今日、3月5日は、二十四節気の「啓蟄」で、いよいよ春の入り口になりました。
昨夜の “なでしこ”、“世界卓球女子” はともにハラハラしどうしでした。
突然、この記事アップとなったいきさつ(というほどのこともありませんが)は、先日、メールで椿(ツバキ)の
やり取りをしていた人が、突然 膝をケガして、ギブスのお世話になる羽目になられた。折しも、椿が満開で、
それこそ不自由な脚で毎日落花の椿の掃除が大変だと・・。どこに災難が潜んでいるか、知る由もありませんが、
まあ、気を付けなければなりません。
で、この“落花”から、“落花の雪”に進み、「落花の雪に 踏みまよう 交野の春の桜狩・・」へ
これは、太平記 第2巻の 日野俊基が鎌倉に送られる、いわゆる道行の歌に思いが飛び、そういえば、
「太平記」の偏者の中に、児島高徳がいた。
そんなわけで、この人を・・という回りくどいタイトルになりました。
児島高徳といえば、あの小学唱歌「天莫空勾践 時非無范蠡」があります。
この歌は、文末にU-tubeからアップしましたが、私が子供の頃に姉あたりが歌っていたのを聞いたことが
あるのを覚えているのです。 当時は、何のことか意味も何も知らないまま覚えていたようでした。
「♫ 天 勾践(こうせん)を 空しゅう するなかれ~ 時に 范蠡(はんれい) 無きにしもあ~らず ♫」
「太平記」は、全40巻の長編軍記物語で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、
建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで
1318年~1368年頃までの約50年間を書いたものであります。
児島高徳は、この太平記に出て来るだけで、それも児島として出て来ることは無く、これ以外に彼を記した
歴史書が無いため確たる根拠はないとされているようですが、この太平記の編纂をした中心人物の一人では
ないかとも言われているようです。
彼は、備前の国の出身で、1331年の元弘の乱以降、ずっと後醍醐天皇(当ブログ2015.9.26)に忠誠を励み、
南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた武将で、後に備後の守を賜るとあります。
で、後醍醐天皇が1332年、幕府に敗れ隠岐に遠流となるのですが、この時 高徳は、備前国境の船坂山において、
後醍醐天皇の奪還を画策するも、失敗に終わり 軍勢は雲散霧消してしまった。しかし、高徳はただ一人、
天皇の奪還を諦めず、夜になって警備を潜り侵入するも、天皇の奪還を断念し、傍にあった桜の木へ
「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字の漢詩を彫りました。 これが有名な「白桜十字詩」と呼ばれ、
先の小学唱歌にもなったのです。 すなわち、「天は春秋時代の越王・勾践に対するように、決して帝を
お見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう」と。
朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に
何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。
翌年に、天皇が隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父・範長とともに赴いて
幕府軍と戦い戦功を挙げたとされています。
桜の詩
(ウイキペディアより)
また、冒頭の椿の“落花”から、“落花の雪・・”に繋がるところは、ネット調べで、太平記第二巻
「俊基朝臣再び関東下向の事」の段、すなわち都から鎌倉への囚われの身の道中、あの有名な道行文の
冒頭の部分です。
「落花の雪に踏み迷う、交野(かたの)の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす
程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、
行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、
心の中(うち)ぞ哀れなる。・・」
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の側近、日野俊基(としもと)は幕府転覆を企てたとして六波羅探題に
捕らえられ鎌倉へ護送され、鎌倉の葛原で斬られるのですが、その時の道行文なのです。