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King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

『変』ノーベル文学賞受賞者莫言

2013年04月15日 09時39分25秒 | 読書
これも日経の書評で注目の本です。



『変』ノーベル文学賞受賞者の自伝的小説というだけで売れそうですが、
メディアの取り上げ数や世間的な露出が少なくあまり知られていないようです。

日経記事内の「激変する人生、激動する中国において習得されてきた物語りの絶技…
というところだけで手が伸びそうになる本です。

現在中国の思想ということでどんな教育がなされ、人々はどう生活しているのかを
知るためにもいいのかもしれません。

かつては豊かな思想と世界の中心であった中国も今は発展を続ける新興国となって
います。

古いものはことごとく破壊され日本では国宝になっている茶器や文化財などは
残っていません。

そして著作権が尊重されていなくて様々なコピーが存在し、他国の援助もいつのまにか
自前の独自技術としてよその国に売り込んだりととかく迷惑な隣人としか最近は話題に
なるのですが、かつては尊敬されていた文化の復活はあるのか気になるところです。

その一端を知るのにもどんな精神史が積み上がっているのか知るきっかけとなる
のではないでしょうか。
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なんかあまり必要ないですね

2013年04月14日 21時55分57秒 | 読書
『55歳からのハローワーク』これは日経の書評でこれは是非と思って
買っておいた本です。


しかし、こういう本に我々世代は何を思うべきなのでしょう。
つまり何を期待してこの本を読むのでしょう。

作家はそれに応えようと諸々の手を尽くしていると思います。

しかし、そんなことはないという出来事ばかりが起きますし、
起きたからと言って別にときめくわけでもこれからの人生により
自信と希望を持って立ち向かえるかというと大いに疑わしいと
言わねばなりません。

つまり何のためにもならないということです。

読んで楽しくなるわけでも、ほんの少し先を見ている先見性も
見られません。

夏目漱石の心などの方が却って腑に落ちるところがあるといわねば
なりません。

昔の小説の方が人の心に寄り添って書かれている気がしてなりません。
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『復活』読了

2013年03月08日 14時48分00秒 | 読書


今年の冬の読書は主にのこの『復活』でした。

今多くの人がインターネットやら最新テクノロジーの恩恵を受けて暮らしていますが、
そんな多くの人の心の中では、神がいて、その及ぼす奇跡だとか秘跡というのものを
余りに安易に信じ過ぎ、安易に神を受け入れすぎていないでしょうか。

貧しくひもじい生活を強いられていたり、幻覚を見るほど何かに飢えているとしたら、
そんな神という超自然なものも必要でしょう。

しかし、科学技術とか医療とか合理的なデータ―処理で予測される未来とか
人々の生活もかなりの変化があり、安易な安寧と平穏の底にやすらぎと
幸福を求めるなら、もっと普通に考えていいのではないかと最近は思います。

つまり、大昔の書物以外に信じないとかかたくなな考えの人にときに出会うと
なんでそんな目にも見えず感じられもしない無言の神に心酔してすべてを委ねる
気になるのか疑問に思います。

大概の人はそれが正しいことだからと平然と答えますが、この小説の様な話は
どうとらえるのでしょうか。

昔はやんちゃで大して愛してなくても勢いで子供まで作ってしまったけれど、
身分とか階級的な社会構造の中で自分の考えはいやが上でも今正しく真っ当に
なった時、身分も階級も社会制度も無視してただ人間愛として人をもう一度愛そうと
する主人公にそれが正しい人の道だと感動して喜んでこの本を読むでしょうか。

それとも淡い恋愛小説として、哀れなもの昔の恋心に対した感傷だと思うでしょうか。

やはり私は人の心からすれば、どうしようもない主人公の行動や愛というのは
それで一つの正しい答えでもあるでしょうが、実現可能な正しい行いかといえば
それは無理であると言わなくてはなりません。

社会というのは小さな村でも一人の意思が尊重されてスムーズに動くものでは
ありません。

それが正しいことや正しい行いだという確信があっても地域社会の制度や人との
かかわりがおいそれと簡単に一人の自由意思を受け入れず簡単に阻むのです。

それに宗教的な人の思いが絡めば余計そうです。

昔からの宗教感覚よりより正しき人の道を発見したとしてそれが世界中で信仰されて
肯定されているものに真っ向から逆らう物であったら、それが身を削る行いでも
完全に拒否されて黙殺されるでしょう。

