King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

まほろ駅前多田便利軒シリーズ読了その2

2015年02月07日 13時12分23秒 | 読書


このまほろ駅前狂騒曲が一番面白く作家の実力と真骨頂を
観た思いです。

ですが気になることは最後のシーンで反社会的勢力も肯定し
今後多田便利軒と付き合いが深まりそうなハングレとの
関係が深くなりそうな予感を抱かせるところなどはどうかな
という感じです。

もともとこの架空の町は容易にあそこだと感じられる書かれ方
をしていて、それをまほろという架空の町として閉じ込めたような
現在からすれば少し過去のことであり、便利屋というありそうな
展開も安易で誰でも可能な自営開業法という手段にもろもろを
込めやすかったという簡単な舞台装置にも思えます。

秩父でも便利屋の広告が過去何度も折り込みに入り、その後
いつのまにか無くなっていたという経過を見ていると職態として
継続性には疑問があり、事業性としての将来も明るくはない
のです。

しかしこんなことがあってほしいと誰もが思ってしまう登場人物の
配置と展開はやはり作家の力でしょう。

そんな人生は簡単ではないよというのを知っている大人が
でもそうなってくれればというのが感じたい人にはおすすめ
ということになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珈琲屋こよみ

2015年01月05日 12時10分12秒 | 読書
『紅雲町珈琲屋こよみ』がNHKでドラマ化され
現在秩父で撮影中という事で、これが製作期間が
今月上旬で放送は今年の春ごろ総合テレビだそうで、
吉永南央『萩を揺らす雨 紅雲町珈琲屋こよみ』
『その日まで 紅雲町珈琲屋こよみ』を読んでみてと
友人に言われて読んだのが『萩を揺らす雨』
『その日まで』『名もなき花の』です。が


実際に読んでみると作者が秩父出身で、秩父の人が
読むと秩父の雰囲気が随所に出ているという話で
したが、そんなこともなく、架空の紅雲町とは
人口20数万人の都市であり、街並みを記述した
文章より、丘の上の観音様とか三つ辻の地蔵など
高崎の辺りを書いていると思われます。

自然の描写や町の歴史などに触れたところも秩父の
街を連想させるものはでてきません。

解説やら書評やらによく登場するミスマーブルですが
そんな推理小説らしい推理やら事件やらは起きない
のでそんなものを期待するととんだ肩透かしをくらい
ます。

もっと軽い読み物としてお草さんのおせっかいな
行動を覗いてみるという感じで読むといいでしょう。

そうはいっても知っている秩父の店で撮影されている
ドラマは気になります。

そして、今秩父を訪れればセットの小蔵屋に入れるの
ですからこれはチャンスです。

秩父のレトロな街並みと猫のいる小道などと一緒にお楽しみ
してみては。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『春の庭』読了

2014年10月09日 16時09分20秒 | 読書



『春の庭』
は文芸春秋9月号で読みました。

夏の自由時間はこの文芸春秋で過ごした感じです。

昨年の夏はドストエフスキーで夏を過ごし、今年のタフな
夏は過酷な暑さとこの本とであっと過ぎてしまったかの
ようです。

いま、またどこかの温泉宿に今月の文芸春秋を持って
旅行に行きたいという欲求があります。

海の見える露天風呂と夕陽が海に落ちるのを見られる宿が
希望です。

この本で芥川賞作を読むのを長年の習慣にしていますが、
最近は時代におもねるような受賞作品の力不足を感じ、
もはや作家も小説も時代に合わないものなのではと思い
あまり読む意味も見いだせない感じでした。

そんなつまらない作品ばかりな中、今回の『春の庭』は
おっと思わせる雰囲気を持っていました。

離婚して一人暮らしの元美容師があても目的もない日常を
送っているその根底の精神がめんどくさいというなんとも
現代と自分に通じるようなこの雰囲気と心情がページを
めくらせました。

と、しかし、突如何の意図なのか語り手の視線が姉に
変わり、そのまま姉なのか太郎なのか解らない語りに
なって尻つぼみのように終わってしまったのです。

つまりなんなんだという読者置いてけ堀のような
不完全な感じが演出なのか狙いなのかこれまた解らない
作品なのです。

結構最初の書き出しが良かっただけに残念です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普通の人はスパニィシュダンサー『言語都市』読了。

2014年05月15日 11時10分18秒 | 読書

言語都市を読み終えました。

SFの役割と存在意義というのは長らく文明批評であった
訳です。

しかし、より深く読書体験としての世界観の拡大と虚構構造
とした場合、現実の科学ではできないことを飛び越えたところで
話が展開することで成り立つことをテーマとしてしまいます。

それが成立するには、これはSFだからという押し付けや空想
科学というジャンル付けが特に必要とするという手助け的な
ものであってはならないと思います。

つまり、文学としてその評価をSFだからと貶めていたりさせ
ないためにも余計な線引きもいらないほどのプロットと不要な説明
をしないものが望まれるのです。

この言語都市は読んだ人が自分なりのアプローチを語ったり
プロットの素晴らしさを言い募りますが、すんなり腑に落ちない部分が
多ければそれは作品の瑕疵であり、文字が現実的な視覚に転嫁
出来ないものが多ければすんなりと読書体験としても楽しくも
ないのです。

