旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

法善寺

2009年12月23日 | 旅 歴史
 大阪府大阪市中央区難波にある法善寺です。
 天龍山法善寺(ほうぜんじ)は、浄土宗のお寺です。このお寺は千日念仏を行ったことから俗に千日寺と呼ばれました。その寺の前を千日前と呼んだのでした。
 明治時代、この法善寺境内に、ちょっと変わった善哉屋が開店しました。文楽の太夫、竹本琴太夫こと「木文字(きもんじ)重兵衛」という人がはじめた「お福」という名のお店でした。
 一人前なのに二杯のお椀に分けて善哉を出したのです。めおとだからという理由が受けて夫婦善哉のモチーフになりました。
 織田作之助の小説「夫婦善哉」はこの善哉屋や法善寺を舞台にした小説で大ヒットしました。映画化もされました。
 「お福」という名の善哉屋は「夫婦善哉」という名に変えて今も盛っています。
 また、藤島桓夫のヒット曲「月の法善寺横丁」も法善寺を有名にしました。



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お初天神(露天神社)

2009年12月22日 | 旅 歴史
 大阪府大阪市北区曽根崎にあるお初天神(露天神社)を紹介します。
 「お初天神」の名で広く知られる露天神社(つゆのてんじんしゃ)は創建以来千三百年の歴史を持つ古社で、「難波八十島祭」旧跡の一社です。
 祭神は少彦名大神と菅原道真です。一説によると道真が太宰府へ左遷される途中、都を偲んで涙を流したから露天神社という名がついたといわれています。

 元禄16年(1703)堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」がこの神社の「天神の森」で情死した事件がありました。
 近松門左衛門がこの心中事件を題材にして人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書きました。

 この作品は当時の人々の間で大評判となり、この神社にも参脂回向の老若男女が大勢押しかけたといわれています。露天神社はヒロインであるお初の名前から「お初天神」と呼ばれるようになったそうです。
 広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演されました。今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が訪れているそうです。


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大阪城

2009年12月22日 | 旅 歴史
 大阪府大阪市中央区大阪城にある大阪城です。
 大阪城は豊臣秀吉が天下統一の後、天正元年(1573)に着工しました。12年の歳月をかけて天正13年(1585)完成させました。日本3大名城の一つで、城跡一帯は、国の特別史跡に指定されています。また、13もの建造物が国の重要文化財に指定されています。
 秀吉は5層の天守閣を中心に大城郭を築いたのでした。大手門、多聞櫓、千貫櫓が立ち、西の丸庭園が広がっています。南の堀際には一番櫓、六番櫓が往時の面影を偲ばせます。
 明応5年(1496)本願寺蓮如(第8世)が今の大阪城付近の石山に坊舎を営んだのが始まりです。この坊舎は大阪本願寺と呼ばれる大寺院となりました。
 周囲に深い堀と高い塀、50もの出城を備えた一大城郭となり、大いに権勢を奮いました。
 11世顕如の時、織田信長との間に11年間にもわたる石山合戦が勃発しました。信長は朝廷に取入り、朝廷の仲介により本願寺を紀伊に移転させたのでした。その際、寺の伽藍など全焼したということです。
 信長は甥の津田信澄・丹羽長秀に命じて本願寺の跡地に新城を築かせようとしましたが、本能寺の変で亡くなってしまいました、その遺志を継いだ豊臣秀吉は天正11年(1583)この要衝の地に大阪城を築こうと決意しました。
 完成に1年半を要した本丸は、大友宗麟が三国無双と称えたように豪壮な城郭でした。石山本願寺跡の台地を造成し、石垣を積んで築かれました。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなど巧妙な防衛設備も施されました。
 秀吉没後、嫡子・秀頼が入城しましたが関が原の合戦で石田三成が敗れ、豊臣氏は一大名に成り下がってしまいます。慶長20年(1615)大坂夏の陣で兵火にかかり全焼してしまったのです。
 その後、大坂城は家康の外孫松平忠明に与えられましたが、2代将軍徳川秀忠は元和5年(1619)幕府直轄領(天領)に編入し、翌年から大坂城の再建に着手しました。3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)完成させました。
 寛文5年(1665)落雷によって天守閣は焼失し、以後は江戸時代を通じて天守閣は再建されなかったそうです。
 慶応4年の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北し、大阪城にいた徳川慶喜は船で江戸へ逃亡しました。城は新政府軍に開け渡されたのですが、この混乱による出火で城内の建造物のほとんどが焼失してしまったそうです。
 昭和3年(1928)、当時の大阪市長關一は、天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられました。鉄筋コンクリートの天守閣は昭和6年(1931)完成し、平成9年(1997)大規模な改修が行なわれて今日に至っています。