そんな人の心の闇の部分が全く書かれていないのがこの小説です。

それは宗教がどんな目的のために作られたか、原始的な意義を解明した人が
いないから、こんな小説では愛の中での実験的な行為として肯定されてしまう
のです。

全ての哲学や宗教や科学式や法則をも含めて語り尽くす試みもそろそろ必要なの
ではないでしょうか。
そういう物足りない気持ちを強くした小説です。

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ドストエフスキー『白痴』感想

2012年12月10日 12時49分33秒 | 読書


ドストエフスキー『白痴』
ドフトエフスキーという作家は緻密なストリー展開と計算された構築で読ませる作家ではなく、
舞台監督のような演出家的な作家なのだと思います。

作り出したキャラクターを配置したらあとはそのキャラがそれぞれ勝手に演じさせるに任せて
それが思うに任せぬ結果になったり、方向を見失うと修正すべく新たな登場人物の創造と登場
で、舞台を導こうとします。

今回も3度も終結に向けて動きますが、公爵と二人の美女とその恋敵の三すくみ四すくみの
人間関係も思う方向に向かないと思うと新たな恋敵に謎のЩ公爵が登場するも自然と
エバンチン家に溶け込みムイシュキン公爵と恋敵に発展することもなく、最後はその
謎もいくらかけりをつけられてしまいます。

次のテコ入れは、公爵偽物疑惑とイボリートの自殺騒ぎです。

こういった群像劇の中、舞台劇のように物語は進んでいくのですが、どきっとする
位リアルな文章も交じり、これは作家の実体験なのだとすぐに解る部分が二か所
あります。

ひとつは死刑を待つ人々の描写です。もう一つは癲癇の発作の記述です。これは
ぞくっとするくらいのリアル感があり、生の実体験の傷口が開いた状態のまだ血が
滴るようなリアル感があります。

そういったものに比べると人物描写など自分の想像した人物像とその役者が語りだす
世界は演じだしたもののやはり気に入らず行きつ戻りつしたり新登場の人物を繰り出して
修正を迫りますが、結局最後は主要登場人物の死を持ってしか収拾できないこととなり
この物語の一番の成果であるムイシュキン公爵というキャラクターの創造とその表現の
最大の武器としての白痴と実際の差別的な病的な意味での精神障害と諸々を含んでおり
キリスト教的な善と愛にそれに白痴でもあるという個性はカラマーゾフの兄弟のアリーシャ
につながる最大の成果かもしれません。

こんな愛の絡み合う世界に私たちはなにがしかの解を見出そうとあがき、神の沈黙に
一度は新世界の絶望し、神は死んだと表しても、やはり愛という存在は捨てきれず
我々はこんな昔の小説を読み返しているのでしょう。

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『白痴』読了

2012年12月05日 11時12分13秒 | 読書
この本は何度か読んでいるものですが、この夏から
ずっと読んで寒くなるまでかかってしまったのは
衰えた視力によるところが大きいです。

印象としては今から15年ほど前のニュース番組で
当時世間を騒がした女子高校生監禁殺害ドラム缶遺棄事件の
被告が獄中反省の姿勢を示すために読書感想文として示した
のがドストエフスキーの『白痴』で、それが番組中読み上げ
られましたが、その内容が自分も白痴にならないように人として
いきたいというような殊勝な内容でしたが、それを聞きながら
そもそもそういう本じゃないし感じることも悔い改める方向も
違うように感じて本を読み返したのを覚えています。

そして、本のテーマが被告の言っていることでもなければ
作者の意味するところも小説もただ利用されただけだなあと
思ったことと、自分が思っている内容で合っていたという
安堵感がありました。

