フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月21日(月) 晴れ

2016-03-23 13:29:28 | Weblog

8時、起床。

トースト、ベーコン&エッグ、サラダ、紅茶の朝食。

11時半に蒲田駅で卒業生のKさん(論系ゼミ5期生、2015年卒)と待ち合わせ、一緒に「phono kafe」へ。

一昨日、研究室で会ったYさんと同じく、卒業後に個人的に会うのは初めてだ。ゼミ論集の編集作業にかかわってくれたが、バイトの関係で、作業の後、「五郎八」(食事)→「カフェゴト―」(お茶とケーキ)で慰労することができなかったのが心残りだった。ようやく今日、一年越しの「お疲れ様」である。

二人でご飯セットを注文し、6種類の惣菜をシェアする。

ヤーコンと人参の梅酢サラダ(左)、ごぼうのフリット(右)。

ネギポテトの油揚げ包み。

揚げ茄子とほうれん草のナムル風(左)、ひよこ豆のトマト煮(右)。

玄米と豆腐のタルト人参ソース掛け。

Kさんは色白である。学生時代はスキーのサークルに入っていたので、いくらか日焼けをしていてたが、社会人になって色の白さが際立ってきた。日本人形のようだが、写真を撮るにあたってホワイトバランスには苦労する(笑)。

ミニデザートとお茶(私は小豆茶、Kさんはハニーブッシュ)。

Kさんは人材派遣・紹介の会社で新卒者の就活支援の仕事をしている。毎日、9時、10時まで働いているそうで、同期には退職していった者も少なくないそうだが、Kさんは仕事とはそういうものだと割り切っているところがあって、日々の仕事にポジティブに取り組んでいる。ただ、通勤時間が1時間半かかるので、これを短縮すべく今夏には実家を出て、一人り暮らしを始めたいと思っている。お母様はKさんに家にいてほしいようだが、「私はこれまでの人生で親の期待に八割くらい応えて生きて来たので、もうそろそろ自分の気持ちを優先してもいいかなと思っているんです」とKさんは言った。なるほどね。きっぱりした考え方だ。

「他者の期待に応える」というのは社会的存在である人間の基本的な行動原則だ。自分の気持ちに正直に生きているつもりでも、その自分の気持ちなるものがそもそも重要な他者の期待を内面化したものである場合が多い。重要な他者の最たるものが親である。親の影響は子供本人が思っているよりも大きい。なにしろ物心つく以前から親の期待を浴びながら生きてきたからだ。ある意味、人生とは親からの離脱の過程である。過激な言い方をすれば、心理的な親殺しの実行過程であり、穏当な言い方をすれば、親との最適な距離の取り方の学習過程である。「親元を離れて一人暮らしを始める」というのはその過程におけるもっとも可視的な出来事である。Kさん、頑張りどころですね。

大原さんにツーショットを撮っていただく。

Kさんの次の用事までまだ時間があるようだったので、カフェの梯子をする。蒲田駅前のサンライズ商店街の奥にある「カフェドコバ」へ。

日曜日の午後のカフェは混んでいるが、幸い空いているテーブルがあった。二人ともカフェオレを注文。

一つ下のゼミ6期生(卒業まであと5日だ)のMさんがフェイスブックに「任地が高知に決まりました」と書いているそうなので(Mさんは全国紙の記者になった)、「大久保先生が高知に行くって言ってるよ」とKさんにコメントを書き込んでもらったら、「美味しいスイーツのお店を探しておきますね」と返事があった。実は私は3年ほど前に高知には行ったことがあり、「土佐茶カフェ」(有名らしい)で食べた「あんみつ姫」というのがなかなかよかった。

忙しく働くKさんだが、土日はしっかり休んでいて、二日とも社交の時間にあてているそうだ。それも一日に昼と夜、二組の社交をこなしているそうである。つまり毎週末2×2=4組の社交をこなしているわけだ。それはずいぶん欲張りだね。私も社交の熱心さにかけてはKさんに引けを取らないが、週に二組(週末に一組、平日に一組)を原則にしている。土日連続というのは例外的にあるが(とくに年末や年度末は)、私の場合は月曜日も週末の一部なので(授業も会議もない)、孤独の時間は担保されているのだ。Kさんは、仕事にも全力、社交にも全力で、一息入れる孤独の時間はなくても大丈夫なのだろうか。「マグロみたいですね。泳ぎ続けていないと死んじゃう・・・(笑)」とKさんは言った。うん、白マグロだ(笑)。

駅までKさんを送って行く。駅前でどこかの政党の議員が演説をしていて、それに抗議する人たちとやりあっていた。

Kさん、健康管理には気を付けてね。また、会いましょう。

夕食はオムライス、サラダ、スープ。

『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』最終話をリアルタイムで観る。

音は死にませんでした。(ユミさんがフジテレビに抗議の手紙を書く必要はなくなった)

絵にかいたようなオールハッピーエンド。登場人物全員が幸せになって(それを予感させて)終わった。「そんな安直な!」という声が聞こえてきそうだが、いいんです、ハッピーエンドはポピュラーカルチャーとしての恋愛ドラマの王道ですから。そもそも近代社会における「幸福」とは、格差(勝者と敗者)が必然的に生じる「成功」とは違って、みんながそれを手に入れることができるとものとして普及したのです。「みんなが幸福になる」、いいじゃないですか。

本当は、時間があれば(10回で終了ではなくて、少なくとも11回、できたら13回)、他の登場人物たちのハッピーエンドを描いてから、最後に主役の二人(練と音)のハッピーエンドをじっくりとたっぷりと描いてほしかった。まあ、大人の事情でそうともいかなかったんでしょうね。

最後のファミレスでの場面、よかったですね。これからファミレスでおろしハンバーグとトマトソースのハンバーグを注文してシェアして食べるカップルが増えることでしょう(笑)。

無理をしてかたくなな態度をとっていた音が、めげずに語りかえる練に笑顔になっていくところの演出は見事でした。

そして極めつけは練の次の一言。

「卵があって、フライパンがあって、ちょっとの油と水があれば、目玉焼きが作れます」

そうそう、水は最後に蒸すのに必要なんだよね・・・って、違うか!

「道があって、約束があって、ちょっとの運があれば、また会えます」

これですね。放送が終わってから、ツイッター空間にはこの言葉が溢れていましたね。

練は決して口下手ではありません。普段は口下手に、不器用に見せているだけです。そして、ここぞというときに、こういう一言をいう。その落差が効果的なんですね。彼は東京から北海道までトラックを運転しながら音に会ったらなんて言おうと考えていたはずです。この言葉は考えに考え抜いた末の言葉です。

老婆心ですが(老爺心というべきか)、練の言葉をちょっとだけ補足しておきましょう。

「道があって、約束があって、約束を守ろうとする強い気持ちと、少しの行動力と運があれば、また会えます」

これが正しい。でも、長いのでドラマの台詞には向きません(自己啓発セミナーになっちゃう)。名言には省略がつきものなんです。それがわからないと、会えませんよ。