じて夢に賭け、そして砕けた男の物語」なのである。
《そのときギャツビーは、金の力をつくづく思い知らされた。財産があれば、青春と神秘をつかまえて保存しておける。着替える衣装が多ければ颯爽としていられる。そしてデイジーは、銀のように艶めいて、あくせく働く庶民階級の上に超然としていられる。》(244ページ)
フィッツジェラルドはニック・キャラウェイでもなく、ジェイ・ギャツビーでもないということだ。ただ彼らに寄り添ってはいる。
そのことによって「グレート・ギャツビー」という小説を書いた。29歳のときのこと。彼の小説をすべて読んだわけではないが、以後、本作品を超える小説を、フィッツジェラルドは作り出すことは出来なかったのであろう。
ニック・キャラウェイという語り手に仕掛けがほどこされている。小川高義さんは、そのことを見抜いている。この語り手をめぐって、この小説には“ほころび”があると、おっしゃっている。わたしも、その意見に賛成である。
1925年。いわばアメリカ的なバブル景気のまっただなかで「グレート・ギャツビー」は世に出た。1929年にあの大不況、世界大恐慌がやってくる。
この好景気が、そしてデイジーの愛が、半永久的に続くと、ギャツビーはかんがえたのだ。パーティの場面などは、多少の混乱は感じられるものの、フィッツジェラルド自身が経験したことだけによく描けている。
華麗で豪壮な建物や、高級車はお金が見させる儚い夢なのである。まさに、成金ギャツビー。
フィッツジェラルドは44歳で死去する。そのとき、彼のデイジー=ゼルダは、精神病院に収容されていたのだ。
凋落といえば、それはフィッツジェラルドの人生そのもの。
読み了えて、作者のことをぼんやりかんがえているうち、粛然たる気分が湧いてきた。愛児をかかえているから、たとえば酒に身を持ち崩すこともできない。
15~6年ばかり前に、フィッツジェラルドの短編集をいつくか読んだことがある。たぶん「バビロン再訪」だったと思うが、いまでも秀作としてうっすら印象に刻まれている。短篇に本来の傑作があるのではないか・・・と、いまのわたしは想像している。
それにしてもなあ。
デイジーはどうしてギャツビーの葬儀に駆け付けなかったのだろう。フィッツジェラルドには、デイジーのモデルとなったゼルダに遠慮があったのかもね。
評価:☆☆☆☆
最初に結論めいたことを述べておくと、「グレート・ギャツビー」は、わたしの独断と偏見によれば、世にいわれるような傑作ではなく、Aの下または、B上あたりのランクであろう。もちろん秀作は秀作なのだ。だらだらと終わりそうで終わらない結末がよくない。
フィッツジェラルドは“書きすぎて”しまった。
《絢爛豪華な邸宅に贅沢な車を持ち、夜ごと盛大なパーティを開く男ギャッツビーが、ここまで富を築き上げてきたのはすべて、かつての恋人を取り戻すためだった。だが、異常なまでのその一途な愛は、やがて悲劇を招く。過去は取り返せると信じて夢に賭け、そして砕けた男の物語。リアルな人物造形によってギャッツビーの意外な真実の姿が見えてくる新訳!》BOOKデータベースより
「グレート・ギャツビー」は、現在、新潮文庫(野崎孝訳)、中央公論新社(村上春樹翻訳ライブラリー)、そしてこの光文社古典新訳文庫文庫(小川高義訳)の3つが、文庫本としてラインナップされている。とくに村上春樹訳は、評価が高いといっていいかもね♬
しつこいようだが、つぎに村上訳BOOKデータベースの情報を引用してみる。
《村上春樹が人生で巡り会った、最も大切な小説を、あなたに。新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語―。読書家として夢中になり、小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作に、翻訳家として挑む、構想二十年、満を持しての訳業。》
村上さんがあとがきで、この「グレート・ギャツビー」を褒めちぎっているのは、わたしも読ませていただいた。
「へええ、そんなにすばらしい小説なのか!?」
しかし、はっきりいえば、その期待は裏切られた。
「カラマーゾフの兄弟」
「グレート・ギャツビー」
「ロング・グッドバイ」
この3冊が、村上春樹セレクトの3大小説だという。
・・・という仕儀で、村上訳「グレート・ギャツビー」を読みはじめた。
ところが、第2章の半ばほどで、挫折しそうになった(´?ω?)
