9時、起床。
今日から2月だ。
トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
今日の『スカーレット』。喜美子と八郎の別離は決定的なようである。周囲の人も、視聴者も釈然としないだろう。八郎と三津の不倫疑惑はあったが、「そういうことはなかった」「それで別れるわけではない」と言明しているので、余計、「なぜ別れなくてはいけないの」と釈然としないわけだ。今日の「荒木荘」の面々の突然の再登場は、いうなれば、そういうくぶずった思いを鎮火させ、喜美子を人生の次のステージに送り出すための応援団としてであった。とりわけラジオから流れてきた信楽太郎の歌う『さいなら』は心にしみる「別れの歌」だった。しかし、『さいなら』は大ヒットしているそうだから、喜美子がそれを知らなかったというのは不自然ではある。信楽で信楽太郎のことが話題にならないはずはない。けれど、喜美子が信楽の家で信楽太郎の歌を聴いたのでは、インパクトが弱い(信楽太郎があの「荒木荘」にいた雄太郎だということが伝わらない)。喜美子が彼らと再会するために、そして「さいなら」を彼女の心の琴線に触れるような形で聞くために、信楽の里の外(大阪)に一旦出る必要があったのだ。そして喜美子は晴れ晴れとした気持ちで信楽に戻ってくる。
戻られへんから
笑った顔だけ忘れんように
記憶のノートに描いとくわ
泣いて泣いて
切なくて泣いて心はまだ
君のカケラばっかしゃあないな
それでもさいなら
昼食は焼きそば。
午後から、妻と江古田に芝居を観に行く。
劇団「獣の仕業」と劇団「兎団」のコラボ企画「とりかえばや地下戯団」。「獣の仕業」の演目である『助ける』を「兎団」の斎藤可南子が演出し、「兎団」の演目である『車曳き』を「獣の仕業」の立夏が演出するという「とりかえっこ」である。
開演30分前に入場すると、ジョーカーのような顔をした「地下戯園」の園長(倉垣吉宏)が前説を始めていた。この人、何度か芝居を観させていただいているが、世が世なら、全共闘運動のリーダーが務まりそうな人格者である。山の中で道に迷っている時に出くわしたら、ギョッとすると思うが、きっと親切に麓の里まで道案内してくれるだろう。
その横で仮面を被った二人の女優が戯れていた。ここがアンダーグラウンドな見世物小屋であるという雰囲気を漂わせている。
さて、開演。
前半が『助ける』、間に倉垣のグリム童話「七匹の子山羊と狼」の朗読を挟んで、後半が『車曳き』。どちらも30分の短篇だ。
最初、それぞれの劇団の演目を別の劇団の演出家が手掛けるとどういうものになるのか、という視点から見ようと思ったが、それは無理であることがすぐにわかった。第一に、『車曳き』は今回が初見で、オリジナルな舞台(2006年初演)は知らない。だから立夏の演出の効果がどのようなものなのかがわからない。第二に、『助ける』の初演(2013年)は観たことがあるが、だいぶ昔のことなので、今回と比較ができるほど記憶が鮮明ではない。また、脚本そのものが手を加えられている(とくにエンディングの部分がより明るく温かいものに変っていた)。第三に、「とりかえっこ」したのは演出家だけでなく俳優もである。たとえば「獣の仕業」の小林龍二は『助ける』にも『車曳き』にも出ているし、「兎団」の松尾武志は『車曳き』にも『助ける』にも出ている。両方に出ているわけだから「とりかえっこ」というよりも「まぜっこ」と言うべきかもしれない。それは二つの芝居の差異よりも類似性を高める働きをするだろう(照明や音響も類似していたように思う)。
というわけで、立夏と斎藤可南子の演出の違いという視点は早々に放棄せざるをえなかった。もし純粋に演出家の違いの効果だけを見たいのであれば、同じ演目を同じキャスティングで、ただ演出家だけを替えて2回上演するというのがベストな方法であるが、それは「見世物小屋」というよりも「実験室」での検証作業のようなものになるだろう。私は観てみたいが、きっと手間暇のかかる作業になるだろう。
