蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

沢庵忌  (bon)

2017-12-11 | 日々雑感、散策、旅行

 今日12月11日は、沢庵和尚こと、沢庵 宗彭( そうほう)の命日だそうです。
12月11日は、旧暦ですので、グレゴリオ暦でいえば、1646年11月27日となります。沢庵
和尚といえば、あの宮本武蔵にも出てきますが、史実上は無関係で、吉川英治の創作だ
そうです。

 で、生まれは、1573年といいますから、74歳と 当時としては長生きだったのです。
但馬の国出石(いずし=現、
豊岡市)に生まれ、地元の寺に出家し、20歳のころ京都
大徳寺に入り、36歳で住持となります。 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済
宗の僧です。

         沢庵和尚
          (ネット画像より)


 まったくの余談ですが、出石といえば、蕎麦がおいしい。真っ白なお皿にやや黒目の
蕎麦が盛られた素朴な見栄えながら大変味わいがあったことを覚えています。また、この
地は、山深く、林業なども続いていましたね。

        出石町(兵庫県豊岡市)
         (ウイキペディアより)


 江戸幕府に入ると、寺院法度などにより特に、大徳寺などの有力寺院への締め付けが
厳しくなり、1627年に後水尾天皇勅許により幕府の許可なく紫衣着用をしたため、法度
違反とされ 勅許状が無効とされましたが、沢庵らはこれに反対運動を行ったことで、
罪に問われ江戸に召喚されることになったのですね。  これが「紫衣事件」と呼ばれ、
沢庵は出羽の国上山に流罪となります。沢庵57歳のことでした。

 1632年、沢庵60歳の時、徳川秀忠死去による大赦令で、柳生宗徳らとともに連座した
者たちは許され、沢庵も江戸に出ました。その後、徳川家光が深く沢庵に帰依するよう
になり、67歳の時、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることと
なったのです。家光とは、かなり近侍していたようで、ある時、家光が東海寺を訪れた
際、「東海寺と言えど海近し」と問われた時、即座に「大君と言えど将軍と称するがご
とし」と返したというエピソードが残されています。(訳注:遠い海だが海近し→大な
る君でも、小ぐん・・)

        東海寺(品川区)
          (ウイキペディアより)


 また、柳生宗矩(柳生十兵衛の父)とも親交が厚かったようです。宗矩の求めに応じ、
剣禅一味(剣禅一如)の境地を説いた・・とあります。

 当時の代表的禅僧として知られる沢庵は、また、受け答えも当意即妙で、禅の教えを
身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から
慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けていたそうです。
 しかし、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことなく、あくまで自らは一
禅僧に過ぎないと述べ、死に際しても、「墓碑は建ててはならぬ」「ただ土に埋める
だけでよい」などと遺言し、「夢」の一文字を書き、筆を投げて示寂したという。
 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しているそうです。 
遺言に反して、現在、出石町の円覚山宗鏡寺 と東京品川区の東海寺に沢庵のお墓がある
そうです。

 ダイコンの漬物「沢庵」との関係は、いずれも伝承の域を出ないとありますが、一説
には「沢庵和尚が考えたから」があり、あるいは関西で広く親しまれているダイコン漬け
を沢庵が江戸に広めたとの説があるといいます。
 後者の説では、家光が東海寺に沢庵を訪れた際、ダイコンのたくわえ漬を供したところ、
家光が気に入り、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられているとか。

 

 

 

 

 

 

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