突然ですが、幕末頃に全国で盛んに築造された砲台「台場」を調べてみました。
というのも、昨年に届いた会報の、遺跡を尋ねてのコーナーに「品川台場・・幕末
の海の要塞」(大久保純一氏、国立歴史民俗博物館教授)と題した記事に触発され、
今では東京湾ウォーターフロントの一環として、レイボーブリッジやお台場公園な
ど都市型リゾートでお馴染みですが、改めて「お台場」なるものを見てみました。
ウイキペディアによれば、『台場とは、幕末に設置された砲台で要塞の一種であ
る。日本各地に築かれた。 当初は幕府や各藩において異国船の打払いを企図した
ものが多く海岸や河岸に築かれるものが多かった。しかし、幕末から明治にかけて
起こった戊辰戦争や箱館戦争や西南戦争においては、堡塁や塹壕、胸壁などの野戦
築城の数々も台場と呼ばれるようになった。これらは海岸線に限らず、峠・高台・
交通の要衝に築かれる事が多々あった。』とありますように、幕府築造のもあれば、
各藩築造など全国各地にたくさんあるようです。
幕府の台場だけでも、品川台場(東京港区)、弁天台場(北海道函館市)、堺台
場(大阪府堺市)、楠葉台場(大阪府枚方市)などがあるそうです。が、ここでは
品川台場を取り上げました。
品川第三台場(お台場)
(ウイキペディアより)
品川台場は、1853年にペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る折から、幕府
は江戸の直接防衛のために、品川沖に11基ほどの洋式の海上砲台を建設することに
したのでした。 ペリーは6月に来て、翌年の春に回答するようにとの約束であった
ために、幕府は突貫工事で完成したのは5基だったそうです。
下図にあるように、①~⑤は完成しますが、その他は途中中止あるいは完全中止
となり、結果的には、どの台場も実戦に使われることはなかったそうです。
江戸台場計画図
(ウイキペディアより)
品川台場の設計、監督を行ったのは、江川英龍という伊豆韮山の代官だったそう
ですが、以前に高島秋帆に西洋砲術を習い、蘭書により台場や大砲などの研究も行
う当時国内屈指の知識人だったそうです。さらに彼は長崎の台場築造の経験もあり
最適任者だったのです。そして、この大工事は、幕府命による天下普請の形態では
なく入札による方式だったそうです。
資材は江戸湾岸や近郊から調達され、土砂は近隣の品川御殿山や八ッ山、高輪の
泉岳寺付近の山を切り崩して充てたとあります。
当時この品川台場は、人々の耳目を集め、瓦版や浮世絵の名所絵にも多数取り上
げられていたそうです。
品川御殿山(歌川広重 画)
(ネット美術館より)
結局、台場は5基のうち、①、⑤は後の東京湾拡張で品川ふ頭工事で埋没、②は航
路にあるため撤去され、現在は③、⑥台場が史的意義から国の史跡として残され
「品川台場」と命名され、その内 ③は昭和 3年に台場公園として整備されたのです。
そして今では、新交通ゆりかもめが走り、お台場公園駅から徒歩で、第三台場に
行けるのです。
お台場
(ネット画像より)
私は、この周りはこれまで何度も通り、レイボーブリッジからもよく眺めたりし
ていましたが、お台場そのものには入ったことがなかったので、少し暖かくなり
コロナも落ち着いてきた頃に訪れてみたいと思いました。
なお、第六台場は海上にあり立ち入りは禁止されているそうです。
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