例えばファンウイングとギフトウイングとかサンゴのような眼と
いうのはエイリアンとしては映画『第九地区』の昆虫型の外見
で、二人一組というのもまがまがしさが増すだけです。

その上建物が生きていて血を流すとか死んだらじゃあ建物は
崩壊すんだろうかとかそもそも有機物なのか建物はと全然
歯が立たない部分も多いのです。

直喩と暗喩という訳し方も言語と文明とかのかかわりも未消化で
解決を嘘を語るということで世界を救うというのも全く安易な結末で
ちょっと情けないほどの肩透かしです。

時間をかけて読んだ割にがっかりな本でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『楽園のカンヴァス』読了

2014年04月24日 09時35分35秒 | 読書


最近の寝る前の御伴でした。

『楽園のカンヴァス』です。

久々寝る時間を削っても読みたい感じになった本でした。

しかし、美術好きでない人は最初の説明臭い書き出しで挫折して
しまうかもしれません。

演劇や物語として太古から人の取り違えや美術品の争奪やらその真贋
というのは古くからテーマになったり、物語の核になったり、テクニックとして
繰り返し見せられたり聞き及ぶ話となっていました。

この物語の最初の絵の中に入り込んでしまう感覚と体験を持たない人は
この物語自体に違和感を抱くでしょう。

それにある程度の美術品に対する知識と好機の心を試されるかのような
仕掛けになっていると思いました。

まず主人公の勤める職場ですが、日本にエルグレコがある奇跡という
ところで、どこに勤めているのかと解るし、その奇跡というフレーズに
思うところが浮かびます。

まず、300年も400年も前の絵が当時と変わらぬ色彩を保ち当時と同じ
感動を与えているという奇跡と、それが東洋のはずれの日本という島国の
地方都市の美術館にあるという奇跡。

これは本当に奇跡であるとしか言いようがない事実でありながら、考えて
みるとそれは高々千円とちょっとで体験できることであり、日本のそれも
新幹線が止まる駅にある美術館なので行くのもそう難しくないし、日帰り
で帰ってくることも可能なことから、案外手軽な奇跡体験としてだれでも
体験可能なことなのです。

そうなるとこれは奇跡なのか。

そう考えてくると美の体験とは人類の偉大な知の集積であり、情報を
蓄積し発展しえるという奇跡というか人のみがなせる技であり、その
結果なのです。

未だに人の進化を否定する猿から出たものではないとする人もいますが、
それはこういった20万年の人類の歩みを否定することでもあると思い
ます。

そして、それは芸術科学の否定でもあります。人は神によって生かされている
神によって創造され生かされていてそれは終わりがあるという人達は
自らの生とか芸術とそれを愛でる心を理解しないのでしょうか。

人の生は醜い権力争いや勢力争いと欲望の果てにもろくも踏みにじられ破壊され
蹂躙されてきましたが、日本もその結果焼け野原になり多くのものが
破壊され灰になっていても多くの過去の名品や美術品はその来歴とともに
保管され後世に残されているのです。

それも日本国内だけでなく世界に広まって各地にあるというそれだけでも
私には奇跡に思えてしまいます。

同じように何百年前の天才の楽譜が残り、未だに各地で現代の名演奏家に
よりその同じ音楽が今日もどこかで演奏されているという事実も奇跡で
あるし、それを体験するのに嘗ては時の権力者しかなしえなかったことが
今や一般大衆が数千円という出費で展覧会や演奏会という機会で簡単に
体験できるのです。

これこそ人類の英知の発展と言えるでしょう。

ただ、それは先進国の一部でしか起きていないことだとか世界には飢えている
人が未だに何万人もいるとか難民の数を上げるひとがいます。

しかし、ここ百年の間で人間がなしえた事実を見返すだけでやはり発展と
進化は歴然としてあるのです。

さて、そんな思いを描く美術や芸術好きの人でなくても最初の筋立てから
ぐいぐい物語に引き込まれるような突飛なストーリー展開にやはり夢中に
なるのではないでしょうか。

地方の冴えないシングルマザーの女性が突如世界のひのき舞台に引きずり
出されるその原因となった過去の対決とは。

まあそんなところなのですが、そもそも芸術家故にその人生は突飛で
凄惨な人生であるというのはごく当たり前でそういったエピソードは
作品に華を添えるかのようです。

特に日本人としては極貧で不遇というのが特に好きらしいです。

ゴッホのように生前は一枚しか絵が売れなかったとか、突飛な
エピソードやその天才故に世からは理解されず後世その功績と
与えた多大な影響の数々を並べるのが好きなのです。