さて、『悪霊』を読み終えた後、『白痴』を読めばどう思うだろうか
と興味を感じ読んでみることにしました。

世の中、ドストエフスキーというと小説家であり、傑作『罪と罰』が
あまりに有名で、小説家、ドストエフスキー『罪と罰』は誰でも
セットで思い浮かべるところです。

それがドストエフスキーを読んだことがない人でも傑作、代表作
は『罪と罰』と答えるのです。

じゃあ、どうして『罪と罰』で、どんな内容なのか。

何がそんなに傑作なのか。世の中が誰でもその名を上げるのか。

それは謎です。

ベートーヴェンと交響曲第五番と同様、ドストエフスキーといえば
『罪と罰』の名が上がります。

しかし、私はベートーヴェンならピアノソナタの方をよく聞きますし、
交響曲なら第九だと思います。

同様に、ドストエフスキーなら絶対に最高傑作にして不朽の名作で
人類の宝と言えるのは『カラマーゾフの兄弟』だと思います。

そして最高にして、未完であるという魅力の尽きないところがまた
最高であり至高である点に拍車を掛けます。

この様な例は音楽家でもよくあることで、生涯をかけた最後の名作が
未完であることはままあるのです。それがまた作品の魅力に尽きない
輝きを増していることがあります。

中にはその続きを書いてしまう不届きな人も出てきます。

実際多くの人が続きを夢想し楽しんでいるのは事実です。

そんな最高傑作にして、未完の『カラマーゾフの兄弟』もこの震災後
何度も読んでしまう作品です。

ドストエフスキー作品を読んだことがある人なら、『罪と罰』を
最高で代表作としてあげないのではないかとよく思います。

ですから、小説の話をしてドストエフスキーと『罪と罰』とすぐ出る
人ほど小説に対して軽薄な知識しか持ち合わせないことを表明している
かのように感じます。

書かれている内容も『羅生門』を連想させ気持ちのいいものでは
ありません。

最近の日本の小説にはない読み応えとか読書的感動というのは
味わえますが、今読むべきものかというと成人になるまでに大学の
教養課程みたいに通過儀礼として読んでおけばでいいという感じ
ではないでしょうか。

小説というのは読んでおかないと損であるとか知らないと人生に
おいて大変な損失を人生の収支上において負うというそれだけの作が
あるのではないでしょうか。

よく絵画や美術作品でも一生のうちに見ておきたい作や風景などが
あるといいますが、まあ見たからと言って何が変わるでもないのに
対して良い芸術作品は様々な影響を残します。

絵の場合は、美術の教科書やネットで見たということもありますが、
芸術作品の場合やはり本物を見るのと写真やコピーを見るのとは
違うものです。

感想というのは私的なものであり、それがどう思おうがどう感じようが
かまわないのに、聞いてみるとこの人本当はこの本読んでないなという
事はよくあることです。

そして学生の頃からなんで読書感想文など書かせるのかという疑問も
本当にこいつは本を読んでいるかどうか知るための踏み絵のような
物に過ぎなかったのかと思うこともあります。

今年の夏休みの宿題の相談で一番多かったのが読書感想文で、その書き方
をレクチャーするものが人気が高かったそうです。

そして、最近の本のベストセラーのトップ5に小説が登場しなくなって
しまったというニュースも心さびしいことです。

私自身、最近の本は読んでおらず、フランクルとか『白痴』『悪霊』
と古いものばかりです。

この記は、後半に続く。
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血の記憶

2012年09月09日 11時50分54秒 | 読書


作家というのは自分のライフワークとした作品を持つことがあります。

D・Jサリンジャーならグラースサーガなど自分の出自と関係する魂の
記述だったり、生涯をかけて書こうとする物語たちです。

宮本輝の場合、流転の海シリーズであり、これは私も人生の折々の
場面で何度も読み返してきたストーリーです。

ただ、これは新刊が出るまでのスパンが長く、どれだけの読者が
付いてこれているか疑問のところもあります。

私自身、最新刊はまだ読んでないのです。まあ次が出るのはいつか
解らないので慌てて読むこともないとゆっくりと構えているわけですが、
昭和がどんどん遠くなる今では書かれている内容は、停滞する日本に
とってその理由を知るにも参考になるに違いないと思います。

そんな物語を読んで気になったことは、現代人と血の関係です。

親鸞も幼い時に牛に襲われて死にそうになるというエピソードがあり
ますが、流転の海でも牛が暴れてそれを殺した人が浴びた姿の記憶が
語られます。

野生の動物の肉を食べるという経験が段々遠のく現代日本人はその
血の持つ力を忘れた民族だと思います。

血を見ることが禁忌とされ、穢れという感覚も昔からあり、日常から
切り離されてきたことと、食うためにその他の流す血が密接な民族と
それを意識しなくなった民族の違いを感じるのです。

昨今血沸き肉躍るなどという表現すら聞かなくなっています。

まぎれもなく血のなせる業が人の営みなのに、それを遠ざけて
しまった民族が長き停滞の時代に入ったことと密接な関係がある
と思えてなりません。
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『冥途めぐり』読了

2012年09月03日 10時34分46秒 | 読書


冥途めぐりを読みました。

最近の芥川賞というと何かと時代を追いかけ話題作りが過ぎる
嫌いがありましたが、これは在庫一掃セールなのかと思わせる
感じの作品でした。

読んでみてすぐ文章のまずさを感じて、もしネットでこんな
文章に当たればすぐ日本語でOKの文字が飛ぶなという感じの
文章であり構成です。

名著とか世紀の傑作といわれる文章は、出だしから鷲掴みに
されるような名文にあふれ、どこを読んでもざわざわと心
騒がせるような魅力に富んでいるものですが、純文学の賞として
最近は目新しさも面白さも本来持っているべきものもないような
ものが多くあり、賞の格としても1年に一本出るかどうかの作品に
レベルを上げるか、該当なしという決断も必要ではと感じる
受賞作が続いています。

