青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡です。
縄文時代の巨大集落跡地です。それまでの原始的な狩猟採集民族という縄文人のイメージを大幅に変えさせました。
平成4年(1992)から2年間かけて、県総合運動公園拡張整備計画事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ないました。
その結果、縄文時代前期から中期(約5500年前~4000年前)の多くの貴重な遺跡群や多数の遺物が相次いで発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文時代集落である事が明らかになったのです。
三内丸山遺跡は最近になって発見されたものではなく、江戸時代から知られている遺跡でした。慶応義塾大学、青森県、青森市教育委員会などによって以前から発掘調査が行なわれていたところなのです。
大型掘立柱建物、通称「六本柱」は何のための建物なのか考古学者の議論の的になっています。祭礼に使われたものではないかと思われているようですが。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
縄文時代の巨大集落跡地です。それまでの原始的な狩猟採集民族という縄文人のイメージを大幅に変えさせました。
平成4年(1992)から2年間かけて、県総合運動公園拡張整備計画事業に伴う野球場建設予定地内の発掘調査を行ないました。
その結果、縄文時代前期から中期(約5500年前~4000年前)の多くの貴重な遺跡群や多数の遺物が相次いで発見され、日本考古学史上例を見ない巨大な縄文時代集落である事が明らかになったのです。
三内丸山遺跡は最近になって発見されたものではなく、江戸時代から知られている遺跡でした。慶応義塾大学、青森県、青森市教育委員会などによって以前から発掘調査が行なわれていたところなのです。
大型掘立柱建物、通称「六本柱」は何のための建物なのか考古学者の議論の的になっています。祭礼に使われたものではないかと思われているようですが。
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青森県十和田湖市休屋から秋田県鹿角郡小坂町十和田湖にある十和田湖です。
神秘の湖・十和田湖は十和田八幡平国立公園にあり、東北では猪苗代湖に次いで第2の大きさをもつ湖です。アイヌ語で「トー・ワタ・ラ」つまり「岩の多い湖」が語源だそうです。
十和田湖は十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖です。最大深度327mは日本第3位で、日本の湖沼では12番目の面積を有しています。流出河川は奥入瀬川。
十和田湖周辺は、冷温帯林(ブナ林)や亜寒帯林(ダケカンバ林)が広がり、クマタカやイヌワシ、ツキノワグマなどの野生動物が生息しています。これらの生息が重要であることから、国指定十和田鳥獣保護区(大規模生息地)になっています。
湖畔西端の桂ケ浜から「乙女の像」のある御前ケ浜までは、快適な遊歩道がつづいています。湖を眺めながら散策することができます。
十和田湖には次のような物語が語り継がれています。
「鹿角に住んでいた八郎太郎は友人の2人を待たずイワナを3匹食べてしまいます。すると猛烈に喉の渇きをおぼえ、谷川の水をひたすら飲み干し気が付くと、大蛇に姿を変えてしまいます。家に帰れなくなった八郎太郎は谷川を堰き止め十和田湖を造り、そこを棲家としました。その頃、紀州熊野にいた南祖坊は夢枕に神様が立ち「鉄の草鞋を履き鼻緒の切れたところを永住の地とするべし」とのお告げがあり、長旅に出ます。鼻緒の切れたところが十和田湖付近でしたが、すでに八郎太郎が大蛇となり主となっていので、覇権をかけ凄まじい争いが繰り広げられます。その争いは七日七晩続いたとされ南祖坊が勝利し、八郎太郎は落ち延びていきます。」ここまでが十和田湖編という感じですが、その後八郎太郎は鹿角や二ツ井などで騒動を起こし、その都度、神様達から疎まれたりし八郎潟まで落ち延びていきます。同じ頃、田沢湖では辰子姫も大蛇となり主となっていましたが、彼女を巡り八郎太郎と南祖坊が再び争う事となります。今度は八郎太郎が勝利し辰子姫と結ばれるという伝説です。
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神秘の湖・十和田湖は十和田八幡平国立公園にあり、東北では猪苗代湖に次いで第2の大きさをもつ湖です。アイヌ語で「トー・ワタ・ラ」つまり「岩の多い湖」が語源だそうです。
十和田湖は十和田火山の噴火で形成された二重カルデラ湖です。最大深度327mは日本第3位で、日本の湖沼では12番目の面積を有しています。流出河川は奥入瀬川。
十和田湖周辺は、冷温帯林(ブナ林)や亜寒帯林(ダケカンバ林)が広がり、クマタカやイヌワシ、ツキノワグマなどの野生動物が生息しています。これらの生息が重要であることから、国指定十和田鳥獣保護区(大規模生息地)になっています。
湖畔西端の桂ケ浜から「乙女の像」のある御前ケ浜までは、快適な遊歩道がつづいています。湖を眺めながら散策することができます。
十和田湖には次のような物語が語り継がれています。