総合的に考えてみれば、人類が二度の大きな戦争を経る前の
このピカソやルソーが活躍したパリは正に芸術が花開く大変な
変革の時で、壊して見せたピカソは芸術の父であり、その後の
20世紀はさらにそれが進み輝きを増したのかというと目立つ
スター的な人は多々出たものの、その作品が彼ら以上に奇跡と
呼ぶような作品かというとそうとも言えません。

今六本木でアンディウオホールの展覧会をやっていますが、
その代表作といえばキャンベルスープの絵だったりでこれが
取引額で言えばピカソをも超えた芸術家に違いないわけですが、
大量に作られた印刷物だったり、個人向けの写真から起こした
有名人の肖像画など博物館に飾る物なのかという気もします。

過去の何百年も観賞に耐える作品と同等の価値があるとも
思えない印刷物や大量に刷られたポスターにこれからは
普遍性や希少性以外の価値を見出すことになるのでしょうか。

これはこれで興味もあるのですが、21世紀の芸術家はこの
やり尽くされたような後に今後やっていくべきことを見出すのが
大変なのではと思ってしまいます。

それでは今一番取引されていたり現代の美術家の展覧会が
どんなものなのかというと鎧武者がタケコプターで飛んでる
絵だったりします。

そうかと思えば、細密画のような写真以上に本物を写し取ったような絵
だったり、カボチャに水玉のような造形物だったり、利休好みの
楽茶碗であったりとまあ何でもありなのかとも取れてしまうのです。

そこで、ピカソとルソーが交錯するそんな物語にキュレーターが
対決するというお話はあってなさそうなトンデモ話です。

でもとかく高額な金額と真贋問題と盗難などの来歴が取りざた
される美術界では正規のという正しい取引と登録が難しい世界
なので、こういう物語も当然起きてきます。

日本人の精神としては、そういった美術品を正しいところに救って
やりたい、ただしてやりたいという心根があり共感をとりやすいところ
を狙っていると思います。

それより先に感じたのは、この真贋を掛け対決させてまで行く先を
決しようとするコレクターの心も美術界で生きている人のそもそもを
感じます。

また、この物語は古風な舞台立てと手法ながら、美というものを
常に感じ、その中で生き遊ぶ術を知っているからできた構成なのだと
いうことで、対決とそれ経る七つの物語というスタイルは美を知っている
作者だと思わずにはいられませんでした。

対決の結末や登場人物の弱さや書ききれなさはやはりあるものの、
久しぶりに熱中して楽しめた本でした。

最近は本を楽しむということもあまりなかったので楽しい読書時間でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『純喫茶トルンカ』読了

2014年03月28日 09時58分24秒 | 読書

今年に入って本を読む時間もなく、あわただしくしていて
何にもしない時間とか何かのために何々をするということ
のない時間が全くありませんでした。

そして、長年購読していた宅配される新聞でさえやめて
しまい、とにかく活字を読むことがなかったのです。

今月に入り、やっとスキーにも行けて、その時にもしかしたら
時間があり読み物がほしくなるかもと鞄に入れたのがこの
本でした。

別に特に読みたかった本でもなく、うちにあったからで
それもうちのものが新聞の書評から選んだものなので
自分向きかどうかなんてわかりません。

ただ、薄くて文庫本で鞄に入ったから持ってきたというもの
でした。

『純喫茶トルンカ』

読んでみてあまりの内容の無さに愕然として歯医者さんの
待合で読むにしてもあまりに先を読みたい内容でもないことに
がっかりしました。

文体といい内容といいこれは現代の小説なのかと訝り、あまりに
苔むした誰に向けた本なのかと考えてしまいました。

それでホテルの食後にこの本を読み三分の二を読んでいたので、
最後まで読んでおこうとついこの間帳簿整理など諸々を片付けた折
そのやりかけたことややることリストのついでに読み終えました。

そして読んだからと言って何か得た感じもしないし、時代の感覚を
再認識したということも、考えに新たな視点を得たということも
なく、暇つぶしにしてもどうなのかという感じのまま終わりました。

そもそもこの本は昭和という時代とかレトロとか懐かしむものというより
取り残した物、普段の生活から零れ落ちてそのままのものとか
それを振り返りふと手に取ってみたということであり、新しさや
懐古的なものをどうこうするのでなく、普段振り落してしまったことを
再度また手に取っただけなのではと思いました。

そんなものに触れるには今は流行っている谷中とか千駄木とか
根津とか下町や商店街などの路地に持ってきたのでしょう。

多くの人の関心とどこか懐かしいと人を引き寄せ人が集まる地
でありながら、何も特別なこともなく古い町並みと路地と寺があり
人々の普通の生活があるところにもっと人は何かを求めてこの本を
とるのでしょうか。

それとも自分の隠れ家の覚書としてこの本を取るのでしょうか。

夏目漱石が今も繰り返し人々に読まれたり、村上春樹の本が
読まれたりするのとは別の理由でこんな本を必要とする人も
いるのかと思う一冊です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宙ぶらりんな六兵衛