それでも異論がいろいろ出るとすれば、商業主義とかもう既に
ファンが付いている立派な作家さんには違う賞を上げればいい
のであって、芥川賞というあまりもうからない純文学の新人賞
的な意味合いからすれば、鮮烈とか衝撃というふさわしい作風も
求められるというところに意見の相違があるのか、それとも
審査委員が良いと押すようなこともなく作品が決まってしまう
ような選別システムに難があるのかです。

ですが、この作品に出てくる親子は現代に実は多くいるタイプ
なのではないかと思いどんな物語か、どんな展開を見せてくれる
のかという期待を込めて最後まで一応読みました。

しかし、こんな人たちって最近周りでいるよねでかたずいて
しまい、物語が意外の方向にもカタルシスにも集結しません。

つまりはこんな人たちに触れて終わりです。

それでは自分もそんな人たちなんじゃないかという感じです。

挙句に文章までまずい人が選ばれるとこの賞もこんな人たち
なのか、それが現代なのかと思ってしまいます。
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『夜と霧』読了

2012年08月25日 10時40分23秒 | 読書


『夜と霧』を読みました。

これはNHK100分DE名著に取り上げられてすぐ買いました。

番組はもう100分終了しましたが、最終回だけまだ見てません。

この本の中でも書かれていますが、あまたの映像やドキュメント
になったアウシュビッツなどのナチスドイツの強制収容所の
体験記です。

ただ違うのは心理学者としての視点とか精神医学的な解説と
人類愛とか人間性とか信仰とか独自の視点があることが特徴で
世界中で今でも読み継がれる本となっています。

今回、震災後の日本で読まれるようになったことから書店で
平積みされるようになっていますが、これはちょうど新訳版
が出たことと重なったからでしょう。

東北地方の書店で売れているというのは、つらい体験の中で
どう生きたらいいかを参考にしているというより、より悲惨な
体験記を読み、精神的な安定を得ているという方が強いように
感じます。

しかし、その心中を思うと私自身、当時神はなぜこのようなことを
と実際に信仰心がなくとも考えざるを得なかったように、多くの人が
なぜという問いを発して、答えを求め人に尋ねたり、坊さんや
神父などに訊ねたりしたことでしょう。

人により、この本に答えを求めた人もいたのかもしれません。

このつらい体験記を読み涙するより最初から慰藉される感じを
持てるのは、つらい場面を読まされても私たちは、結末として
このつらくこの世の地獄のようなところでも筆者は生還し、生を
全うしたという結果を知っているから何か安心感と最後に待って
いるそれでも生き延びた、なぜ自分は生き延びたかを知りたくて
ページを進めるのでしょう。

100分で名著では、生きる指針とか作者の伝えるつらいときには
こうするということばかりがクローズアップされますが、私には
この本で一番感じたのは、作者が信仰心を是としていること。

世の中、まっとうな人間とそうでない人間が同じ確率でどこにでも
いるということ。

収容所に入るということは、ほとんどが死への行進であり、それでも
生を全うするには、神という超自然の物を用意しないとならないの
でしょうか。

人は、さまざまな場面で多くの選択と決定を繰り返し、人生を
進めていきますが、運命そのものは変えられないとあきらめます。

しかし、究極の確立と自らの選択でそれを決定していく自殺と
いう終わらせ方をしていく人に神を登場させないで、険しい道を
行くことが正しいという宣託はできないのでしょうか。

ひとつの答えとして示される希望と目標がありますが、そこに
感じられる愛を知るには、人生を問い考え実際に生きないと
そこにはたどり着かないように思います。

これは私が日々毎日走っていて感じることと重なります。

走り出す前まではつらく苦しい道のりへ踏み出す勇気がいります。

特にこの暑さと極寒の冬には相当の覚悟をもって走り出すことに
なります。

それでも、走って得られる境地は考えて理解できるものではなく、
走って実際に苦しい時を重ね、その場に立たねば感じ得ることの
できない感覚はいくらも存在するのです。

そこに永遠の生とか超自然の存在を出して信仰を持つものがより
深く高くたどり着けるとは私は思いません。

そして、最後に語られる失意も十分に理解できます。

様々なものを犠牲にしてやっと手に入れたものとかやっと果たした
目標も周囲から掛けられる言葉がまたお座なりのものばかりだと
いうのもあの夏休みの宿題をすべて方ずけてやっと手にした何も
しなくてもいい最後の一日がすごい退屈な時間でしかなかったこと
と同様同じことをずっと繰り返しているように感じるのと同じです。

この本を読み、信仰を持つ大切さには至りませんでしたが、
せめて彼の言うまともな人間でありたいと思います。

どんな時にも自分はまともな人間の側にいたいと。
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『重力とは何か』読了

