スキージャンプW杯女子で、高梨沙羅選手が60勝目をマークし、全豪オープン
テニスでは、大坂なおみ選手は2度目の優勝を飾りました。すごいですね。
若い女性たちは海外で活躍しています。
五輪組織委員会新会長にすんなり、橋本聖子氏が就任しました。
コロナ禍を何とか乗り越えて、無事にオリ・パラが開催されることを願うばかり
です。 前会長の女性蔑視発言は、思わぬ反響を呼び、あの強気の人も辞任せざるを
得なくなりました。 しかし、このことは世界にも恥ずかしい印象を与えたのでは
ないかと危惧されますが、覆水盆にかえらず・・で、まことに残念なことでした。
このことにより、日本女性の社会進出の遅れや 性差別の問題が再び取り沙汰さ
れることになりましたが、これに反発する気を込めて、日本では1000年もの昔、平
安時代に、日本女性が男性と共に幅広く活躍した事例の一端を紹介して認識を改め
たいと思いました。
当ブログ、「和泉式部」(2015.3.21)には、この趣旨から、会報記事(長谷川
晃氏、大阪大学名誉教授)の一部をご紹介していますが、さらに才女たちを加えて
改めて記事アップしました。
平安時代中期の才女たちから、紫式部、和泉式部、清少納言、赤染衛門、藤原道
綱の母、伊勢大輔、菅原孝標の女(娘)に注目してみました。 これらの皆さんは、
同時代の歌人たちで、紫式部、和泉式部は同僚女房であったようですし、他の4人
とも交流していたようです。菅原孝標の女の母の姉が藤原道綱の母だそうですから、
彼女は少しだけ若い時代ですね。
紫式部 はご存じ「源氏物語」の作者ですね。 彼女は20代後半で結婚しますが、
3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めたところ、藤原道
長の娘の家庭教師として宮中に呼ばれ、宮仕えをしながら道長の支援の下で源氏物
語を完成させたとあります。主人公 光源氏を通して、平安時代の貴族社会を描い
たのでした。
会報には、『 紫式部の “源氏物語” は、世界に冠たる小説として書きあげて
おり、他の女性たちの和歌などにも、その内容に示されている彼(彼女)らの立場
から、日本における女性は、ともすれば男性を凌ぐ位置づけであったとも思わせ、
欧米のつい100年足らず前までの男性優位社会の継続とは比較にならない・・』
と論じられています。
紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)
(ウイキペディアより)
清少納言は、随筆「枕草子」を書いています。著名な歌人の血筋を受けた彼女は、
博学で気の強い女性であったそうで、紫式部の才能にライバル意識を燃やしていた
などとあります。
清少納言
(ネット画像より)
藤原道綱の母、藤原兼家の妻で道綱を産み、兼家との結婚生活の様子などを
「蜻蛉日記」としてしたためられています。
赤染衛門、勅撰和歌集に多数の歌が収録され、女流歌人として活躍し、紫式部、
和泉式部、清少納言、伊勢大輔らと交流したとあり、その歌風は、穏健かつ典雅な
る歌風と評価されています。
伊勢大輔、紫式部、和泉式部らと親交があり、百人一首のあの有名な『いにしへ
の ならのみやこの 八重桜・・』の作者ですが、これには次のような逸話があり
ました。奈良から献上された八重桜を受け取る役目を、本来は紫式部が勤める予定
のところ、新参女房の伊勢大輔に譲ったことがきっかけとなり、藤原道長の奨めで
即座に詠んだ和歌なのだそうです。
菅原孝標の女(むすめ)、10歳から50歳くらいまでの人生を回想した「更級日記」
の作者で、彼女の母の姉が、藤原道綱の母に当たるのだそうです。
そして、最後に和泉式部ですが、先のブログから以下にコピペしました。
『それで、この和泉式部をちょっと垣間見てみますと、平安時代中期の歌人で、
三十六歌仙の一人にも数えられる才女で、勅撰集に二百四十六首の和歌が選ばれて
いるなど膨大な和歌を詠んだ女流歌人なんです。1000年も昔に、多くの男性との恋
を重ね、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多いのは 数々の恋愛遍歴によるものであると
されています。
和泉式部
(ウイキペディアより)