2013年11月14日 12時18分16秒 | 読書
日経新聞に連載されていた『黒書院の六兵衛』



『黒書院の六兵衛』

ですが、これは先の『間宮兄弟』からするとプロの作家のテクニックというのを
感じさせてくれた作品です。

アイデアをこうも膨らませ毎日配達される新聞で次の日はどうなるかと
新聞の来るのを心待ちにさせるテクニックには感心させられました。

しかし、あまりの内容の無さにはたと気づくとそのテクニックにあざとさばかりが
感じられ白々としたものしか残らないという結果になります。

歴史街道 軽井沢の旅 『禁断の恋 乙姫の想い』という番組をbs日テレで先月
見たのですが、これがずっと宙ぶらりんな感じがしていて確か続きがあるはずと
検索するとどうやらあの番組で完結らしいのです。

その番組とは『一路』



『一路』という作品の舞台を
作者と女優が旅して原作の思いとか裏話を披露していくという旅番組だったのですが、安中で
番組が終わってしまい、当然結末の江戸までの分が次の週ぐらいにあるだろうと思って
待っていたのに一向にそういう番組はなく、ネットで調べてもどうやら1話完結らしいと
解っただけで、後は原作を読めということらしいのです。

そもそも番組を見ようと思ったのは、軽井沢という地が紹介されるというのがひとつ
理由としてあります。

そして、浅田氏の別荘も登場し、目的はほぼ達成しましたが、なにかおもしろくない
感じも残ったのです。

物語の結末は私も原作を読んでみたいと思います。

ただ、なぜ軽井沢という漠とした思いが残ります。

軽井沢は草津にも近いし、浅間山や他のスキー場にも近く、避暑以外の基地にも
なります。

秩父にいると軽井沢にも近いし、都内へも近く、程よい距離がどちらにも
あるのに文化度が年々下がっているように思います。

最近できる店が皆石釜を備えたイタリアンの店などという何年か前に都内で
流行ってすぐなくなってしまった店が今頃になってできている様や、長年営業
してきた本屋の閉店や、やたら観光地として紹介されるテレビ番組などどれを
みても到底暮らしたい魅力のある街とは思えません。

なのに鎌倉や軽井沢などは何と田舎なのに文化の香りが香り有名人ゆかりの
ものも多く、ただ物見遊山で訪れるだけでなく、住んでみたいと思わせるものが
あるのはなぜかと考えてしまいます。

秩父関連の有名人やなぜ秩父に住むかを語る有名人や秩父愛を語る人は
たくさんいますが、段々それにそぐわない地に成り下がっているように思えて
ならない秩父。

文化や伝統とか古さばかりに目が行きますが、近い未来にもっと皆が知恵を
集めていかなくてはならないのではないかと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『間宮兄弟』読んでみた

2013年11月14日 10時45分14秒 | 読書
先日、テレビで放映した『間宮兄弟』という映画の
感想をネットでさらった時、原作に触れる人が多く
その相違点と映画について書かれていたのが気になり、
私も本を探して読んでみました。



『間宮兄弟』

映画との相違点を探るのも興味という点と監督の意図と小説の差との
確認があったのですが、それはやらずもがななことと知れました。

どちらにしろ、本を読んでみると映画の視点とその問題点も気付き
ますが、それよりも本の読みづらさと人気作家の文章力というのは
妖怪じみたものだとすら感じてしまいます。

それと今や正社員より非正規労働の人が増えて、作品の世界と
現実の社会現象とギャップや視点のずれが出ているかなあとも感じます。

この本の兄弟のように生きられたらどんなにかいいかと思う人が今や
大半で、持てなくて自分だけの趣味の世界と兄弟だけで日々暮らす
という平和な生活すら今の労働現場では厳しいかもしれません。

しかし、現実の経済社会において意味のないことにお金を費やす人が
多い社会が経済的に安定していて、バブル時には肩身の狭かった
持てないし華やかなことに縁遠い人々も今の時代から見れば随分と
癒しの存在などといわれているという皮肉な状況です。

現実的に兄弟で村上春樹を語り合ったり、週末はヘミングウェイになる
という人がいるのでしょうか。

休日にはわんさか訪れる人気の美術展や京都などの人気の観光スポットに
溢れている老人たちを見るとこれからさらに少子化で一生独身で過ごす人々
が増えてしまったという社会を生み出してしまった現代と人口減と経済の縮小化
に苦しむ社会に憂いを感じずにはいられません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『海賊と呼ばれた男』下巻読了

2013年08月21日 09時36分13秒 | 読書


『海賊と呼ばれた男』読了しました。

今年の夏の読書時間はSF『言語都市』文芸春秋です。

この下巻に入る前にNETでこの本のキャッチをみると電車内で読むときは注意しろという
厚かましいものでした。

泣かしが入るということですが、かつてはこういう伝記ものの書き手として吉村昭とか
城山三郎といった名手がいたのですが、この本に関しては作家的技量に疑問を
抱きます。