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大阪歴史博物館

2009年12月21日 | 旅 歴史
 大阪市中央区大手町にある大阪歴史博物館です。
 大阪歴史博物館は、古代の首都・難波宮(なにわのみや)史跡公園の北西端に平成13年(2001)に開館しました。
 大阪歴史博物館の前身は大阪城公園内に昭和35年(1960)に開館した大阪市立博物館(旧陸軍第四師団司令部庁舎)です。歴史系博物館の先駆けとなる存在です。館蔵資料は10万点を超えているということです。
 地下1階に難波宮遺構が保存されていて、ガイドツアーによって見学ができるようになっています。10階は古代フロア、9階は中世近世フロア、8階は歴史を掘るフロア、7階は近代現代フロアの常設展示が見られます。
 6階は特別展示フロアになっていて、入場料も別で展覧会毎に金額が設定されています。
 エレベータで一気に10階まで上がると奈良時代の大阪の難波宮にタイムスリップします。



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難波宮跡

2009年12月21日 | 旅 歴史
 大阪府大阪市中央区法円坂にある難波宮跡です。
 難波宮跡は大阪城の南、法円坂一帯におかれた飛鳥・奈良時代の皇居の跡です。古代の都にあった古瓦や土器、多くの建築遺構が現在も発掘されています。
 5世紀の初め、仁徳天皇の皇居であった難波高津宮、大化改新後の白雉4年(653)に完成した孝徳天皇の難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)、天武天皇の難波宮、聖武天皇が神亀3年(726年)造営を行った「難波宮」の4回、ここに皇居がおかれたということです。
 昭和28年(1953)昭和市営法円坂住宅の建設現場から破片が出土したのをきっかけに発掘調査が行なわれ難波宮跡の存在が明らかになってきたのです。宮殿の中心部とされる約9万平方m余りの範囲が国の史跡に指定されました。
 敷地内には、難波宮の大極殿の基壇を復元した石造りの壇なども造られています。現在も史跡公園として整備がすすめられています。隣接する歴史博物館では発掘された遺跡を展示しています。




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大阪府立中之島図書館

2009年12月20日 | 旅 歴史
 大阪市北区中之島にある大阪府立中之島図書館を紹介します。
 大阪府立中之島図書館は明治37年(1904)住友家の寄付により造られた図書館です。大阪の資料、古典籍関係資料、ビジネス関係資料を中心に約54万冊を蔵書しています。
 石造りの建物で、円柱が並ぶ玄関や緑色のドームに特徴があります。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されました。



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大阪市役所

2009年12月20日 | 旅 歴史
 大阪市北区中之島にある大阪市役所を取り上げてみます。
 大阪市役所は大阪市の中心部、中之島に位置しています。御堂筋の東側に位置し、正面には日本銀行大阪支店があります。市役所の裏側には、中之島図書館や大阪市中央公会堂、東洋陶磁美術館があります。
 旧庁舎は昭和57年(1982)に、新庁舎建設のため惜しまれながら、取り壊されました。半分ずつの建て替えだったので、今でも屋根にその名残が残っています。市役所1階には「大阪市廳」と書かれた札が展示されています。