2012年08月20日 14時36分03秒 | 読書


こういう最新の科学を解説した本が最近は
売れています。

それも最近、物理とか宇宙論とか最新の発見なり
新たな人類の英知の成果がちょくちょく新聞などに
乗るからでしょう。

我が家にも宇宙論や相対性理論の本やホーキングの本が
たくさんあります。

益川敏英博士の日経の履歴書も面白く、日本人が貢献して
新素粒子の発見につながり、それが重力起源のものになる
と聞いて、余計興味を集めている感じです。

さて、そのたくさんある相対性理論を解説した読み物は
たくさんあるのですが、今回は重力というキーワードが
あり、これを知らなければ今何が発見されようとして
いるのか解らないのです。

となれば多くの日本人がこの本を読むのも納得がいく
というものです。

ただ、この手の本を読んだからわかったような気になれるかと
いうとそういうことはなく、謎はまだ解明されていないと
いう結末が待っています。

つまりは何も世の中が変わるようなことではないのかと
思えますが、すでに陽電子がPETに使われているように、
エネルギー革命が起きるかもしれません。

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『悪霊』読了

2012年08月14日 09時07分42秒 | 読書


この夏の読書タイムはこの悪霊でした。

『ライ麦畑でつかまえて』とかこの『悪霊』とかこれは人類の宝ですね。

どこから読んでも何か気持ちを掴まれてざわざわとした感じにさせる
のです。

ただ、この小説も発表当時は相当の問題小説だったことは予想できます。

よく言われる主題とする悪霊とは無政府主義者や無神論者などの社会に仇する
最新の思想ヨーロッパの思想にふれた若者の騒動に起因する社会的な波に
警告を発したもので、キリスト教的信仰を持った者が世の中を安定させ発展
させるというメッセージも登場人物や実名で批判される詩人など誰かを直接
批判していることで当時は誰のことか容易に解っただろうことも感じます。

そんな意味では、当時与えただろう社会的インパクトに思いをはせるのも
一興ですし、登場人物の行動原理に芸術を感じるのもいいかもしれません。

当時の社会としては、農奴解放など新しい世界の登場を期待し、待ち望む
人々の欲求が膨らみ、精神的世界にも新しいもの、芸術にも新規風を
のぞまれていたことで、抽象絵画からポップアートへ至る時代に
すでにデュシャンの「泉」や「なりたての未亡人」のような近代芸術の
発表はあったわけで、そこにキリスト教的信仰を持つ人の大切さを
いうというのはあまりにあたりまえのような諸々の芸術批判、文化批判、
政治や体制にも一言言っておいたということなのでしょうか。

しかし、この本は登場人物の独特のキャラクターと行動原理など
引き込まれる要素や語り口の妙など魅力があるのですが、ちゃんと
最初から構想されて組み立てられ練られて書かれたというより、
勢いのままに書かれた印象があり、最初ステバン先生の秘書的な
私という人物が話し手として物語が展開していますが、突如それ
が不鮮明になり、物語が滞ったと思えば新登場人物が突如現れ
新たな展開が膨らみ、誰が語っているのか、ステバンの後見的な
秘書もレポ的な語りから突如解説的な引いて俯瞰的な語りになった
りして読みづらいのです。

これは、聖書などでもおなじみの福音書の語りに似ています。

聖書書記者が語っていたと思えば突如違う人の主観が入ったり
とこれも狙ったことなのか聖書を意識したことなのか謎です。

この小説の元となったネチャーエフ事件という革命前夜の
事件もこの小説の五人組も阿Q正伝と同じで、当時名もない
人で似たようなものはいくらもあったと予測されます。

謎の地下組織に属し、本部からの指示に従い革命を模索し
檄文を撒いたり、集会に参加し革命に加担していると夢想する
現代に生きている雰囲気を求める若者は沢山いたことでしょう。

しかし、実際に組織された革命組織はなく革命を夢想する
だけだったというのは現実にも当時の若者風俗のようにあり
ふれたことだったのではないでしょうか。

それを防ぐ既存の貴族社会や地域社会や行政組織のトップの
人物像など痛切な当時の社会批判であり、古き良きものを
よしとすることのない作家の目も感じます。

私は江川卓氏の翻訳を読んだのですが、これがとても感じの
悪いもので、うんざりして本を投げ出したことが何度かあり
ました。

本当にリアルにというような適当な訳が噴出し、明治風の
美文調の訳が読みたいとは言いませんが妙に現代風に訳し
過ぎた感はあります。

その上、この小説ははっきり言ってやはり読みづらく、
登場人物もいきなり違う名前になっていたり、誰が誰なのか
よく解らなくなるようなところと、観念的な登場をするのは
何か演劇というか舞台登場の人物のような扱いなのです。