主要登場人物が、スッキリと頭に入ってこない。
わたしの手許には、3冊の「グレート・ギャツビー」がある。その中で、光文社古典新訳文庫の小川さんのものだけ、主要登場人物の一覧が、別刷りで文庫本に挟み込まれているのだ。
プロットがはっきりとは頭に入らないため、途中から光文社文庫の小川訳に乗り換えた。
“小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作”。それが村上春樹にとっての「グレート・ギャツビー」なのである。
《新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語》(村上訳)
・・・なのか、はたまた、もっとリアルに、
《異常なまでのその一途な愛は、やがて悲劇を招く。過去は取り返せると信じて夢に賭け、そして砕けた男の物語》(小川訳)なのか(。-ω-)
わたしは本書の語り手ニック・キャラウェイにも、ジェイ・ギャツビーにも感情移入できなかった。まして、ヒロインのデイジー・ブキャナンなど、論外。
小川訳で読む限り、村上春樹がなぜこれほど褒めちぎるのか、さっぱりわからない。
経済的な“バブル現象”は、小さな、あるいは大きな悲喜劇を無数に残して、消えていった。わたしもそういったバブル景気に踊らされた口である。
群馬県には伊香保という温泉街があるが、カメラを手にしてその“バブル遺産”を、4回、5回と撮り歩いたことがある。
本書は「哀しくも美しい、ひと夏の物語」なんかではない。「過去は取り返せると信じて夢に賭け、そして砕けた男の物語」なのである。
《そのときギャツビーは、金の力をつくづく思い知らされた。財産があれば、青春と神秘をつかまえて保存しておける。着替える衣装が多ければ颯爽としていられる。そしてデイジーは、銀のように艶めいて、あくせく働く庶民階級の上に超然としていられる。》(244ページ)
フィッツジェラルドはニック・キャラウェイでもなく、ジェイ・ギャツビーでもないということだ。ただ彼らに寄り添ってはいる。
そのことによって「グレート・ギャツビー」という小説を書いた。29歳のときのこと。彼の小説をすべて読んだわけではないが、以後、本作品を超える小説を、フィッツジェラルドは作り出すことは出来なかったのであろう。
ニック・キャラウェイという語り手に仕掛けがほどこされている。小川高義さんは、そのことを見抜いている。この語り手をめぐって、この小説には“ほころび”があると、おっしゃっている。わたしも、その意見に賛成である。
1925年。いわばアメリカ的なバブル景気のまっただなかで「グレート・ギャツビー」は世に出た。1929年にあの大不況、世界大恐慌がやってくる。
この好景気が、そしてデイジーの愛が、半永久的に続くと、ギャツビーはかんがえたのだ。パーティの場面などは、多少の混乱は感じられるものの、フィッツジェラルド自身が経験したことだけによく描けている。
華麗で豪壮な建物や、高級車はお金が見させる儚い夢なのである。まさに、成金ギャツビー。
フィッツジェラルドは44歳で死去する。そのとき、彼のデイジー=ゼルダは、精神病院に収容されていたのだ。
凋落といえば、それはフィッツジェラルドの人生そのもの。
読み了えて、作者のことをぼんやりかんがえているうち、粛然たる気分が湧いてきた。愛児をかかえているから、たとえば酒に身を持ち崩すこともできない。
15~6年ばかり前に、フィッツジェラルドの短編集をいつくか読んだことがある。たぶん「バビロン再訪」だったと思うが、いまでも秀作としてうっすら印象に刻まれている。短篇に本来の傑作があるのではないか・・・と、いまのわたしは想像している。
それにしてもなあ。
デイジーはどうしてギャツビーの葬儀に駆け付けなかったのだろう。フィッツジェラルドには、デイジーのモデルとなったゼルダに遠慮があったのかもね。
評価:☆☆☆☆