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日本銀行大阪支店

2009年12月19日 | 旅 歴史
 大阪市北区中之島にある日本銀行大阪支店です。
 日本銀行大阪支店は中央公会堂や中之島図書館と並ぶ明治の洋風建築の一つです。明治15年(1882)10月、日本銀行が創設され、同年12月には大阪支店が設置されました。
 明治36年(1903)関西財界の指導者五代友厚の別邸となっていたこの地に、ベルギーの国立銀行をモデルにして建設されました。設計者は東京駅の設計でも知られている辰野金吾らでした。
 青緑色のドームをもつ石造3階建の部分は、本館の建て替えにあたっても残され、御堂筋をへだてて向いあう大阪市市庁舎と好一対をなしています。


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淀屋の屋敷跡

2009年12月19日 | 旅 歴史


 大阪府大阪市中央区北浜にある淀屋の屋敷跡です。
 大阪の御堂筋に架かる淀屋橋は江戸時代の豪商「淀屋」がつくった橋だといわれています。現在は石碑が残っているだけですが、このあたりに1万坪の広さの屋敷を構えていたそうです。淀屋初代の常安(じょうあん)は、北浜で材木商を創業し秀吉の時代に淀川の改修工事、中ノ島の開拓で財をなしました。2代目の个庵(こあん)は米市場、魚市場の開設、交易、金融業などにも手を伸ばし巨万の富を築きました
 宝永2年(1705)5代目の淀屋三郎右衛門(さぶろうえもん)のとき、ぜいたくな生活は町人身分を越えるものとされ、幕府から全財産を没収され、大阪を追われたということです。



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住吉大社

2009年12月18日 | 旅 歴史
 大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社です。
 住吉大社は全国に約2千社ある住吉神社の総本宮です。農業、商業の神様、御祓いの神様として全国から多くの参拝客が訪れています。
 住吉三神(すみよしさんじん)とは、神道で信仰される神で、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称です。住吉大社では三神に息長帯姫命(神功皇后)を含め祀っています。
 神功皇后が新羅遠征の時、住吉大神が現れ、その加護により大いに国威を発揮したそうです。戦勝と海上交通安全を祈って住吉大神を田裳見宿禰(たもみのすくね)に祀らせたというのが住吉大社の創始とされているようです。
 神殿は第一本宮から第四本宮まで四棟あります。手前の右側が第四本宮(神功皇后)、左側が第三本宮(表筒男命)、その奥が第二本宮(中筒男命)、そして一番奥が第一本宮(底筒男命)となっています。通常は第一本宮から順にお参りするそうです。

 本宮は何れも西側を正面とし、正面に拝殿が付けられています。普通、神社の本殿は南又は東向きに建てられているので、ここの西向きの本宮は珍しいそうです。神社の成り立ちから見て、海に向かう西側を正面にしたものと思われます。
 千木(ちぎ)の上端の切り方以外、四つの本宮は全く同じ造りになっています。この造りは「住吉造」と呼ばれていて、神社建築史上最古の特殊な様式だそうです。
 現存の本宮(本殿)は文化7年(1810)に建立されたものといわれています。「第一、第二、第三、第四本宮」全て国宝に指定されています。
 四つの本宮それぞれに拝殿が付けられていて、拝殿も本宮と同様、全て西側が正面となっており、四つの拝殿全て同じで造りです。
 江戸時代までは住吉大社境内馬場(現在の住吉公園)は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされていたそうです。その風景の絵模様は「住吉模様」と呼ばれました。紫式部の源氏物語には明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
 南北朝時代は、宮司の津守氏の館の住之江殿(正印殿)に南朝の後村上天皇の行宮が置かれ、約10年間南朝方の御座所となりました。南朝の主要拠点の一つになっていて、次の長慶天皇は住吉で即位したそうです。

 境内の中央付近には真っ赤な太鼓橋の反橋が目に入ります。慶長年間に淀殿が寄進したそうです。朱色の優美なシルエットがきれいです。
 国の重要文化財に指定されている石舞台は四天王寺の石舞台、厳島神社の平舞台とともに日本三舞台の一つに数え上げられています。雅楽が演奏される回廊は豊臣秀頼の寄進によるものです。