会話文の不自然さや語り手の中立的立場や歴史史観において私感を挟まない
などのセオリーが壊れていることなど伝記ものとしての瑕疵があります。

下巻は有名な歴史的事件の日章丸事件が物語のメインになります。

かつては誰もが知る事件ですが今では丁度良くみんな忘れている時期に
日本人の心意気とか矜持とか本来持ち合わせているものを思い出させて
くれたという意味では、この本のヒットは当然なのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『精神分析を受けにきた神の話』読了

2013年07月25日 09時18分58秒 | 読書


『精神分析を受けにきた神の話』を読みました。

日本人には精神分析医というのはあまりなじみがなく、人生の折に触れて
相談される西洋の人達とは違う環境なので物語もあまりピンこないかも
しれません。

しかし、日本でも鬱病やら離婚が増える現代ではこういう心のケアを
受け持つ人たちが必要なのかもしれません。もちろん日本にも精神科医は
いて、ストレス症候群とか鬱に悩む人の相談は受けていますが、やたらと
薬漬けにされたりと治療というのが物理的な処置につながる日本には
心のケアという部分はまだまだ御座なりなんだと思います。

物語は、その精神分析医のところに私は神だと信じる人が患者として
訪れるというものです。

その患者は神らしく超自然的能力を見せて医者を驚かせますが、
医者は心霊能力を持つ精神病者と断定します。

この状況に読者は本当に神か訪れたのかという疑問と神の悩みとその
ケアはどのようになされるのかという興味がわく構造になっています。

私は神だといえば精神病者と断定するのはいいにしても、その超自然
能力については霊能力として認めてしまうところは科学を身上とする
精神医学の面でもOKなのかという疑問も湧きます。

つまり、神は精神異常でも私は霊能力を持つという場合は正常な
現実で霊能力は社会的認知のものなのかという疑問が日本人には
あると思います。

似たようなものに国の成立とか国の根源を記した公的文書というものが
しばしば宗教以前の神由来の昔話や伝承やらということがあります。

日本で言えば古事記であったり日本書紀ですが、その内容は昔我々が
よく聞いた神話なのです。

それが対外的に我々には自分たちの神がいて王がいて統治機構があるから
勝手にさせてくれということだったのです。

現代から見れば何とも幼稚な発想だとか非科学的と鼻じらんでみる
ことも見る向きも多いと思います。

しかし、これは普通に今でも信じられていることであり、普通に今でも
同じように神をまつり、各地でお祭りを行っています。

靖国神社に政治家がお詣りしただけで抗議する韓国や中国もその多くの
神仏や神由来の天皇とか精神性には触れてきません。

鎌倉時代元寇で傷ついた多くの御霊を弔うために円覚寺が建てられた
ことなど知らないことでしょう。つまり日本人には敵も味方もなく死者に対する
礼節の心と安らぐための儀礼があったのです。

科学万能時代とはいえ人の心の部分には科学では説明できない部分が
かかわっていると皆信じているわけです。

それはそもそも人間の力ではどうにもならないことについて救いを求めたり、
農業という生命線を握る天候や災害の安寧を願う心から発明されたシステム
なのだと思っていましたが、6万年前にアフリカを旅立った祖先が集団で
都市を築いた時から神というシステムを必要にしたのではと考えます。

この本では、目の前に現れた患者が神なのかという興味もありますが、
神の進化とか神でもどうにもならないという神の悩みなどを考えたときに
初めてこの本の真価が現れるのだと思います。

一つ引っかかるのが心霊能力は科学者から見ても正常に起きる現象なのか
ということですが、それらのこともすべてどう集結して集約し解決される
ような物語となっていますが、それはどう読むか読者の問題でもある
のです。

ここでこの本の構造体と本質をすべて明かしてしまうわけにはいきませんが、
ベトナムで500万人近くを殺し、日本に二発の原爆を落とし、イランやイラクで
宗教が政治にかかわることへの介入などなど世界の命数を握る国の神への
思いを知るのもいい機会かもしれません。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『海賊と呼ばれた男』上巻読了

2013年07月19日 10時01分12秒 | 読書


『海賊と呼ばれた男』上巻を読みました。

続けて下巻に入るわけですが、その前に気になったことをいくつか書いておこうと思います。

この本も色々なところで騒がれていて買っておいて積んであった本の中から引っ張りだしたもの
ですが、TVで著者本人が政治的な発言をするのを聞いて、その風貌と相まって少し違和感を
感じて読みだすには時間がかかった本です。

そして、この本を読んでいても違和感が募る感じがしました。

こういう伝記的な本ではどうしてもオール与党的な全力で讃えるような風潮はどうしても
仕方ないものとしても何か書き方に偏りを感じたことが一つ。

最初に、油槽の底をさらう仕事が出てきますが、これはこの本を読む前に日経の履歴書で
誰かが書いていたことと同じなのです。

その時の話が浮かんできてしまいもしやこれは創作かとエピソードが一つ一つ鼻に
つくような感じになり、離婚する話と妾の話が出てきたときに一旦読むのを中止し
ようかと思うほどでした。

