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『ルック・オブ・サイレンス』が迫る虐殺のメカニズム
Breaking the Silence
虐殺の加害者と被害者の直接対話を通じて、インドネシアの歴史的タブーと向き合う
2015年7月9日(木)19時02分
佐伯直美(本誌記者)
対話の入口 眼鏡技師のアディは無料の視力検査を行いながら、加害者たちに虐殺の話を尋ねる © Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
なぜ人間は虐殺を繰り返すのか。道徳心も良識もあるごく普通の人々が、なぜ殺戮に加担してしまうのか――今も世界で起きる悲劇が私たちに投げ掛けるこの問いに、前代未聞の形で迫ったのが12年公開のドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』だった。
全米映画批評家協会賞をはじめ、50以上の映画賞を獲得した同作の題材は、
❶ 65年にインドネシアで起きた大虐殺。クーデター未遂後、軍に支配された政府は逆らう者を「共産主義者」として次々に殺害し、その数は100万人以上とも言われる。
この出来事は同国で長年タブーとされ、政治家もメディアも公に言及することはなかった。虐殺の加害者たちが権力を手にし、今も社会のさまざまな分野で幅を利かせているからだ。
ジョシュア・オッペンハイマー監督は大胆にも、そんな加害者たちに密着し、彼らが惨殺の様子を誇らしげに再現する姿を映し出して、世界に衝撃を与えた。
この作品が発表される少し前、オッペンハイマーはひそかにもう1つの作品の製作に取り掛かった。題材は同じ65年の虐殺だが、今度は被害者側に光を当てた続編――それが最新作『ルック・オブ・サイレンス』だ(日本公開中)。
この作品は、ある意味で前作以上に衝撃的と言える。被害者側の物語といっても、彼らの証言や歴史的資料で構成する従来の手法ではない。遺族が自分の家族を殺した加害者たちに直接会って対話し、謝罪と和解を求めるプロセスを記録したものだ。
作品の中心は虐殺で兄を失った男性アディ。❷ 加害者が権力者として今も同じ村で暮らすなか、彼らを恐れる両親は過去について口を閉ざしたまま、50年近く生きてきた。
『アクト・オブ・キリング』の製作に関わっていたアディは、罪悪感のかけらもない加害者の映像を見るうち、こんな思いを募らせた――彼らに自らの罪を認め、謝罪してほしい。そして続編の製作を提案した。
小津作品から学んだ手法
危険過ぎるし、加害者は絶対に罪を認めないとオッペンハイマーは反対したが、アディの決意を聞くうちにこう考えるようになった。きっとうまくいかない、でもなぜ失敗したかを伝えることはできるかもしれない。そうすれば和解を模索する必要性を訴えられる、と。
過去と向き合う 殺人部隊の元司令官と対話するアディ(左) © Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014.
