この続く2つの日は、忘れられない日ですね。
明後日11日は、忘れもしないあの東日本大震災です。
明日、3月10日は、1945年(昭和20年)東京大空襲の日です。
小生の様な関西人には当時子供でしたし、あまり大きな印象は残っておりませんが、
東京深川、本所などの下町を一瞬にして8万4千人を呑みこんだ大空襲だったのです。
この空襲は5月頃まで数度にわたって行われ、計10万人を超える死者を出した大規模なものだったのです。
例によってウイキペディアによれば、
「東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設で、
1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、
1948年(昭和23年)より「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、
東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。」
東京都慰霊堂
(ウイキペディアより)
「1945年3月10日に日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。
325機の出撃機のうち279機が第一目標である東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に深川地区へ
初弾が投下されたのを皮切りに、城東地区にも爆撃が開始された。
0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。
一部では爆撃と並行して機銃掃射も行われた。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、
秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、さながら火山の大噴火を彷彿とさせた。
午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は
消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。」
先日、スカイツリーから浅草あたりの散策では、近くを通っていたのでした。また、
以前ランチの会で、横網町公園を通ったときにこの記念堂にお参りしたのでした。
明後日11日は、まだ真新しい記憶にあります。
14:46 巨大地震と巨大津波、そして福島原発の爆発・・あまりにも巨大且つ広範囲なその被害は、
2年経った今でも鋭い爪痕を残したままです。
「2013年(平成25年)2月27日時点で、震災による死者・行方不明者は18,574人、建築物の全壊・半壊は合わせて39万7,976戸、ピーク時の避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上に上っている。」とある。
現在(3/8)の避難者も31万人に上るとみられている。
4万7000人を超える人達が被災3県から移住した。
気仙沼で・・2013.3.8
(ネット 47NEWSより)
「宮城は瓦礫発生量1103万トンのうち51%、岩手は366万トンの39%、福島は160万トンの31%を処理した。
震災がれきも、いよいよアメリカ西海岸漂着の時期に入り、実際に流れ着く瓦礫が150万トンを超えると
予想されている。
福島原発1~3号機原子炉建屋からの放射線放出量は事故時の約8000万分の1になっているが、
1~3号機は放射線量が高く、作業員が近づけない状態が続いている。
増え続ける汚染水の処理が課題となっており、貯蔵量は現時点で26万トン。飽和量の約32万トンに迫っている状態」
ほとんどの被災者が生活再建のめどがたたず、今も仮設住宅での生活を余儀なくされている。
岩手、宮城、福島3県の仮設住宅に住む被災者は未だ計約11万人に上るという。
インフラ、職、生活基盤が出来ないため、被災地に帰りたくても帰れない。
また、福島では放射線の影響から戻ることができない。 線量が少なく居住可能地域でも、
子供にとって有害であればやはり戻る決心がつかない。
ローンを抱えて、慣れない土地で仮住まい・・あぁ、未だ見通しの立たない不安な状態のまま暮らす人々が大勢いるのだ。
あれから2年という歳月が過ぎたが、それは復興にはあまりにも短い時間だというのだ。
これほど科学が進歩している今日でも、自然の前では非力そのものである。
科学の進歩なんて、ホンの一面にしか過ぎない・・。
明後日11日は、忘れもしないあの東日本大震災です。
明日、3月10日は、1945年(昭和20年)東京大空襲の日です。
小生の様な関西人には当時子供でしたし、あまり大きな印象は残っておりませんが、
東京深川、本所などの下町を一瞬にして8万4千人を呑みこんだ大空襲だったのです。
この空襲は5月頃まで数度にわたって行われ、計10万人を超える死者を出した大規模なものだったのです。
例によってウイキペディアによれば、
「東京都慰霊堂(とうきょうと いれいどう)は東京都墨田区横網の横網町公園内にある慰霊施設で、
1930年(昭和5年)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、
1948年(昭和23年)より「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、
東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、1951年(昭和26年)に現在の姿となった。」
東京都慰霊堂
(ウイキペディアより)
「1945年3月10日に日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。
325機の出撃機のうち279機が第一目標である東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に深川地区へ
初弾が投下されたのを皮切りに、城東地区にも爆撃が開始された。
0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。
一部では爆撃と並行して機銃掃射も行われた。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、
秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、さながら火山の大噴火を彷彿とさせた。
午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は
消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。」
先日、スカイツリーから浅草あたりの散策では、近くを通っていたのでした。また、
以前ランチの会で、横網町公園を通ったときにこの記念堂にお参りしたのでした。
明後日11日は、まだ真新しい記憶にあります。
14:46 巨大地震と巨大津波、そして福島原発の爆発・・あまりにも巨大且つ広範囲なその被害は、
2年経った今でも鋭い爪痕を残したままです。
「2013年(平成25年)2月27日時点で、震災による死者・行方不明者は18,574人、建築物の全壊・半壊は合わせて39万7,976戸、ピーク時の避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上に上っている。」とある。
現在(3/8)の避難者も31万人に上るとみられている。
4万7000人を超える人達が被災3県から移住した。
気仙沼で・・2013.3.8
(ネット 47NEWSより)
「宮城は瓦礫発生量1103万トンのうち51%、岩手は366万トンの39%、福島は160万トンの31%を処理した。
震災がれきも、いよいよアメリカ西海岸漂着の時期に入り、実際に流れ着く瓦礫が150万トンを超えると
予想されている。
福島原発1~3号機原子炉建屋からの放射線放出量は事故時の約8000万分の1になっているが、
1~3号機は放射線量が高く、作業員が近づけない状態が続いている。
増え続ける汚染水の処理が課題となっており、貯蔵量は現時点で26万トン。飽和量の約32万トンに迫っている状態」
ほとんどの被災者が生活再建のめどがたたず、今も仮設住宅での生活を余儀なくされている。
岩手、宮城、福島3県の仮設住宅に住む被災者は未だ計約11万人に上るという。
インフラ、職、生活基盤が出来ないため、被災地に帰りたくても帰れない。
また、福島では放射線の影響から戻ることができない。 線量が少なく居住可能地域でも、
子供にとって有害であればやはり戻る決心がつかない。
ローンを抱えて、慣れない土地で仮住まい・・あぁ、未だ見通しの立たない不安な状態のまま暮らす人々が大勢いるのだ。
あれから2年という歳月が過ぎたが、それは復興にはあまりにも短い時間だというのだ。
これほど科学が進歩している今日でも、自然の前では非力そのものである。
科学の進歩なんて、ホンの一面にしか過ぎない・・。