フュージカという登場人物は現物が出るのは一回なのですが、
この登場の仕方が演劇的であり、日本の落語や歌舞伎などの
中世劇にでてくる悪人とか悪の象徴と通じるものがあります。

聖書的な悪、悪魔のようで、これも聖書的な書き方を意識して
の登場なのか、本の主題の豚に入って死んでしまう悪霊とは
違うものとしてあえて対比的に出てくるのか非常に特長的です。

時に恋愛小説のようであり、文化芸術礼賛のようでいて、思想
は人を時に殺してしまうというロシアの正義と神についての推測
であり、饒舌な作家の手により登場事物が語って見せる世界は
実に多角的な時代予測であり、簡単にキリスト教的信仰にあれば
よしとするものではないように感じます。

こんな諸々を考え時間を過ごしあまりの暑さも忘れさせてくれた
この小説と過ごした時間に感謝します。
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『ル・ガルー2』読了

2012年05月23日 10時00分57秒 | 読書



『ル・ガルー2』読了しました。

この前作の『ル・ガルー』を読んだのはかなり昔です。

新聞に広告も載らず、店頭で見かけたので買ってみました。

人気作家の最新作の割には売り出しにあまりお金をかけて
いない感じです。

といっても、私自身前作の記憶もたいしてなく、あまり
いい印象もない感じでした。

ただ、丁度本に飢えていた時期で本屋に寄ったので、ついでに
買ったというのが真相です。

しかし、この本は私とって大きな収穫です。

それを説明するには、まず先日みたNHKの旅の力という
テレビ番組の話をしなくてはなりません。

要潤という俳優だかタレントがレポーターで旅で出会った
人々と暮らしをレポートするというドキュメントものです。

この番組の印象は、レポーターが今も原始さながらの生活を
するブッシュマンと一緒に狩りを体験するというナミビアの
話なのですが、その要潤が端正な顔立ちとは裏腹にそのブッシュマン
の文化とか生活を完全に見下して、いやなものを見ているという感じが
表情に出ていて大変後味の悪いものしか残しませんでした。

そして、この本を読んだときにすべての謎が解けるように
要潤が見下していた彼らの生活にすべてがあることが理解
されました。

ナミビアのブッシュマンは自分の正確な年齢も知りません。

そもそも暦とか明日狩りで獲物が取れなかったらどうしようとか
いつがお祭りでそのお供えに何かを用意しなくてはならないとか
そういった予定というものがないのです。

そういう生活の根本には何も触れず、原始生活を今後も続けたいと
いう彼らの伝統を守る精神を紹介したという内容にとどまって
いますが、これは実に重要なことを我々に教えていることを
その時には気が付きませんでした。

ただ、現代的生活から飛行機でやってきてひと時を一緒に
過ごして彼らの生活の素晴らしさを体験したにもかかわらず、
現代文明に生きるイケメンの俳優とその表情が原始生活の
彼らのスタイルに文明的優越感を持つことを印象付けただけ
というのは番組の意図として成功しているのかどうかより
差別意識に嫌悪感だけは強く持ちました。

ところがその差別意識が何に去来したのか。果たして、
文明に差があるのかとか諸々の謎がこの本の言葉で氷解した
のでした。

それは明日を持たないものに過去もないという言葉です。

この京極という作家は、いつも古い過去に題材を求め戦前の
昭和や大正の時代の古い探偵小説を得意として京極堂シリーズ
を展開しています。

この本は、描いているのは未来で活躍するのは少女たちと
いう劇画スタイルの未来小説の形をとっているものの中身は
京極堂シリーズのような旧日本軍が毒ガスを開発していたと
いうようなネタから発展しているのです。

探偵役には退職した刑事と装いは新ノヴェルといいつつ実は
昭和スタイルの話をSF調にやってみたということで彼の本来の
ファンも楽しめるものになっています。

私は、そういう本来のこの小説の持つ魅力以上にこの時を扱う
抜群なセンスに教化され、新たな文明考察をするに至ったのです。

この本に言う明日を持たず過去も持たないとは正にブッシュマン
の生活であり、それが現実に成り立つということです。

ご存知のように人類の進化で現在のホモサピエンスの起源が
アフリカにあり、アフリカのホモサピエンスが世界に拡散した
という歴史はNHKの他の番組でも取り上げられています。