最大の課題は、いかにしてアディの安全を確保しつつ加害者に会わせるかだった。幸いオッペンハイマーは、『アクト・オブ・キリング』の撮影を通じて、 ❸ 加害者の中でもかなりの大物と親しいことで有名だった。同作を公にする前に撮影すればまだ安全だし、アディが面会を望む加害者たちの協力も得やすい。そして万が一、現場で相手が激昂しても、大物たちとの関係が「抑止力」になると考えた。
眼鏡技師というアディの職業も幸いした。大半の加害者は高齢なので、無料の視力検査という名目で訪問し、素性を明かすかはアディの判断に委ねられた。
一歩間違えれば命を狙われかねない相手に対し、アディは辛抱強く、だが率直に虐殺の過去を尋ね、罪の意識を目覚めさせようとする。 ❹ 加害者の反応はさまざまだ。いら立ち、怒り、逃避。誰も責任を認めようとはしない。
❺ 上官の指示に従っただけだと開き直る殺人部隊の元司令官に向かって、アディは「私が会った殺人者は誰ひとり責任を感じていない」と静かに訴える。「あなたを責める気はない。ただ、あなたは倫理的責任から逃れようとしている」
こうした対話の場面で、見る者の心を最も揺さぶるのは言葉ではない。強気な言動とは裏腹に、アディが犠牲者の遺族と知った途端に相手の目に広がる動揺。信頼する親類から虐殺に関わった事実を聞かされたアディの表情。言葉のない瞬間にこそ、説明のつかない感情や本人も気付かない内面が現れる。
無言のシーンを最大限に生かすため、オッペンハイマーは小津安二郎の作品を参考にしたという。「小津は沈黙ですべてを物語る場面を作り出す達人だった。言葉は一言も発しないのに、すべてが伝わってくる」
インドネシアに変化の波
そうした手法を通して見えてくる加害者は冷徹な悪人でなく、良心も弱さもある普通の人間だ。だからこそ観客は、何が彼らをこうさせたのかと自問する。
その答えを見つけるのは簡単ではない。世界ではこれまで、人間を残虐行為に走らせる心理的メカニズムの研究が数多く行われてきた。最も有名なのは、 ❻ 60年代にアメリカで行われた「ミルグラム実験」だろう。
2人組の被験者を別々の部屋に入れ、一方がテストで間違えたら罰として電気ショックを与えるよう命令する(間違うたびに電流は強くなる)。すると大多数の被験者は、パートナーが別の部屋で泣き叫ぶ声を聞いても、電流を流し続けたという。
magcul09july010715c.jpg
口を閉ざして アディの母は50年近く、息子の死を語らず生きてきた © Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014.
人間の残虐性と権威者の命令の関係に着目したこの研究は、『ルック・オブ・サイレンス』の加害者にも通じる。だが現実には、人を虐殺に走らせる要因はあまりに複雑で、誰もその「闇」の正体をつかめていない。
前作同様、『ルック・オブ・サイレンス』はインドネシア社会を大きく揺さぶった。現地製作スタッフは実名を明かすと危険なため、エンドロールには「匿名」の文字がずらりと並ぶ。
だが初めは極秘上映するしかなかった前作と違い、今回は政府の後援を受けて国内で3500回以上上映。若者の間には歴史的タブーと向き合おうとする機運が高まり、政治家やメディアも和解の必要性を語り始めた。
「公開前は、なぜ今さら振り返る必要があるのかと、若者は考えるのではないかと思った」とオッペンハイマーは言う。「でも観客の反応から学んだのは、そうしないと人は前進できないということ。きちんと片を付けない限り、過去は必ず追い掛けてくる」
映画の中盤、アディの兄を殺した実行犯が嬉々として当時の様子を語る場面がある。その映像を黙って見詰めるアディ。悲痛な表情を浮かべ、でも決して目をそらさない。そこにしか出口はない──彼の沈黙は、そんな覚悟の表明にも思えた。
