塩田城は昭和45年(1970)に県史跡に指定されました。城址は北端160m、中央の最広部180m、南北700mの広大な地籍です。その北方に古い町割が南北700m、東西210mに及ぶ典型的な侍屋敷跡を残しています。
塩田城は鎌倉時代中期の建治3年(1277)鎌倉幕府の執権北条時宗の連署であった北条義政がこの地に移り、館を構えたところから始まります。義政の子、国時、その子俊時と三代にわたり約60年、塩田北条と称して、信濃の一大勢力としてこの地を統治しました。元弘3年(1333)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき「いざ鎌倉」と一族をあげて支援に駆けつけました。奮戦むなしく幕府とともに滅亡しました。
塩田城は、独鈷山山麓の「弘法山」全山を城砦化したもので、規模の大きな山城の多い信濃国でも随一の規模を誇る城でした。北条氏滅亡後、塩田は新田軍に属し功績のあった村上信貞に恩賞として与えられました。重臣福沢氏が代官としてここを統治しました。塩田城は政治の中心として重要な役割を果たしていました。その中心となる代官所が置かれたのも「塩田城」だったのです。
信濃進出を図る武田勢と村上義清は何度も戦っています。最後に義清は逃走し、越後の長尾景虎に救援を受けました。そして再び義清は塩田城に籠もったのでした。
天文22年(1553)武田信玄に攻められて塩田城は落城しました。小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのです。信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目して重臣飯富(おぶ)氏をこの城に置き、自らもここに滞在して東信濃の拠点としました。真田氏が上田城を築くまで約30年間軍政両面の拠点でした。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸(幸村の父)の支配下に入りました。そして天正11年(1583)の上田城築城により廃城となったのです。
塩田城は鎌倉時代中期の建治3年(1277)鎌倉幕府の執権北条時宗の連署であった北条義政がこの地に移り、館を構えたところから始まります。義政の子、国時、その子俊時と三代にわたり約60年、塩田北条と称して、信濃の一大勢力としてこの地を統治しました。元弘3年(1333)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき「いざ鎌倉」と一族をあげて支援に駆けつけました。奮戦むなしく幕府とともに滅亡しました。
塩田城は、独鈷山山麓の「弘法山」全山を城砦化したもので、規模の大きな山城の多い信濃国でも随一の規模を誇る城でした。北条氏滅亡後、塩田は新田軍に属し功績のあった村上信貞に恩賞として与えられました。重臣福沢氏が代官としてここを統治しました。塩田城は政治の中心として重要な役割を果たしていました。その中心となる代官所が置かれたのも「塩田城」だったのです。
信濃進出を図る武田勢と村上義清は何度も戦っています。最後に義清は逃走し、越後の長尾景虎に救援を受けました。そして再び義清は塩田城に籠もったのでした。
天文22年(1553)武田信玄に攻められて塩田城は落城しました。小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのです。信玄はこの塩田城の戦略上の重要性に注目して重臣飯富(おぶ)氏をこの城に置き、自らもここに滞在して東信濃の拠点としました。真田氏が上田城を築くまで約30年間軍政両面の拠点でした。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸(幸村の父)の支配下に入りました。そして天正11年(1583)の上田城築城により廃城となったのです。