アフリカを旅立った祖先は農業を覚え、暦を必要とし、絵で記録
することも開発し、文字や数字も作り出します。

そして、物々交換から貨幣という将来にわたって交換を担保する
時間を超越しようとする努力もします。

それらの結果世界中に拡散した人類はさらにその数を増やして
繁栄を築いたわけですが、明日の心配もいらない彼らより何を
多く知っているというのでしょう。

彼らの生活が真実であり、神さえ持たず、の長さえいない
彼らの平和な生活に何のケチをつける権利があるのかということ
です。

アマゾンの奥地にいる同じように原始の生活をする部族もいますが、
彼らともブッシュマンは決定的な差があるのです。

それは明日を心配することがないということです。

それを続けて何万年も同じようにサバンナで狩猟生活だけで
暮らせるのです。

年金も生活保護も神も持たず、信仰も祈りもないのです。

明日の心配をした人はその昔、アフリカを旅立ちより獲物が
とれる地を探したのでしょう。

それは増え続ける自分たちの仲間を食わせるための決断かも
しれません。

それとも冒険心か知恵という少し変化した意識を持った新種
の行動か、とにかく楽園を出たものが神を創造し、同じ種で
争い拡散を続け今に至るのです。

その結果、科学の進歩やらあらゆる学問を発明し宇宙の成り立ち
やらエネルギーやらあらゆるものを考え発見してきたとしても、
実際には何も解決もしてないし、争いや貧困を抱えつつ拡散を
続けているのです。

それは始めた以上続けないといけないものであり、今更明日を
無視することも原始生活に戻ることもできないのです。

そしてまた文明など何の意味があるのかと解ってしまっても
それでどうにかできないということが解っただけで要潤の
態度に腹が立つだけです。
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『傍聞き』読了

2012年05月02日 00時10分56秒 | 読書


これは沖縄行きの飛行機待ちの時、読みました。

『傍聞き』

私のきらいな短編集でした。

旅行の合間での読書には最適な短かいもの語りで、
飛行機内、空港の待ち時間、電車内とそれぞれ
読みきってしまい内容もたいしたこともないので、
軽く読み過ごしてしまうことのできる本が必要な
人にはいいかもしれません。

ただ、歯医者の待合室で読むような内容の本でも
なく、登場する人は社会的な公務員の人が主人公で
そのプロの仕事振りをテクニックで彩りちょっと感動
させるという趣向のつもりのようですが、あまりに
技巧臭くて逆に鼻につくし、これを短編でやる技術と
姿勢を讃えるような解説までついてせっかくの短編
集を貶めてると感じました。

ですからもし読むのでしたら、単行本の方をお勧め
します。

もともと謎解きミステリーの本格的な物は短編である
というのが読者の中では昔から語られていましたが、
最近は新人賞の選考も懸賞も短編に限るということも
なく、いきなり長編でデビューするなんてことも珍しい
ことではなくなっているので、短編の良品は貴重な
ことになるのでしょうか。

売文業ということでいえば、需要があるところ供給も
あるはずで、ミステリーの雑誌や週刊誌など掲載の
場はあるのでそれが本にならないのはやはり優れた
書き手がいないだけなのではないかと思います。

短編ミステリーの優れた作品が少なくなった今貴重な
書きてであり作者というのにはやや賛成しかねるも
売れていることは間違いないです。
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『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか 』読了

2012年04月09日 23時52分37秒 | 読書


新聞の広告で知り、読みました。

日本の場合、宗教の話題というのは
よく避けられる話題です。

外国の人と話をするとずばり何教か聞かれ
びっくりします。そして、多くの人が無宗教と
答えるそうです。

外国人の知識としては、日本は仏教国なので
そう聞くと怪訝そうな顔をします。

この本を読んで、その訳とこの先のことを
考えるきっかけが出来ました。

日本人の知識として、仏教は聖徳太子の憲法から
鎌倉時代に念仏宗教が起きたというところまでは
歴史の授業でも習いますが、その後は明治の時代
廃仏毀釈というのがあり、寺が荒廃したものの
檀家制度ができてどこかの寺に先祖代々の墓が
あるという状況であるというのは了解している
のではないでしょうか。