[2015年7月14日号掲載]
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● 虐殺の実行者の心の闇の正体を掴もうというのも大切だが、殺された人間の殺された理由を
追及するのも大切でしょう。右があれば左もあるのです。
● 65年と言えば、49年に中華人民共和国が成立して、中共が他国に侵略したり革命を輸出する
のに忙しい時代である。特にオランダから独立した若いインドネシアも狙われたのでしょう。
● 東南アジアは華僑が経済の中枢を握っているのは、今も昔も同じ事です。オランダの統治時代は
苛酷な支配で多くの人が虐殺され、収奪されてインドネシア人は奴隷根性に染まっていた時です。
何百年も奴隷状態だったのです。そこで白人の下僕が華僑だったのです。
● それをわずかの短期間で、アジアから彼ら人種差別主義者、虐殺者、収奪者を一掃したのは
日本軍です。その時の彼らの歓喜は筆舌に尽くし難いものです。これで長年の奴隷状態から
解放されたのです。勿論そのような奴隷状態の時に、ご主人様の為の支配の中間層
● として、華僑は存在したのです。現地の住民の憎しみは、白人のみならず彼らに協力する形で
利益を貪ってきた華僑などにも、憎悪の目は向けられたのです。
● 日本軍が敗れたことで、再び反省のない傲慢なオランダ軍は、再度の植民地化を当然のごとくと
してインドネシアに進駐したのです。しかし、もはや戦前のインドネシア人ではありません。
自分たちと同じような日本人が、簡単に蹴散らしたのを見てもはや傲慢な白人は、
彼らのご主人様ではないのです。
● 日本軍の進駐の間に、彼らを独立させるために鍛えたのは、勿論日本の侍たちです。彼らには
軍人精神が宿ったのです。そこに又ノコノコと戻ってきたオランダ軍を迎え撃ったのは、
日本軍に鍛えられたかの国の武人たちと、この国を愛して解放を手助けした、
2000人余の帝国軍人たちです。
● オランダ軍に対する凄まじい抵抗・解放戦争が起こったことは当然です。その時の日本軍の
死を決した参戦が、彼らを勇気つけ、そして戦いはオランダの醜さを世界に知らしめて、
世界から非難を浴びたオランダは撤退せざるを得なくなったのです。
● こうして独立したインドネシアが、どこにもまして親日であることは当然の事なのです。
インドネシア独立の父は、日本軍なのです。
● 其処に戦後の共産主義運動で勢い付いた華僑が、毛沢東の影響を受けて、インドネシアを
共産化しようとクーデターを起こしたのが、その虐殺の直接の引きがねなのです。
イスラム教と共産主義は相いれないのみならず、再び他国の共産主義者の
● 煽動受けた、オランダ虐殺者の協力者が、再び権力を握るのは、当然原住民であれば誰でも
いきり立つのは当然でしょう。虐殺には理由があるのです。歴史に、もしはないが、
もし毛沢東派の華僑の共産主義者のクーデターが成功していれば、
● 中共のように、更には旧ソ連の様に、大虐殺は当選の事として起こったでしょう。それも
中共の4000万人、ソ連の1600万人、北朝鮮の今も続く大虐殺等をかんがみれば、
100万人ならず、何千万人という大虐殺が起こったと思われます。
● この様な歴史的背景をかたらずして、個人の倫理でのみ映画を作るという事は、歴史的には
全く片手落ちと言うものです。過去に向き合うのは、他国では全く見られないことを
思えば、逆にインドネシア人の倫理の高さが際立つというものです。
● 中共では自分たちが虐殺した自国民を、都合の良いことに負けた日本人のせいにして
口を拭っているのは、今の共産党です。これだけでも、インドネシアで現地人を
収奪して白人に協力した彼らが更に毛沢東の影響で、インドネシアを
共産化して、国ごと奪おうという事自体が、傲慢と自惚れと
残虐さを示すのです。