しかし、幻となった東京オリンピックとか歴史の闇に埋もれた事実を知り
どう考えても不利で無理な戦いを日本が始めてしまったのかとか軍の
暴走としか思えない事態が官僚も政治家も誰も止められずに戦争を
始めてしまったこととまたそれをやめるという決断も誰も出来ないという
日本のさまは日本人はこの選挙前にようく検証すべきだと思いました。

かといって、日本が列強が植民地化する東南アジアの国々を開放した
とも武力による侵略ではないと正当化するのはどうかと思うし、そんな
非常時でも硬直化した官僚機構や利権機構を築こうとする中枢の人達の
いたことが現在につながっているのではと思ってしまいます。

そうして、この本のクライマックスであるシンガポールの原油供給を
任せられるか利権構造の官僚機構に絡め取られてしまうのかといった
物語構造も物語の語り手として中立的な語りが重要なところが、
正義としておく所の立ち位置が少し怪しい感じしてしまい物語として
疑問に感じたり怪しみを持ってしまうことになってしまいます。

それでも根拠なく神の国だとか神由来の天皇をいただくとか神秘性や
精神性だけに頼っていつまでも戦争を続けてしまった戦略の無さや
あまりに多くのことが置き去りにされているのを考える機会を得るためにも
読むべきかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンミンゼミを聞きながら

2013年07月15日 23時59分58秒 | 読書
毎日暑い日が続いていますが、夜は眠れず、昼寝する間もなく
なんて日が続き、待ち時間やちょっとした時間に手にする本は
近所にある積んであった本などになります。

こんな時一番に読み進めたいと思っているのは



SFの『言語都市』です。

これは日経の書評を読んで注文しました。

ここのところ宇宙の実在とかギリシャ時代からの魂の投影としての
実在とかを考えていたところ、言語もそんな意思疎通手段としての
多層的に見通した時にはどんな言葉の魂の投影があるかと思い
至り、そんなテーマの小説も読んでみたいと思ったところに見かけた
書評がとても興味深いものだったからです。

しかし、本書はSF読みの人でもなかなかなじみにくいもので、
簡単にはこの本の世界に浸り、楽しむことは難しいでしょう。

夏の午後の昼寝前にはとてもいい本です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『色彩を持たない田崎…』を読んでみた

2013年06月20日 13時40分07秒 | 読書


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 』を読了。

ゴールデンウィーク中の日経の文化欄でこの小説が取り上げられていてそれが
とてもよく内容的にできていたのでとても興味を持ってみました。
それと、テレビのワイドショーでカフェでこの本を読む人が取り上げられていたり、
この本を読んだとバイト先で話題に出しただけで扱いが変わったとか世間の関心の
高さをうかがい知ることができ、小説と世間というのはこんなに隔絶した社会構造なのかと
思ったものでした。

さて、これの本は例によって積んであった本の中から無造作にすぐ読めそうだから
選ばれたものですが、いつものブックカバーとは違い、珍しい名前のカバーがかかって
います。

私の記憶によれば、秩父の本屋さんでは一時平積みになって特設コーナーができ
それがすぐ売り切れになり、直ぐは入ってこなくてネットでも予約状況になっていた
のです。

それが、旅先で見かけたから買っておいたというものです。

ことさら売れた本ということや世間の反響のせいで期待も高まるのですが、結果から
いうと何とも落胆が強く、これはこんなので小説としては合格点なのかと疑問が
湧くのです。

というのも、前半の山場である、死のトークンの話は実に興味深く深遠なところに
話が向かうのかという期待と私の実体験も重なる部分があり、作家の力量と才能の
動くさまが実感できたのですが、それもそのままで結局、その話をした年下の友人も
行方不明でジャズピアニストもいたのかどうかというあやふやな回収されず物語は
配置はしたけど回収せずの結末で、これでどうしろというのかという気持ちの悪い状況で
終わってしまいます。

今朝思ったのは、私の良く見る夢の方がはるかにリアルで怖くてもう一度寝るのが
いやになるくらいで、実に複雑でいてそれが実は人生とか世の中の仕組みそのもので
それを語ってはいけないようなばらしたそばからそこにとらわれてしまうような奥まで
知ったがためにもうそこから抜け出せない世界があるというばらしたら終わりの物語を
結局自分は語る資格も能力もまだ十分でないと感じつつ、でも他の作家に世間が
認めているような人気につながるほどの実力があるのかとまったく疑問に思い、
その筆頭であり、張本人がこの村上春樹なのだと思います。

確かに、語られるのは巡礼の旅であり、本人が書きたかったというのは共同体を
追い出される物語であり、なぜとか巡礼そのものやその構造は全然バックにすら
ならないのです。

ただ、そんな物語が書きたいがそもそも小説の出発点で、そして書いただけです。

意味もなく、深くもありません。

かつて、ノルウェイの森や海辺のカフカで書中の主題に絡む登場する音楽は何度も
聞きこんでその物語を音楽の側から投影してみようと聞いてみましたが、今回は
やりませんでした。