「鹿角に住んでいた八郎太郎は友人の2人を待たずイワナを3匹食べてしまいます。すると猛烈に喉の渇きをおぼえ、谷川の水をひたすら飲み干し気が付くと、大蛇に姿を変えてしまいます。家に帰れなくなった八郎太郎は谷川を堰き止め十和田湖を造り、そこを棲家としました。その頃、紀州熊野にいた南祖坊は夢枕に神様が立ち「鉄の草鞋を履き鼻緒の切れたところを永住の地とするべし」とのお告げがあり、長旅に出ます。鼻緒の切れたところが十和田湖付近でしたが、すでに八郎太郎が大蛇となり主となっていので、覇権をかけ凄まじい争いが繰り広げられます。その争いは七日七晩続いたとされ南祖坊が勝利し、八郎太郎は落ち延びていきます。」ここまでが十和田湖編という感じですが、その後八郎太郎は鹿角や二ツ井などで騒動を起こし、その都度、神様達から疎まれたりし八郎潟まで落ち延びていきます。同じ頃、田沢湖では辰子姫も大蛇となり主となっていましたが、彼女を巡り八郎太郎と南祖坊が再び争う事となります。今度は八郎太郎が勝利し辰子姫と結ばれるという伝説です。
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青森県十和田市大字奥瀬字栃久保にある旧笠石家住宅です。
旧笠石家住宅は、十和田湖から流れ出る奥入瀬川右岸の狭い台地の上に建てられています。古くから農業を営んできた笠石家の住宅で江戸時代中期の建築とみられ、国の重要文化財に指定されています。
建物は、桁行20.8m、梁間10.3m、寄棟造り、茅葺きで、この地域の農家住宅の典型的な構造を残しています。梁などの主要構造部はチョウナ仕上げで、また土台を用いず礎石に直接柱を立てるなど、古い要素を各所にとどめた独特の建築様式です。
内部は一種の広間型で、大きく三分され、南側から「じょい(居間)」「だいどこ(台所)」「まや」と並んでいます。各部屋とも板敷きで天井は設けず、壁面はすべて板張りになっています。
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建物は、桁行20.8m、梁間10.3m、寄棟造り、茅葺きで、この地域の農家住宅の典型的な構造を残しています。梁などの主要構造部はチョウナ仕上げで、また土台を用いず礎石に直接柱を立てるなど、古い要素を各所にとどめた独特の建築様式です。
内部は一種の広間型で、大きく三分され、南側から「じょい(居間)」「だいどこ(台所)」「まや」と並んでいます。各部屋とも板敷きで天井は設けず、壁面はすべて板張りになっています。
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青森県十和田市東三番町には新渡戸傅像があります。
新渡戸傳は十和田市の歴史を作った人物として尊敬されています。荒れた台地に水を引く事を考え、苦労の末、十和田湖奥入瀬渓流から三本木原まで山の中を引いたのでした。
また近くに新渡戸十次郎像や新渡戸稲造像も建てられています。傳の子、新渡戸十次郎は、十和田市の町並みの土台を作り上げました。碁盤の目のように街区を計画し、京都に次ぐ日本で2番目の都市計画を実行したのでした。 新渡戸稲造は日本の「武士道」を英訳して世界に広めた人として有名です。農学博士であり、教育者でもあり、そして国際連盟の事務局次長も歴任しました。
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また近くに新渡戸十次郎像や新渡戸稲造像も建てられています。傳の子、新渡戸十次郎は、十和田市の町並みの土台を作り上げました。碁盤の目のように街区を計画し、京都に次ぐ日本で2番目の都市計画を実行したのでした。 新渡戸稲造は日本の「武士道」を英訳して世界に広めた人として有名です。農学博士であり、教育者でもあり、そして国際連盟の事務局次長も歴任しました。
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青森県西津軽郡深浦町深浦字浜町にある円覚寺薬師堂です。
深浦町にある円覚寺は、坂上田村麻呂創建のお寺で、青森県最古の建造物です。古くから海上交易従事者の信仰を集め、日本海海運史上の貴重な信仰資料を所蔵していることで知られています。ここには国の重要文化財に指定されている寺宝の薬師堂内厨子があります。
薬師堂内厨子は平安時代末期に平泉の藤原基衡(もとひら)が寄進したものと伝えられていますが、構造、意匠、技法の点から室町時代前期のものと考えられます。厨子の覆堂の棟札には永正3年(1506)と記されています。
薬師堂内厨子は白木造りの純唐様一間厨子で、屋根は入母屋造の板葺です。青森県最古の木造建造物で、細部にわたって念入りに仕上げられ、禅宗様で造られています。
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深浦町にある円覚寺は、坂上田村麻呂創建のお寺で、青森県最古の建造物です。古くから海上交易従事者の信仰を集め、日本海海運史上の貴重な信仰資料を所蔵していることで知られています。ここには国の重要文化財に指定されている寺宝の薬師堂内厨子があります。
薬師堂内厨子は平安時代末期に平泉の藤原基衡(もとひら)が寄進したものと伝えられていますが、構造、意匠、技法の点から室町時代前期のものと考えられます。厨子の覆堂の棟札には永正3年(1506)と記されています。
薬師堂内厨子は白木造りの純唐様一間厨子で、屋根は入母屋造の板葺です。青森県最古の木造建造物で、細部にわたって念入りに仕上げられ、禅宗様で造られています。
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