● クーデターで他国を奪おうとする非常識が、そもそもの殺される・虐殺の原動力なのです。
過去との連動は歴史の常識です。中韓朝が性懲りもなく、今でも情報戦を
仕掛けているのは、過去と同様の事なのです。今も戦争状態なのです。
● 白人と華僑に何百年と虐殺されしいたげられた人たちが、日本のお蔭でやっと手入れた
独立を手放すと思うものが馬鹿なのです。人間はやられたようにやり返すのです。
● 一人の個人は歴史を知らないから、その理由を求めてさまようでしょうが、
我々が殺しても罪に問われないのは、まさに正当防衛の時です。
国にも個人同様正当防衛は有るのです。
● 悪徳の虐殺ではないので、つまり正当防衛で殺したので、まだ心の良心が残っている
インドネシア人は、過去と向き合う勇気もあるでしょう。
● 中韓朝の醜い開き直りに比べたら、今のインドネシア人は倫理の鏡である。
『ルック・オブ・サイレンス』が迫る虐殺のメカニズム
Breaking the Silence
虐殺の加害者と被害者の直接対話を通じて、インドネシアの歴史的タブーと向き合う
2015年7月9日(木)19時02分
佐伯直美(本誌記者)
対話の入口 眼鏡技師のアディは無料の視力検査を行いながら、加害者たちに虐殺の話を尋ねる © Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014
なぜ人間は虐殺を繰り返すのか。道徳心も良識もあるごく普通の人々が、なぜ殺戮に加担してしまうのか――今も世界で起きる悲劇が私たちに投げ掛けるこの問いに、前代未聞の形で迫ったのが12年公開のドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』だった。
全米映画批評家協会賞をはじめ、50以上の映画賞を獲得した同作の題材は、
❶ 65年にインドネシアで起きた大虐殺。クーデター未遂後、軍に支配された政府は逆らう者を「共産主義者」として次々に殺害し、その数は100万人以上とも言われる。
この出来事は同国で長年タブーとされ、政治家もメディアも公に言及することはなかった。虐殺の加害者たちが権力を手にし、今も社会のさまざまな分野で幅を利かせているからだ。
ジョシュア・オッペンハイマー監督は大胆にも、そんな加害者たちに密着し、彼らが惨殺の様子を誇らしげに再現する姿を映し出して、世界に衝撃を与えた。
この作品が発表される少し前、オッペンハイマーはひそかにもう1つの作品の製作に取り掛かった。題材は同じ65年の虐殺だが、今度は被害者側に光を当てた続編――それが最新作『ルック・オブ・サイレンス』だ(日本公開中)。
この作品は、ある意味で前作以上に衝撃的と言える。被害者側の物語といっても、彼らの証言や歴史的資料で構成する従来の手法ではない。遺族が自分の家族を殺した加害者たちに直接会って対話し、謝罪と和解を求めるプロセスを記録したものだ。
作品の中心は虐殺で兄を失った男性アディ。❷ 加害者が権力者として今も同じ村で暮らすなか、彼らを恐れる両親は過去について口を閉ざしたまま、50年近く生きてきた。
『アクト・オブ・キリング』の製作に関わっていたアディは、罪悪感のかけらもない加害者の映像を見るうち、こんな思いを募らせた――彼らに自らの罪を認め、謝罪してほしい。そして続編の製作を提案した。
小津作品から学んだ手法
危険過ぎるし、加害者は絶対に罪を認めないとオッペンハイマーは反対したが、アディの決意を聞くうちにこう考えるようになった。きっとうまくいかない、でもなぜ失敗したかを伝えることはできるかもしれない。そうすれば和解を模索する必要性を訴えられる、と。
過去と向き合う 殺人部隊の元司令官と対話するアディ(左) © Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014.