和泉式部は、“大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国
とを合わせて「和泉式部」と呼ばれた。この道貞との間に娘 小式部内侍を儲ける。
夫とは後に離れるが、娘は母譲りの歌才を示している。
まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子である 為尊親王 との熱愛が世に
喧伝されるほどになるが、為尊親王の死を悲しむ翌年には、今度はその同母弟であ
る「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王が年上の式部にほれ込み求愛する。
この求愛は熱烈を極め、親王は式部を邸に迎えようとし、結果として大納言藤原済
時の中の宮という親王の正妻が家出するに至った。”
帥の宮(敦道親王)とのなれ初めから、宮の邸の南院に入り込むようになるまで
のいきさつを記したのが和泉式部日記 なんですね。 この日記を書いた頃には、
別れた夫(道貞)との間に小式部内侍の他にもう一人、計二人の子がいましたが、
内大殿(藤原公末)、春宮(三条天皇)、源少将(源雅道)、治部卿(源俊賢)な
ど、付き合っていたらしい男たちの名前が出て来たりするのですが、それでも、帥
の宮は、世間体を気にしながらもしばしば会いに来ていたという。
この日記のくだりが先の会報に、次のように書かれています。(抜粋)
“日記には、帥の宮との逢瀬、「契る」場面が何回か出てくるが この二人の道な
らぬ恋の様子をよく物語っている。 一度目は、式部の家に宮が訪ねてきた場面、
そしてその後、式部はあんなに愛していた兄の弾正の宮と死別したばかりなのにと
自分を責める。 二度目は、帥の宮がやってきて 「いざたまえ、今宵ばかり。人
も見ぬところあり。心のどかにものなども聞こえん」 とて車をさし寄せて、ただ、
乗せに乗せ給へば、我にもあらで乗りぬ。いたう夜更けにければ、知る人もなし。
やおら人も無き廊にさし寄りて、下りさせ給ひぬ、とむりやり人のいない廊(ラブ
ホテル)に連れて行った様子を記している。 車に乗るところの様子、「ただ、乗
せに乗せ給へば、我にもあらで乗りぬ」は、女がためらいながら男の言うままに車
に乗る様子が表現されている。
三度目は、「御車ながら人も見ぬ車宿りに引き立てて入らせ給ひぬれば、恐ろし
く思ふ。人しずまりてぞおはしまして、御車の奉りて、よろづのことをのたまはせ
契る」 と、今でいうカーセックスだ。 四度目は、「みぞれだちたる雨の、のど
やかに降るほどなり。 いささかまどろまで、この世ならずあはれなることをのた
まはせ契る」。 年上の彼女が、悲しむ宮を慰めながら抱いている。”
この他にも、彼女をめぐる噂の男は数多くいたようです。この頃真面目な、友人
の赤染衛門が式部を戒めている。
宮との恋は、5年余り続いたが、1007年、宮27歳で世を去り、ここに終止符を打
つことになりました。 その後は、娘の小式部と共に、一条天皇の中宮藤原彰子に
女房として出仕するが、この頃、同じく彰子の周辺にいた紫式部・伊勢大輔・赤染
衛門らとともに宮廷サロンを築くことになる。その後、娘小式部に先立たれてしま
うのです。和泉式部の晩年の消息は定かでないという事のようです。』
最後に、百人一首の歌を挙げておきます。
紫式部 「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
清少納言 「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」
藤原道綱の母 「なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとか
はしる」
伊勢大輔 「いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」
赤染衛門 「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
和泉式部「あらざらむこの世のほかの想い出に今ひとたびのあふこともがな」
娘の小式部の歌「大江山いくのの道のとをければまだふみもみず天のはしだて」
愛に生きた和泉式部 友を愛した紫式部 【CGS 日本の歴史 4-6】