『助ける』と『車曳き』は二つの劇団の相互浸透作用によって類似性の高い(私の印象)芝居になったが、もちろん、本来別々の作品である。『助ける』は東日本大震災の津波と原発事故をモチーフにした作品で、主役の医師ヨルハは自分を頼ってやってきた病人ユウリを見捨てたこと、そして双子の妹エリを助けられなかったことにずっと苦しんでいる。しかし、実際はエリは生きており、ヨルハは身代わりになって死んだのだという事実が明らかにされる。ヨルハはそのことに気づいていない(死んで「魚」になっているのだ)。「魚」の灯で明るくなった街で、ヨルハはユウリの部屋をノックしてユウリに手をさしのべている。ユウリはヨルハの手を取る。(注:『助ける』の初演では登場人物はヨルハとユウリの二人だけだった。今回はそこにエリが加わり、別の医師も加わることで、ヨルハの魂が救済されたことが証言されるエンディングになっている)。
『車曳き』はエドガー・アラン・ポーの『黒猫』をモチーフにした作品である。落ちぶれて失踪した流行作家の遺作という形をとる。主人公の車曳きの男は、子どもの頃、母から土蔵に閉じ込められるという虐待を受けていたが、指に薔薇の棘が刺さったことに腹を立てて、自宅の薔薇園に火をかけ、そのとき庭仕事をしていた母は火に巻かれて死んだ(男の子のせいだとは疑う者はいなかった)。やがて成長した男は作家となり、若く美しい妻を娶った。二人の新居にあるときから黒猫が住み着いた。それは男に子どもの頃の自宅の土蔵にあった猫の置物のことを思い出させた。母の記憶と結びついた猫の置物だ。元々神経質な男だったが、彼の神経は徐々に蝕まれていく。ある日、男は自分の手を噛んだ猫の目をナイフで抉り、それを妻に目撃される。妻は夫がとうとう気が狂ったと思った。数年がたったある日、男は猫を斧で殺そうとして、間に入った妻を殺してしまう。男は妻の死体を土蔵の漆喰の中に塗り込める。猫はどこかに逃げてしまった。でも、どこからか猫の声が聞こえる。失踪した作家の遺作はここで終わっている。・・・男が土蔵の壁をスコップで壊すと妻の死体が出てくる。その死体の上に猫がいて、ニャアと鳴いた。
苦悩から魂の救済に至る『助ける』とは違って、子どもの頃に母を殺してしまったかもしれない男が妻を本当に殺してしまった話である。どこまでも絶望的で救いのない話であるが、考えようによっては、犯した罪が露見することや、行方不明だった猫の所在が判明することは、男にとっては一種の救済といえなくはないかもしれない。男の犯罪の動機を「理解」することは難しく、その意味では「不条理劇」と紙一重であるが、まったくもってわからないというわけではなく、神経症的で分裂症的でもある男の心理は少し薄めれば現代人の精神状況に似ていなくもない。
私は「兎団」の他の芝居を観ていないので、『車曳き』が「兎団」の演目の中でどのような位置にあるのかはわからない(代表的なのか、特異なのか)。ただ、男の狂気を見事に演じ切った斎藤可南子の存在は、「兎団」のレパートリーを広げるのに貢献しているだろうということはわかる。「獣の仕業」にはおそらく『車曳き』は向いていない。立夏や小林龍二が『車曳き』の男を演じてもどこかで弱さや優しさが出てしまうだろうと思う。
終演後に、何人かの写真を撮らせていただいた。
「兎団」代表、斎藤可南子。
「獣の仕業」の小林龍二と立夏(代表)。
「獣の仕業」の団員になったきえる。
「獣の仕業」にしばしば客演している松本真菜美(salty rock)は「獣の仕業」枠で出演。
関係者一同(関係者のツイッターより拝借)
『車曳き』は2月8日(土)に「スターフィールド ショートショート」という多ジャンルの劇団が参加するフェスティバルで再演される。劇場スターフィールドは新宿三丁目が最寄駅。
チラシには「入場料3500円」とあるが、学割2000円、高校生は無料とのことである。
6時頃、「兎亭」を出る。
夕食は蒲田に戻って来てから「Zoot」で。
辛子味玉チャーシューつけ麺+ライスを注文。
最後に熱々のスープを足してもらってライスを入れ、雑炊風にしていただく。普通はラーメンライスは食べないが、辛いのでライスがちょうどいい。
答案の採点に着手する。しばらく採点天国となる。
2時、就寝。