フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月24日(月) 雨のち曇り

2008-03-25 03:05:42 | Weblog
  8時半、起床。ドライカレーと牛乳の朝食。社会学の卒業生で卒論指導を私が担当したMさんという人がいる。いま、ワシントンDCで働いているのだが、私にとってはワシントン特派員のような存在で、彼女のブログはアメリカ社会の動向を知る上で大変参考になる。最近のブログでは、オバマ議員がフィラデルフィアで行なった人種問題をテーマにした演説のことが取り上げられていて、興味深かった。で、ブログからリンクが貼られていたオバマ議員のその演説の映像を観た。40分ほどの長さの演説だったが、引用のためにちょっとメモを読んだ以外は、ずっと聴衆を見ながら語っていた。冷静かつ真摯な演説だった。リチャードソン・ニューメキシコ州知事がこの演説を聞いて「ヒスパニック系アメリカ人とした彼の言葉に感動した」と述べ、オバマ支持を表明したというのもうなづける。
  「日常生活の社会学」の授業で使うパワーポイントのスライドの準備。スライドは凝りだすと時間がかかるが、いまの時期ならパワポの技法の習得をかねて、少々時間がかかってもかまわない。
  昼食は卵かけご飯。3時過ぎにジムへ。ウォーキング&ランニングを6キロ。トレーニング後に計った体重は、3週間前のトレーニング再開初日の同じ時点よりも1.5キロほど減っている。授業開始までの2週間で、あと1キロ減らしたい。
  ルノアールで読書。授業の準備の意味もあって、長谷川公一ほか編著『社会学』(有斐閣、2007年)を読む。去年の暮れに出た本で、600頁近い重厚なテキストだが、文体は軽やかである。著者たちの才気と意気込みを感じる。

  「私たちはみな、異なる道を歩んでいる。異なる夢を抱き、異なる明日に向かって今を生きている。この社会には、気の合う相手もいれば、顔を合わせるのも苦手な相手もいる。しかし私たちは、他の人間から切り離されては生きていけない。家族、学校、クラブ・サークル、会社、地域社会、国、そして世界。これらの場で、いやでも他の人間と関わりながら、生きていくことを迫られている。なぜ、価値観や生きがいの異なる人間同士が、ともに暮らしていけるのか。考えてみると、このことはとても不思議だ。・・・(中略)・・・異なる人間たちが、限られた空間のなかでともに住み合っていくことを可能にする知恵あるいは仕掛けの総体、とりあえず、これを「社会」と呼んでおこう。」(2頁)

  「まだら模様を示しながらも、社会はその厚みと深さと多様性を確実に増している。リアルとヴァーチャル、ナショナルとトランスナショナルといった異なる世界をまたぎながら、人びとは新しいつながりの形を体験しつつある。さらに、システムと環境、生命と非生命のように、かつては絶対的なものとして大きく立ちはだかっていたさまざまな境界をスリリングに越境しながら、社会的なものがあらたに創造されていく現場に、私たちは立ち会っている。/この引き裂かれた状況においてなお、社会をめぐる想像力と構想力の旅を、あくまでも私という現場から始めること。あくまでも、私を社会のなかに投げ出しながら、そこで目に映るもの、耳に届くもの、全身をとおして感じ取られるものこそを、まず社会のはじまりと信じ続けること。そして、さまざまな「つながり」のなかに、たしかに位置を占めている私の姿を確認すること。社会学という知の営みに乗り出すにあたって、社会と対峙する最初の現場とは、まず私=「自分」という場であるしかない。」(3頁)

  「本書がめざすのは、あるパラダイムを他のパラダイムによって取って代えることではない。そうではなくて、対象としての社会のさまざまな変化と共振しながら、内と外に向かって越境的に自らを再編していく社会学の姿を、その変化とともに提示していくことが、本書の到達目標となる。/壊しつつつくり、つくりつつ壊す。そして、またつくる。今日、社会学という知がめざしているのは、このたえざる往復のなかから、変貌する社会を言葉にするための新しい語り方(語り口・文体)を生み出すことである。」(10頁)

  社会学の勉強をしっかりやりたいという学生にはぜひ勧めたいテキストである。

  夜、『薔薇のない花屋』の最終回を観る。誰も死んだりしない、幸福な結末で、よかった。