最大の課題は、いかにしてアディの安全を確保しつつ加害者に会わせるかだった。幸いオッペンハイマーは、『アクト・オブ・キリング』の撮影を通じて、 ❸ 加害者の中でもかなりの大物と親しいことで有名だった。同作を公にする前に撮影すればまだ安全だし、アディが面会を望む加害者たちの協力も得やすい。そして万が一、現場で相手が激昂しても、大物たちとの関係が「抑止力」になると考えた。
眼鏡技師というアディの職業も幸いした。大半の加害者は高齢なので、無料の視力検査という名目で訪問し、素性を明かすかはアディの判断に委ねられた。
一歩間違えれば命を狙われかねない相手に対し、アディは辛抱強く、だが率直に虐殺の過去を尋ね、罪の意識を目覚めさせようとする。 ❹ 加害者の反応はさまざまだ。いら立ち、怒り、逃避。誰も責任を認めようとはしない。
❺ 上官の指示に従っただけだと開き直る殺人部隊の元司令官に向かって、アディは「私が会った殺人者は誰ひとり責任を感じていない」と静かに訴える。「あなたを責める気はない。ただ、あなたは倫理的責任から逃れようとしている」
こうした対話の場面で、見る者の心を最も揺さぶるのは言葉ではない。強気な言動とは裏腹に、アディが犠牲者の遺族と知った途端に相手の目に広がる動揺。信頼する親類から虐殺に関わった事実を聞かされたアディの表情。言葉のない瞬間にこそ、説明のつかない感情や本人も気付かない内面が現れる。
無言のシーンを最大限に生かすため、オッペンハイマーは小津安二郎の作品を参考にしたという。「小津は沈黙ですべてを物語る場面を作り出す達人だった。言葉は一言も発しないのに、すべてが伝わってくる」
インドネシアに変化の波
そうした手法を通して見えてくる加害者は冷徹な悪人でなく、良心も弱さもある普通の人間だ。だからこそ観客は、何が彼らをこうさせたのかと自問する。
その答えを見つけるのは簡単ではない。世界ではこれまで、人間を残虐行為に走らせる心理的メカニズムの研究が数多く行われてきた。最も有名なのは、 ❻ 60年代にアメリカで行われた「ミルグラム実験」だろう。
2人組の被験者を別々の部屋に入れ、一方がテストで間違えたら罰として電気ショックを与えるよう命令する(間違うたびに電流は強くなる)。すると大多数の被験者は、パートナーが別の部屋で泣き叫ぶ声を聞いても、電流を流し続けたという。
magcul09july010715c.jpg
口を閉ざして アディの母は50年近く、息子の死を語らず生きてきた © Final Cut for Real Aps, Anonymous, Piraya Film AS, and Making Movies Oy 2014.
人間の残虐性と権威者の命令の関係に着目したこの研究は、『ルック・オブ・サイレンス』の加害者にも通じる。だが現実には、人を虐殺に走らせる要因はあまりに複雑で、誰もその「闇」の正体をつかめていない。
前作同様、『ルック・オブ・サイレンス』はインドネシア社会を大きく揺さぶった。現地製作スタッフは実名を明かすと危険なため、エンドロールには「匿名」の文字がずらりと並ぶ。
だが初めは極秘上映するしかなかった前作と違い、今回は政府の後援を受けて国内で3500回以上上映。若者の間には歴史的タブーと向き合おうとする機運が高まり、政治家やメディアも和解の必要性を語り始めた。
「公開前は、なぜ今さら振り返る必要があるのかと、若者は考えるのではないかと思った」とオッペンハイマーは言う。「でも観客の反応から学んだのは、そうしないと人は前進できないということ。きちんと片を付けない限り、過去は必ず追い掛けてくる」
映画の中盤、アディの兄を殺した実行犯が嬉々として当時の様子を語る場面がある。その映像を黙って見詰めるアディ。悲痛な表情を浮かべ、でも決して目をそらさない。そこにしか出口はない──彼の沈黙は、そんな覚悟の表明にも思えた。
[2015年7月14日号掲載]
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● 虐殺の実行者の心の闇の正体を掴もうというのも大切だが、殺された人間の殺された理由を
追及するのも大切でしょう。右があれば左もあるのです。
● 65年と言えば、49年に中華人民共和国が成立して、中共が他国に侵略したり革命を輸出する
