蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

利休忌  (bon)

2016-03-27 | 日々雑感、散策、旅行

 千利休は、今から425年前の旧暦2月28日に亡くなりましたが、今日3月27日は表千家で、翌28日には
裏千家でそれぞれ利休像を掲げ、追善茶会が行われているとあります。
茶道に縁のない身には、翁の究めた“わび茶”の奥深さなどは知る由もありませんが、利休翁については、
かって映画化もされたり、歴史の中でも有名です。     

   千利休像
      (ウイキペディア 長谷川等伯画より)
 

 千利休は、1522年、和泉国・堺の商家に生まれ、若年より茶の湯に親しみ、17才で師に仕え、
師とともに茶の湯の改革に取り組んだとあります。 当時、貿易都市堺では、茶の湯が大いに流行し、
堺の有力商人たちは、名物とされる茶器を蒐集したり 新たなスタイルの茶の湯を楽しんだそうです。

 その頃、織田信長は将軍・足利義明を京都から追放し、天下統一に向けて、その勢力が隆盛を迎えつつ
あった時代で、信長は茶の湯の流行に着目し、自身も数寄大名として茶の湯を嗜むとともに、政治の中に
茶の湯を政略的に利用したとも言われ、茶器の蒐集にも力を入れていたそうです。
信長が堺を直轄地とした時、利休は「茶頭」として雇われています。 利休はまた、堺の南宗寺に参禅して
いましたので、その本山である京都大徳寺とも親しく交わっていたそうです。

 本能寺の変(1582年)の後は豊臣秀吉に仕え、秀吉から重い信任を受けていました。 正親町天皇への
禁中献茶に奉仕する際、宮中参内するために「利休」なる居士号を勅賜されたのでした。 また秀吉の
命を受け、黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出、楽茶碗の製作、竹の花入の使用を
はじめるなど、わび茶の完成へと向かっていくのだそうです。
秀吉の聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と
権威を誇り、秀吉の政事にも大きく関わっていたそうです。

 それが、1591年、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、前田利家や、古田織部、
細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したにもかかわらず助命は適わず、京都に呼び戻された利休は、
聚楽屋敷内で切腹を命じられるのです。享年70才。切腹に際して、弟子の大名たちが利休奪還を図る
恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられているそうです。
死後、利休の首は一条戻橋で梟首されたとあります。

 利休は、なぜ突然 秀吉の逆鱗に触れたかについては、いろいろな説があるようですが、ウイキペディアから
2つほど引用しますと、

  ・「大徳寺三門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に
設置し、その下を秀吉に通らせた」[

 ・「秀吉と茶道に対する考え方で対立した」

などがありますが、利休が参禅していた南宋寺は徳川家康と繋がりがある上、秀吉から堺への追放令が
出る直前に、家康一人を茶会に招いていたことが大きく起因しているのではないかと思えるのです。
切腹の際にも、利休奪還を恐れて軍を配置したことからも秀吉が怯える要素があったのではないか。

 秀吉に可愛がられ、茶人としての名声の絶頂を得、天下人の側近として、天下一の茶の湯者として
名を馳せた利休の生涯は、皮肉にもその天下人・秀吉との対立によって幕を閉じることになったのです。
利休の幼名は 田中与四郎(與四郎)、後に、法名を宗易と名乗っています。

 利休の茶道は、三千家として今も続いています。すなわち、表千家・裏千家・武者小路千家です。
茶道の数ある流派の中で、最大流派である三千家は、ウイキペディアによれば、利休の死後、先妻の嫡男
(道安)と 後妻の連れ子(少庵)が後継者となるのですが、直系の道安は早くに断絶となり、傍系の少庵が
この道を受け継ぎ、その子、千宗旦の次男宗守が武者小路千家を三男宗左が表千家、四男宗室が裏千家を
それぞれ独立して流派を継いでいるのですね。 本家の堺千家は断絶しているのです。

 家元制度が確立され、三千家が最大の組織を誇りますが、中でも裏千家が表千家の倍以上の組織を維持して
いるそうです。

 
 人物、逸話についていくつか抜粋しておきます。

  • 現存している利休の甲冑・具足から推定すると身長は180cmほどで、当時としてはかなりの巨躯だったとされる。利休没後100年頃に成立したと推定される『南方録』にも利休が大男であったという記述がある。
  • ある朝、秀吉が利休に茶会に招かれると庭の朝顔が全て切り取られていた。不審に思いながら秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあり、一輪ゆえに際立てられた朝顔の美しさに秀吉は深く感動した。
  • 秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。不思議に思った周囲が尋ねると「少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えたという。
  • 切腹を命じにきた秀吉の使者に対しても動じず「お茶の支度が出来ております」と述べた。

 


ポップスにこんなのがありました・・

 


茶音頭(地唄)

 

 

 

 

 

 

 

 

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