そして、葬式の時にはどこかの坊さんを呼んで
葬式を出すのが一般的ですが、その元となるのが
曹洞宗が元になっているというのもこの本で知り
ました。

鎌倉時代に出来た宗派からさらにどんな変遷と
新興宗教が起きる契機になったのかもつながった
感じがしました。

同じ作者の『日本の10大新宗教』を先に読んで
いたのでつながった感じがしました。

同じようにこの作者の本で葬式はいらないという
本がありますが、この本を読むとどうしてそういう
事になるのか解る気がします。

私も自分の身内の葬式を出したときには普通に
お寺に頼みましたが、そのシステムには疑問を
抱きました。

なぜ戒名が必要なのかとか対価に見合う報酬体系
であるか、など疑問なことだらけでした。

普通なら協定とか協会標準報酬など政府など国の
指導を受けた基準などがありそうなものです。

実際には不透明なサービスと報酬が定められていて、
うやむやな内に疑問なままお金を支払わされます。

払う側に供養だからとか無事に成仏させる為とか
何の真実の裏打ちもないものに金を払わされるのです。

そもそも鎌倉時代に出来た念仏宗教から、庶民に
仏教が普及し出した時に、現代の新宗教の芽はあった
のです。

念仏を唱えるだけで成仏できるとかお題目を唱える
だけで極楽往生できるなどというのは本来の仏教と
同じものなのでしょうか。

しかし、世に多くの新宗教があるのも世の要請なの
でしょう。

そんなものを信じ、現世利益を求めてせっせと貢のです。

普通の古典宗教は神との契約であり、魂の救済がテーマ
です。

つまり死んだ後の話です。

ところが日本だけ、現世での幸せを願って変な宗教に
はまってしまうのです。

それでも葬式だけは別らしく、自分が信じている新宗教
の他にお寺の坊さんを呼んで葬式をするのです。

同じ宗教法人でも死んだ後を世話するのは旧来のお墓の
あるところの仕事と分けているのか、それともカルトに
は墓地まであるところはすくないのか、それらを理解して
使い分けているのか不思議です。

この本を読んだり、新宗教の本を読めばカルトにはまる
こともないでしょう。

学校での授業に宗教に関するものがない以上、自分で
補うしかありません。

カルトを信じる人はニュースも新聞も読まないのでしょうか。

オームもエホパの輸血裁判もしらないのでしょうか。

法律により何を信仰してもいい事になっていますから
それは自由です。

そして、聖地は侵してはならないと刑法にも規定があり、
既成の宗派とは何も関係ない巨大仏像や宗教施設でも
いんちき呼ばわりは出来ないのです。

一度宗教法人の認証を受ければ法の元に保護され税法上も
優遇されます。

そして、その法律で礼拝施設は必須項目となっており、
曹洞宗のような禅宗でもご本尊を置いて礼拝するところを
作らないと法人の認証は受けられません。

人々が宗教に対する情報になかなか接っせられない為
オームのような事件が起きたり、仏教に誤った理解が
され続けたりするんじゃないでしょうか。

宗教が果たしてきた役割や担っているものをもう一度
考えて、それにどう付き合っていったらいいかそれをしる
一歩にこういう本は読むべきです。

何も新宗教にはいっている人だけでなく、自分の葬式を
どのようにしたらいいか気になっている人も、宗派の
違いから読むお経の差まで知りその意味を考えてみると
いいと思います。
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『道化師の蝶』読了

2012年03月21日 09時53分02秒 | 読書


賞なのでむずかしいのを選んでおきましたという感じ。

でも、音楽でもそうだけど現代音楽とクラッシックの違い
で指揮者さえ暗譜では指揮できない現代音楽のように聴く側の
姿勢も問われるそんな形式を進んでいるとかあたらしいと
するのなら小説としての完成もこんな形でいいのかと問われて
いるかの様で安直にはうなずけないのです。

この本と同時に新聞の連載を読み、モーニングの巻末の小説を
読んでいますが、どれもそれぞれにおもしろいと感じます。

新聞小説とか週刊誌の連載などは途中で読者が脱落してしまう
可能性は高いのに、逆に読む者を楽しみにさせ新聞や週刊誌を心
待ちにさせる気持ちをかきたてるそんなのがやはり小説には必要
だと思います。

それが金をとって文章を売る人の必須の力量であり、読ませる
ものがあるという売り手の資格のような物だと思います。

難解でもしりたいという気持ちを主題に触れた喜びをもたらす
ことが必要だと思います。

しかし、この本は自己満足で終始しているので、読んでいる人の
次の刺激がないのです。

自分のうちから反応する物がないのです。

なるほど色々なアイディアや見せるべき技はあると見受け
ますが、それは最終の物に結実していないのではないでしょうか。

作者の破綻と安寧が求める芸術に結実していないそんな印象です。
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『共食い』読了

2012年03月07日 11時22分10秒 | 読書


芥川賞受賞のインタビューで一躍有名人となった著者
ですが、作品とはどんな物かあまたあるレビューや
新聞評等で、もっと完成度のひくい物かと思って
いました。

テーマとかかかれていることはくだらないのですが、
文学としては完成度とか力量が感じられます。

でも全く新しさや精神性とか時代を引っ張っていく
ものは感じません。

つまり日本の今の状況に似ています。

何も文学も時代に迎合しなくてもいいのではと
またしても思いました。

やはり話題性とか売れるところに流れるのでしょうか。

ドストエフスキーが未だに読まれるような普遍なもの
人間的な本質とか求められているのに日本人としては
時代に迎合して行き先を示せない、しっていることは
敢えていわないそんな雰囲気です。
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