真っ白な雪の斜面にキラキラと建物は輝き渡り、その色は薄い緑であったり青であったり、あるいはピンクやクリーム色であったりして、それらが一斉に目に飛び込んで来る。私の眼はその鮮やかな光の量にしみて眩み、心に痛かった。
それは何よりこの美しさが、自然の中で生まれた無垢なるものの形ではなく、むしろその自然の中に生きる人の営みから生み出されたものだという思いからだった。
人の営みにはなぜか悲 . . . 本文を読む
外にはまばゆいばかりの太陽があって、薄暗がりからやってきたやってきた私の体はその光線を受けて朗々と萌え上がるばかりに膨らみ、意識は急激に現実に向かって流れ始めた。
キャンパスから眼下に小樽港が青く霞んで広がっていた。その眺めは伊藤整が何度も表現している通りの感動的な美しさがあった。
その光景に視線を漂わせながら、港に広がる小樽の街を見たとき、一瞬だったがあの町のどこかに里依子がいるのだと . . . 本文を読む
私は床に落ちている黄色のチョークを取り上げ、黒板に自分の名前を書いてみた。
シュカ、シュカ、シュカ、黒板とチョークの擦れる音が部屋いっぱいに溢れて私は思わず全身に震えを覚えた。
私は今まで自分の表現をこれほど増幅されて感じたことがあっただろうか。一本線を引くと、その音が私の心を突き抜けて部屋を満たし、私はなんだかこの建物そのものになってしまったように感じ、その黒板に書く自分の名前と同時に私 . . . 本文を読む
ドアを押しあけて入ると、すぐ正面に一段高くなった教壇があり、この部屋には不釣り合いと思われる新しい暗緑の講義用黒板が正面の壁を領していた。
この黒板と教壇のほかは何もない。ガランとした空間が行き所を失って微動だにしないと思われた。その空気が私の体温を吸収して動き始める。歩くと靴の音が響き渡り、私の腹の中にまで反響して、不思議に私を落ち着かせるのだった。
黒板には様々なことが脈絡なく書きこ . . . 本文を読む
まだ残雪は深く、かつての主屋に到る道は雪の上だった。人通りの少ないことを証明するように、トボトボと足跡が雪にめり込んだままで残っており、その足跡を選んで歩いても私の足は雪に沈んで埋もれそうだった。
主屋と思われるその建物は、ドアを押しあけて簡単に入ることが出来たが、先の校舎よりもさらに暗く感じられた。注意深く辺りを見回すと、はたしてそれは感じではなく実際に暗いということが判明した。
. . . 本文を読む
歩けるところはすべて歩いてみた。階段の下に小さな、ほとんど潜って入るような入口があって、隠し部屋のような雰囲気をかもしだしていた。まるで古代遺跡の新発見でもあるように興味をそそられ、無理をして入ってみた。
その中もまた、学生たちの傷跡が著しかった。中は狭く、しかし天井は高かった。一体何に使った部屋だったのだろうと考えてみたが、もとより答えるものはどこにもなく、私の興味は壁に描き散らされている . . . 本文を読む
ペンキのはげ落ちた板壁の向こうは、死んだように空気が淀んでいた。歩くと古びた板張りの廊下が大きな音をたてて四方に響き渡った。
その廊下は狭く、直線に通っていた。廊下に添って教室が並び、その教室の入り口は釘や南京錠で止められて、中に入ることができなかった。
それでも、戸の開くところがあって、覗けばそこは意外にも小さな、小学生が使うような教室だと思われた。埃にまみれて机や椅子が雑然と転がり、長 . . . 本文を読む
学生たちが三々五々、グループで下りてくる。彼らは私を見て決してよそ者とは思わないだろう。私はきっと商大の学生のように見えているに違いない。彼らとすれ違うたびに私はそう思った。
私は何気ない顔をしてキャンバスに入って行った。学舎は春休みのためであろう、学生の姿はなく閑散としてほとんどその入口は施錠されているようだった。
それは先ほどのすれ違った学生たちの活気からは想像できなかった静けさだ . . . 本文を読む
私は爽やかな気分で自分のペースを取り戻して歩き始めた。
するといくらも行かないうちにパン屋があった。ちょうど昼時であったし、小林多喜二をまた思い起こさせたので、私は一度通り過ぎた店の前を折り返してそのパン屋に入って行った。
中は薄暗く、外光に焼けた目にはすぐにその店の様子が分からなかったが、奥に人かげが動き、ようやくそれが店の女主人だとわかった。
私はパンを買い、その場でほおばりながら、 . . . 本文を読む
交差点で進路を迷っていると、一人の老人が坂を上ってきた。私が老人に道を聞くと、この道をまっすぐじゃと、しわだらけの顔をほころばせて教えてくれた。
私はその老人を一目見て気に入った。足もとが不自由らしく、訥々と杖をつきながら老人にはきついこの坂を上っていく。
私はその老人の歩調に合わせて、わざとのんびりした足取りで歩き、ゆっくりと喋った。
老人は小樽商科大学を知っていたが、伊藤整のことは知 . . . 本文を読む