それは日経文化欄に書かれたコラムを読んで結局それは道具立てだけで、物語を
深く意味づけるほど作家が音楽に精通してストーリーに絡む意味も音楽的雰囲気も
感じて曲を登場させているのではないと解ってしまい今回のリストの巡礼の年も
買ってみませんし、改めて聞いてみることもありませんでした。

ただ、今回の場合、巡礼の年は何度か耳にしたことのある曲で、この曲に触発されて
作られた映画や映像関連の話は事欠かなくて、この曲からある映画がずっと思い
出されてくるものがありました。

それは、フランスの資産家が亡くなり、相続人が遺産を相続するにはスペインに
巡礼の旅をしなくてはならないというものでした。

日本の札所巡りのようにヨーロッパにもキリスト教の聖地を歩くコースとそれを支える
仕組みが今でもあり、それをドキュメントにしたテレビなども何度か紹介されています。

ときにクラッシックの名曲とその巡礼道が紹介されるビデオなどもよく目にすることが
あります。

それらに映画や番組でのテーマは現代社会とは違う歩いて巡るヨーロッパの古い町と
その風物だけでなく、歩くことにより発見されるさまざまな現代社会の矛盾や体験的
文化紹介です。

小説には何の昇華される体験も魂の救いも結末もありません。

このほおっておかれて投げ出された感じにに浸りたい方には打って付けですが、
世の中これだけの対価を払えばそれに見合った体験なり感動なりを受けらるのが
資本主義社会では当たり前とされているのに、世の中の人があれだけ騒いだのに
実際には何の心の糧も得られずというのは逆に珍しいのではないでしょうか。

この間『冷血』などは直後にNHKの番組に作家本人が事件の現場に取材する姿を
みて、作品にするためにこれだけの努力と行動があるのかとちょっと感心するような
合田刑事の目線と合田刑事の心の動きとはこうして作られているという作家の良心を
見るかのようなことがありましたが、一方の村上氏といえば次のノーベル賞候補と
いわれ、京都の大学で講演しただけでそれがニュースに流れ、何を語ったのかが
探られて情報番組で特集されるというちょっと動くと世間も動くような扱いに、増々
それほどのことという白けた思いが増してしまいます。

作品の中に音楽が度々使われるというのもひところ羊がよく出てきたのも、ひょっと
して漱石へのオマージュなのか、今行われている展覧会の夏目漱石の美術世界に
みるように音楽を登場させて場を盛り上げたり謎めかせたりさせているのは漱石の絵
に対して自分は音楽なのかと思ってしまいます。

人々はこれらの行動に小説の小道具として使うという見方をしますが、芸術世界として
それは一部であると作家特に漱石は感じて絵に触発されて物語を作ったような感じが
します。

しかし、村上さんの場合は、自分の今の人気からすればこんな誰も聞かないような
クラッシックの音楽も取り上げれば社会現象になるとばかりに無理無理な感じで
主人公が大昔の貴族のために書かせた曲を繰り返し聞くという芸術世界とは無縁の
沙汰を演じているように思えてなりません。

それは高村作品でも作家自身が好きでブラームスの交響曲がでてきたり、合田の趣味
がバイオンだったりそれは作家の体験であり、思考経路に沿ってでてくるものだと
思われます。

芸術を語るときに同時に織り込まれた自身の芸術感性が反応して音楽にも触れずには
いられないのです。

それに比べると村上作品の音楽の使われ方が実に軽くて芸術感性的に必要もないのに
やたらと道具立てしないと物語が成り立たないという小手先のテクニックに過ぎない
ような違和感を最近は先に感じてしまいます。

ただ、この本の死のトークンにはビックリとさせられました。

多指症については『螺旋』でも出てきましたし、歴史をよく知る人には初見でもなく
ピアニストと絡んでこれも最後回収されるネタとして配置されたのだと思ったら
使い捨てだったのです。

身近に起きたこととしては、猫とかカエルも多指症がよく話題になるのですが、
当店の看板猫は少指猫で左の前足の指が二本なく、最近は朝確認する度に
いろいろな傷が増えています。

この猫も不思議な猫で、今まではおとなしくあまり家にいない猫だったのが、
つっつくん亡き後は看板猫となり、少指猫となってからもずっと外でお客を待ち続け
呼び込みのために人を見かけると鳴きかけるという任務を忠実にこなしている
のですが、困難な猫生もあるらしく、日に日に毛の抜けるような生傷が増えています。

ほうらこう書くとなぜ看板猫に傷ができるのか知りたくなるでしょう。

なぜ看板猫の指が二本足りないのかも。

最近小説はそういう配置があっても自分だけが発見した人生の秘密や教訓を
やっぱり書くのが惜しくなって書かなかったり、書いているうちに書くほどのこともなく
放置してしまう出来の悪さが目立ちます。

やはりそれは作家の力量とか安易に放置プレーを許す読者の責任かもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『冷血』読了

