風姿花伝 (ふうしかでん) は、世阿弥(室町時代の能役者)が記した能の理論書で、彼の残した21種の伝書のうち
最初の作品である。
父、観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した
芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている、という。 最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論とも言える。
多くの人に読まれ始めたのは20世紀に入った明治42年に吉田東伍が学会に発表してからで、それまでは
一族の「秘伝書」として、その存在すらほとんど知られていなかったそうです。
Kadensho、Flowering Spirit などの題名で外国語訳もされ、日本国外でも評価されている。
(ウイキペディアから抜粋)
昨日の園芸友の会例会でのテーマの一つで、即物的な園芸の話題の中にひととき幽玄の世界における
“花” について思いが巡るのでした。
馬場あき子 “古典を読む” では、「“花”とは、役者および役者の演技演奏が観客の感動を呼び起こした状態をいう。
観客を魅了したとき “花” が咲く。 世阿弥が “道のため、家のため” 書き表した風姿花伝は、能の美・魅力・感動を
“花” にたとえ、その解明を目指した最初の能楽論書である。」 といっています。
“花と、面白きと、珍らしきと、これ三つは同じ心なり。”
花と、面白き感興と、珍しき新鮮感は、三つとも同じことなのである。人々の心に訴える芸術的感動、魅力的な
感銘の根本は言ってみれば簡潔だ。
“散る故によりて、咲く頃あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、先ず花と知るべし。”
花は散る故に、また咲く時期があって、珍らかな感銘を与える。能もひとつの風体に安住しないことを、先ずは
花あることと考えるのが良い。
“ただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、もとの名望ばかりを頼まん事、古きシテの、返す返す誤りなり。”
能の道においては、花が命であるのに、その花が我が身から消滅して行くのも気づかず、もと得た名声ばかりに
頼っていることは、この道に長くあるシテの態度として、かえすがえす誤りである。
とまあ、このような話題にしばし浸っていたのですが、 さらに話題が考古学者 佐原眞氏の “花” と人類にに関する
視点に移り、人はいつ頃から花を愛でるようになったのか? などのおもしろい内容に入りました。
「大昔、花は描かなかった。」 とあります。
縄文時代(12000年~2300年前)には絵はめったに描かず、むしろ粘土で立体的に造形した。女か女神の像。
イノシシや昆虫などの動物、あるいは弓矢と獲物などを表したものがあるが、花はない。
弥生時代(2300年~1700年前)には、土器や銅鐸などにいろんな絵があります。鹿、水鳥、魚、トンボ、狩人、
高床の米蔵などが描かれていますが、花や木はありません。
日本で花を盛んに造形するようになったのは、6世紀の末、仏教文化からだという。
仏教の象徴、ハスの花がその由来のようです。恐らく朝鮮半島の百済からの伝来のようです。
奈良正倉院の宝物にはたくさんの花があるそうです。
つまり、1万年以上の造形の歴史の中で、花を表す歴史はたかだか1300年に過ぎないことになる・・というのです。
しかも本格的な絵画が始まってからも、画家は、風景画や人物画に花を添えることはあっても、花を主題とした絵は
なかなか描き出さない。 ようやく、100年前、ゴッホのヒマワリ、モネの睡蓮あたりから花を主題とした絵が
盛んになりました。 どうしてなのでしょうか?
しかし、6万年前、イラクのシャニダール洞穴で ネアンデルタール人の墓からキクなど数種の草花の花粉の化石が
発見されたという事実もあるそうで、そうなると人は大昔においても花を愛でる心を持っていたとも考えられるのですね。
断片的な記述で、雰囲気までは伝わっていないと思いますが、こんなような話題も混じった楽しい例会でした。
晴れていても、まだまだ風は冷たく寒い午後、日比谷公園の “心字池” は、まだ雪つりが美しいアクセントを作っていました。
日比谷公園心字池(奥は、帝国劇場から大手町方向 2014.2.21)
石垣は、江戸城の外濠あとです。
アニメ映画“三国志”の主題歌(谷村新司)から