のに忙しい時代である。特にオランダから独立した若いインドネシアも狙われたのでしょう。
● 東南アジアは華僑が経済の中枢を握っているのは、今も昔も同じ事です。オランダの統治時代は
苛酷な支配で多くの人が虐殺され、収奪されてインドネシア人は奴隷根性に染まっていた時です。
何百年も奴隷状態だったのです。そこで白人の下僕が華僑だったのです。
● それをわずかの短期間で、アジアから彼ら人種差別主義者、虐殺者、収奪者を一掃したのは
日本軍です。その時の彼らの歓喜は筆舌に尽くし難いものです。これで長年の奴隷状態から
解放されたのです。勿論そのような奴隷状態の時に、ご主人様の為の支配の中間層
● として、華僑は存在したのです。現地の住民の憎しみは、白人のみならず彼らに協力する形で
利益を貪ってきた華僑などにも、憎悪の目は向けられたのです。
● 日本軍が敗れたことで、再び反省のない傲慢なオランダ軍は、再度の植民地化を当然のごとくと
してインドネシアに進駐したのです。しかし、もはや戦前のインドネシア人ではありません。
自分たちと同じような日本人が、簡単に蹴散らしたのを見てもはや傲慢な白人は、
彼らのご主人様ではないのです。
● 日本軍の進駐の間に、彼らを独立させるために鍛えたのは、勿論日本の侍たちです。彼らには
軍人精神が宿ったのです。そこに又ノコノコと戻ってきたオランダ軍を迎え撃ったのは、
日本軍に鍛えられたかの国の武人たちと、この国を愛して解放を手助けした、
2000人余の帝国軍人たちです。
● オランダ軍に対する凄まじい抵抗・解放戦争が起こったことは当然です。その時の日本軍の
死を決した参戦が、彼らを勇気つけ、そして戦いはオランダの醜さを世界に知らしめて、
世界から非難を浴びたオランダは撤退せざるを得なくなったのです。
● こうして独立したインドネシアが、どこにもまして親日であることは当然の事なのです。
インドネシア独立の父は、日本軍なのです。
● 其処に戦後の共産主義運動で勢い付いた華僑が、毛沢東の影響を受けて、インドネシアを
共産化しようとクーデターを起こしたのが、その虐殺の直接の引きがねなのです。
イスラム教と共産主義は相いれないのみならず、再び他国の共産主義者の
● 煽動受けた、オランダ虐殺者の協力者が、再び権力を握るのは、当然原住民であれば誰でも
いきり立つのは当然でしょう。虐殺には理由があるのです。歴史に、もしはないが、
もし毛沢東派の華僑の共産主義者のクーデターが成功していれば、
● 中共のように、更には旧ソ連の様に、大虐殺は当選の事として起こったでしょう。それも
中共の4000万人、ソ連の1600万人、北朝鮮の今も続く大虐殺等をかんがみれば、
100万人ならず、何千万人という大虐殺が起こったと思われます。
● この様な歴史的背景をかたらずして、個人の倫理でのみ映画を作るという事は、歴史的には
全く片手落ちと言うものです。過去に向き合うのは、他国では全く見られないことを
思えば、逆にインドネシア人の倫理の高さが際立つというものです。
● 中共では自分たちが虐殺した自国民を、都合の良いことに負けた日本人のせいにして
口を拭っているのは、今の共産党です。これだけでも、インドネシアで現地人を
収奪して白人に協力した彼らが更に毛沢東の影響で、インドネシアを
共産化して、国ごと奪おうという事自体が、傲慢と自惚れと
残虐さを示すのです。
● クーデターで他国を奪おうとする非常識が、そもそもの殺される・虐殺の原動力なのです。
過去との連動は歴史の常識です。中韓朝が性懲りもなく、今でも情報戦を
仕掛けているのは、過去と同様の事なのです。今も戦争状態なのです。
● 白人と華僑に何百年と虐殺されしいたげられた人たちが、日本のお蔭でやっと手入れた
独立を手放すと思うものが馬鹿なのです。人間はやられたようにやり返すのです。
● 一人の個人は歴史を知らないから、その理由を求めてさまようでしょうが、
我々が殺しても罪に問われないのは、まさに正当防衛の時です。
国にも個人同様正当防衛は有るのです。
● 悪徳の虐殺ではないので、つまり正当防衛で殺したので、まだ心の良心が残っている
インドネシア人は、過去と向き合う勇気もあるでしょう。
● 中韓朝の醜い開き直りに比べたら、今のインドネシア人は倫理の鏡である。