上田市常磐城3-7-48にある芳泉寺です。古舟橋の北側、上田市の「歴史の散歩道」にも指定されている常磐城には土蔵作りの家が立ち並んでいます。坂を上ったところに松翁山芳泉寺があります。
芳泉寺は真田信之(信幸)の正室である小松姫の菩提寺です。本多忠勝の娘で徳川家康の養女として天正14年(1587)信之に嫁つぎました。徳川と真田の関係を山門、本堂についている六文銭と三つ葉葵の紋が物語っています。
昔は常福寺というお寺だったそうです。千曲川左岸塩田平の常楽、安楽、長楽の「三楽寺」に対し右岸の「三福寺」の一山で「古舟の渡し」を越え、北国街道で善光寺へ向かう途中の祈願所ともなっていたようです。
慶長5年(1600)真田信之は常福寺を菩提寺としました。小松姫の死後信之が納骨し、一周忌に霊屋も建立されたそうです。元和8年(1621)松代移封にともない松代城下の大英寺を建て霊屋を移したそうです。
小諸から上田に仙石忠政は常福寺を修築し、小諸にあった菩提寺の宝仙寺をここに移しました。翌年、父秀久の墓を改装し、常福寺から円覚院芳泉寺と変えたそうです。
ここには小松姫の墓がるます。小松姫の婿選びの際、家康の前で平伏する大名に無礼な行ないをしたと信之が小松姫を鉄扇で手を打ち据えたそうです。それが縁で嫁いできたそうです。西軍についた義父、昌幸が信之の沼田城に立ち寄った時、留守を守る小松殿が「たとえ舅といえど敵味方に分かれたからには入城させられない」と言って入城させなかった事も有名です。
また仙石政俊(まさとし)の霊廟や仙石秀久・忠政の霊廟もおあります。秀久は石川五右衛門を生け捕りにしたことで知られています。忠政は上田城を修復し、塩田平の灌漑池など造成し手腕をふるいました。
芳泉寺は真田信之(信幸)の正室である小松姫の菩提寺です。本多忠勝の娘で徳川家康の養女として天正14年(1587)信之に嫁つぎました。徳川と真田の関係を山門、本堂についている六文銭と三つ葉葵の紋が物語っています。
昔は常福寺というお寺だったそうです。千曲川左岸塩田平の常楽、安楽、長楽の「三楽寺」に対し右岸の「三福寺」の一山で「古舟の渡し」を越え、北国街道で善光寺へ向かう途中の祈願所ともなっていたようです。
慶長5年(1600)真田信之は常福寺を菩提寺としました。小松姫の死後信之が納骨し、一周忌に霊屋も建立されたそうです。元和8年(1621)松代移封にともない松代城下の大英寺を建て霊屋を移したそうです。
小諸から上田に仙石忠政は常福寺を修築し、小諸にあった菩提寺の宝仙寺をここに移しました。翌年、父秀久の墓を改装し、常福寺から円覚院芳泉寺と変えたそうです。
ここには小松姫の墓がるます。小松姫の婿選びの際、家康の前で平伏する大名に無礼な行ないをしたと信之が小松姫を鉄扇で手を打ち据えたそうです。それが縁で嫁いできたそうです。西軍についた義父、昌幸が信之の沼田城に立ち寄った時、留守を守る小松殿が「たとえ舅といえど敵味方に分かれたからには入城させられない」と言って入城させなかった事も有名です。
また仙石政俊(まさとし)の霊廟や仙石秀久・忠政の霊廟もおあります。秀久は石川五右衛門を生け捕りにしたことで知られています。忠政は上田城を修復し、塩田平の灌漑池など造成し手腕をふるいました。