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与謝野晶子生家跡

2009年12月18日 | 旅 歴史
 大阪府堺市堺区甲斐町西にある与謝野晶子生家跡でう。
 路面電車の阪堺電気軌道の宿院駅のすぐそばに与謝野晶子の生家跡の碑と歌碑があります。歌集「みだれ髪」などで知られ近代を代表する女流歌人・与謝野晶子は明治11年(1878)、堺の老舗菓子屋の駿河屋の鳳宗八の三女として誕生しました。
 「海恋し潮の遠鳴り数えつつ少女となりし父母の家」
 と刻まれた歌碑が建てられています。



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千利休屋敷跡

2009年12月17日 | 旅 歴史
 大阪府堺市堺区宿院町西にある千利休屋敷跡です。
 千利休の屋敷跡です。屋敷跡の一角には利休が茶の湯に利用していた椿の井戸が残っています。椿の炭を底に沈めて使用したそうです。この場所は、昔は海に近く今市町といわれた所ところです。
 千利休は大永2年(1522)、堺今市町の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹鴎に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。
 現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。



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大安寺

2009年12月17日 | 旅 歴史
 大阪府堺市堺区南旅篭町東にある大安寺です。
 布金山(ふきんさん)大安寺(だいあんじ)は、臨済宗東福寺派のお寺です。応永年間(1394 - 1428)に後小松天皇の命により、徳秀士蔭(とくしゅうしいん)が東福寺の末寺として開山したとされています。
 創建時は堺の町の中心に位置し、広さは二町四方、六つの塔頭を有していたそうです。元和元年(1615)大坂夏の陣の戦火により、焼失してしまいました。その後、慶安年間に、現在の場所に移転し再興しました。
 本堂は総檜造りの書院造の建物で、方丈として使用されたようです。江戸時代初期(17世紀前半)に建てられた邸宅の部材を再利用し、天和3年(1683)に間取りを変更して移築したようです。
 屋根は本瓦葺の入母屋造、内部は上段の間を有し、書院造の部屋もある豪奢なもの。もとは、桃山時代の豪商・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)の豪華な邸宅であったともいわれています。国の重要文化財に指定されています。



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西本願寺堺別院(北御坊)

2009年12月16日 | 旅 歴史
 大阪府堺市堺区神明東にある西本願寺堺別院(北御坊)です。
 西本願寺堺別院は北御坊とも呼ばれる浄土真宗本願寺派のお寺です。本堂は文政8年(1825)に再建されたもので、京都西本願寺とまったく同じ設計で堺最大の木造建築です。
 明治4年(1871)から明治14年(1881)まで、堺県庁として使用されていたそうです。明治10年には明治天皇も、堺県へ来られた時、ここへも立ち寄られたそうです。
 南北朝時代に足利義氏の第四子道祐(どうゆう)が、本願寺3世覚如に帰依して建立したのが始まりとされています。
 後に第5世道顕が文明2年(1470)に堂字を再建し、本願寺8世蓮如を招き落慶の導師としました。文明8年(1476)境内に信証院という一宇を造り、蓮如を招き住んでもらったそうです。
 本堂前に「却初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という与謝野晶子の歌碑があります。与謝野鉄幹の父親が西本願寺の院内僧であった関係で建てられたようです。


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海会寺

2009年12月14日 | 旅 歴史
 大阪府堺市堺区南旅籠町東にある海会寺です。
 宿松山海会寺(かいえじ)は臨済宗東福寺派のお寺で本尊は釈迦牟尼仏です。以前は開口神社(甲斐町)の隣に観応2年(1351)開創され、その後荒廃し、元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼失しました。
 江戸時代初期、南宗寺住職の沢庵禅師の助力により南宗寺境内に再興されました。本堂と庫裏が一体となっていて珍しい造りです。門廊とともに国の重要文化財に指定されています。


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