蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

難波宮と孝徳天皇  (bon)

2011-05-04 | 歴史の真実



 都、難波宮のあり場所は、高津宮より北に1kmほど行ったところ、大阪城のすぐ南、現在の法円坂町にある。

難波宮址(大阪府大阪市中央区法円坂1)
(ネットから)

 孝徳天皇(654年没)の後、都は大和に遷ったが、難波宮はそのまま残されていた。次の斉明女帝(第37代)、天智天皇(38代)、天武、持統を経て都は大和平野の藤原宮へと移りその後、文武、元明と来て710年に平城へ遷都される。その後、聖武天皇に入って一時的に難波宮に移されたが、784年長岡京へと遷都が続くのである。昨年、平城遷都1300年のお祭りがあり奈良は賑わった。

 孝徳天皇が大和を避けて難波宮を設置した理由は、先の仁徳と同じでやはり大和の豪族から逃避する手段として選ばれたという。このくだりは、歴史の中でも面白いところでもありますので、釈迦に説法でしょうが、少し復習してみたいと思います。

 用明(31)、崇峻(32)、推古(33女帝)の3天皇は、大臣の蘇我馬子の妹二人と欽明天皇との間に生まれた。そのため、馬子は皇室の外戚として大きな実権を持っていた。しかし、馬子が死亡し、推古女帝の崩御のあと、馬子の後を継いだ蘇我蝦夷は、蘇我氏の独断政治に対する世間の非難を恐れて、蘇我氏直系を避けて田村皇子(舒明天皇)を即位させた。が、13年の在位で亡くなったので、その皇后を即位させた。これが皇極女帝であるが、この二人の間に生まれたのが、後に蘇我氏を滅ぼす立役者となった中大兄皇子(天智)、その弟が壬申の乱を起こした大海人皇子(天武)である。
 蝦夷が病に伏したため、ひそかに入鹿(蘇我入鹿)を大臣にしたことで、この蘇我父子の傲慢に皇族方からの強い反発が起こったが、入鹿は逆に蘇我氏の血を受けた者を天皇に据えようと考え、もともと王位継承の期待があった山背大兄王と異母兄である古人皇子の該当者2人を選んだ。山背大兄王は、これに怒りを表したため、入鹿は、より自由になる古人皇子を立てることから、山背大兄王を襲い自害させた。

 この事件を察知して、第一の王位継承権を持つ中大兄皇子は身の危険を強く感じていた時、ひそかに近づいて秘策を進言したのが中臣鎌子(鎌足)である。
鎌子の策とは、この危険を避けるため蘇我一門の娘を妃として迎え、蘇我氏に好意を示し、婚姻のよしみで蘇我陣営に入り入鹿を油断させることであった。・・・かくして、皇極4年(645年)6月に行われた祭典で、中大兄皇子、中臣鎌子らが中心となり入鹿暗殺を謀った。翌日蝦夷も死に、かくて蘇我氏は滅亡した。
 多くの豪族は、この事件に好感を持ち中大兄皇子をたたえ、皇極女帝はわが子中大兄皇子に皇位を譲ろうとした。皇子は既に32歳であり皇位を継承して何ら問題はなかったが、先の事件の中心的役割を果たした人物は、鎌子であることは世間に知られており、古豪達からの妬みが鎌子に向けられてことを知り、そこで皇位を叔父の軽皇子に譲るという謙譲の美徳を持って鎌子の政治的野心をかわした。策謀家、鎌子ここにあり。
 しかも、軽皇子(孝徳天皇36)を推挙した理由には、以前から皇子妃から目をかけてもらっていたことから、大した氏族の出でない鎌子にとってなお好都合であった。軽皇子を即位しても自分に有利であり、中大兄皇子の即位を一回見送らせることで世間に自己の野心を見抜かれる心配もなくなる。その間に、鎌子は実権を掌握しようとした。
 こうして孝徳天皇が実現し、中大兄皇子は皇太子となった。豪族たちを大臣に取り立て、中臣鎌子自身も内臣となった。しかし、蘇我氏残党や他の大和の豪族から新政権に敵意を抱くものが多くいた。策士、中臣鎌子は、その12月に都を難波に遷すよう進言した。そして、大和の諸豪族から逃避して、新都で斬新な政治を試みたいと思う鎌子の発案であった。
 日本書紀には、鎌子は藤原一門の英雄として表現されている。

数年前のお正月に、孫たちと歴史かるたをし、読み手が孫になったとき、たまたま「・・大化の改新、中臣のかまたり(鎌足)」のところを、「中臣の かたまり」と読んだことが大笑いとなり、いまでも我が家の語り草になっている。


コメント (3)
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