2013年06月12日 11時27分31秒 | 読書


『冷血』読み終わりました。

アマゾンについてる書評はひどいものばかりで、評判は悪いようです。

秩父では各書店で平積みにして手書きポップもあって応援しているような
ところもありますが、厳密には東秩父で秩父ではありません。

スタイルとして被害者の子供の視点と犯人と刑事とカメラ視点が移り、
時間軸もそれにつれて展開しているのですが、この主観の切り替えは
どんな効果があるのか特に後半にはずっと刑事目線で何の盛り上がりも
なく結論が最初からあるようなことをずっと語られるところに書評でも
よく見かける酷評につながっている読みづらさがあるようです。

その書評も文体の読みづらさにとかここまできてしまったかという
病の評を寄せるような書き方にそこまで書くならせめてすべて読んでからに
してくれと思いました。

せめて後半の冷血という言葉が語られるところまでは読んでほしいのです。

この本の中で二回出てきますが、ファンとしては大震災を経験し、芸術と
宗教について見事な考察を見せた『太陽を曳く馬』で作家が今度は何を語るのか
大変興味があったのです。

そして、マークスの山以来お馴染みの合田刑事の登場でどんなドラマが
展開されるのか、そうでなくても待ちに待った本です。

被害者目線と加害者目線があったのは失われてしまったものに対する効果が出るように
配置されていて、いくら社会システムとしての刑事が事件を立件して裁判に送ろうとも何も
解決にも終結にもならないもどかしい感じと人間の冷血が際立つ形になっているようです。

しかし、人間は動物でも何の解決もできなくても社会というシステムを持ち一番地球上で繁栄
していて、この答えの出ないことを考えることができるのです。

答えがなくてもそれを問うことと答えを探すことができるというのは宗教や芸術以上に
運命づけられた知恵を持った人類の能力を考えさせます。

この小説を読んで我々も明確な動機も発見できずに簡単に幸福が壊されてしまう
冷血と、それを悪として死刑と処す社会システムと両方とも人間の生み出したこと
なのです。

それが何とかできないかを考え続けるのが人間であり、冷血とは反対の側に
ある物ではないでしょうか。

つまり冷血を感じるのでなくどう克服するかまで思い至ってのこの小説の醍醐味です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中心のブレ

2013年04月18日 10時18分10秒 | 読書
『復活』は多分作家自身の贖罪のために書かれたのだろうと思います。

貴族地主階級の者の持つ者と持たざる者のこの物語は現在の格差社会を表している
とも言われますが、日本に限ってはキリスト教的教義も他人への喜捨や持たざる喜び
というのが希薄で施すとか寄付するというのが得意ではないようです。



先の大震災では多くの人が募金やボランティアをしてそんなことはないと思う方も
いると思いますが、この小説を読めば宗教的な考えのない日本人の考え方と
隣人愛が教義のキリスト教と出発点が異なることが意識されます。

この本のテーマである、自分の罪を認めて愛に目覚めてキリスト教的に生きることに
喜びを見出すというのも、所詮自分の罪を告白し、その罪から逃れたいという自分
本位な考えにより出発するものであり、カチューシャを助けるための行動やその女の
移り変わりなど体験する政治犯とのかかわりや当時のロシア社会など伝わるものは
あるものの、結局、福音の言葉に救われるという辺りに当時の世界観としての限界を
見るのです。

先日、地元音楽家のリサイタルで彼が語ったのは、科学的発展により社会から芸術まで
その視点が広がり、絵画や音楽まで変化したという説を説明してくれました。

概観すればそれはその通りなのでしょうが、こと美術史や絵画上の視点というのは
そんな簡単なことかなあという疑問をその時には思いました。

それは投影画法のように立体を奥行あるように平面上において表現する場合の変化と
世の中の中心が神から人間になり個人になり、ものの見方が相対的な史観にまで
広がり、変化したというのはやはり彼がピアニストでの見方なのだと思います。


『ピアニスト』の中の論争のように西洋文化の中で
成り立つ史観ではないかと思うのです。

日本のように八百万の神がいて物にも自然物にも神がいるとする文化で人そのものも
神であり、それを戦後否定され新たな神を必要にする人により色々なものが信じられている
現状に気持ち良くすんなりとはなじまないのです。

それに神がすべてキリスト教の前にひれ伏すと感じで展開されていることについて、神は
幸福の地から抜け出した人々により作り出されたことを知るべきだと思います。

今でも神とか宗教を持たない民族もいるのです。

今でも採取狩猟生活を送る人はより神やまじないなどを信じているという考えは
誤りです。

権力や支配を必要とした人々のみが神を必要とし、宗教でそれを広めたのです。

それでも、科学技術の発展で社会そのものが変わるということは今後も続くでしょう。

つい先日、宇宙の年齢が訂正される事件がありました。

今世紀に入り、宇宙が加速して膨張していることが解りました。

ダークマターやダークエネルギーの解明がより進み、宇宙の成り立ちや物理法則に
進展も期待されます。

そして、新たな視点が加わることもあるでしょうが、それはただ物の中心がぶれているだけ
のようにも感じられるのです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする