今日は立冬です。暑い夏日が続いて、半袖で過ごしている立冬は、各地で初めての
記録のようです。ベランダの朝顔は、10/10に初めて一輪が咲いた後、毎日1〜2輪咲き
11/1 には、5輪が、その後7輪や17輪と、今朝は16輪でした。
タイトルは大きすぎて、羊頭狗肉の非は否めませんが、少し前に届いていた会報に、
平安時代の文化について述べられている記事があり、面白く拝見しましたので少し
平安時代についても復習しながら、記事のご紹介をしてみたいと思いました。
(ネット画像より)
平安時代というのは、桓武天皇が奈良から、長岡京を経て京都に都を移して
(794年)始まりますが、それから鎌倉幕府が生まれるまで、ざっと400年も続いて
いますから、江戸時代よりもずっと長いのですね。 さらに京都の都は、その後も
ずっと都(首都)であり続け、明治2年に東京が首都になるまで続いているのです。
奈良時代は、それ以前の遣隋使に続いて遣唐使を派遣し、大陸の制度や規範をベー
スに国の形が作られて(律令制)、大陸の思想や文化の影響が色濃く浸透していた
時代だったようです。文化面では、仏教を中心とした天平文化が栄えました。
平安時代には、唐の影響が弱まるにつれ、菅原道真が進言したとされる「遣唐使
廃止」などがあり、その影響は次第に影を潜めてきていたのでしょう。そして日本
独自の文化、国風文化が芽生えてくるのです。新たな建築様式・寝殿造の登場、衣冠
束帯や女房装束(「十二単」)といった服飾の変化など、日本の風土に合わせて文化
が進化してくるのです。漢字から派生した独自の文字「仮名」も、9世紀には用い
られたとあり、11世紀には広く使われるようになり、文学作品も数多く生まれるの
です。
寝殿造り
(ウイキペディアより)
十二単
(京都宮廷文化研究所より)
日本最古の物語『竹取物語』や、日本初の勅撰和歌集である『古今和歌集』さら
には、説話集『今昔物語』などが代表格でしょうか。 また、随筆『枕草子』の清
少納言や、物語文学『源氏物語』の紫式部らもこの時代の有名人ですが、それぞれ
天皇の后に仕えた女房による文学作品ですね。
奈良時代には、日本最古の歌集、あの『万葉集』があります。こちらは天皇から
農民に至るまでの約4000首が収録されていますが、平安時代のこれらは天皇や貴族
のいわゆる宮廷文化と呼ばれ、日本最古の勅撰和歌集、古今和歌集には1100首が
納められるほか、かな文字による女性文学の台頭など華々しく花開く時代だったの
でしょう。
ちょっと横道にそれますが、あの有名な『いにしえの奈良の都~』の歌は、奈良
から献上された八重桜を受け取る役目を、紫式部が勤める予定のところを、新参女房
である伊勢大輔に譲って、その役目を果たしたところ、藤原道長から歌をすすめられ
て即座に詠んだ歌だそうです。 「いにしえの」は、あの古い時代の都であった
(奈良)というのですね。
『 一条院御時 ならの八重桜を人の奉りけるを そのおり御前に侍けれは
そのはなをたいにて うたよめとおほせことありけれは 伊勢大輔
いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬる哉 』
伊勢大輔
(ウイキペディアより)
で、会報に掲載された記事『平安の美と妖しさ』(高樹のぶ子氏、作家、東京女子
大学短大)は、9世紀前半頃の日本文化史の変化や平安貴族の結婚観や装束、平安
文学を貫く「もののあわれ」について書かれており、また、在原業平や小野小町を
主人公とした恋愛小説なども発表されています。会報記事から、いくつかの内容を
ここにご紹介しておこうと思います。
先ず装束について、作家ご自身も着物をお召しだそうですが、組紐の多さなど
かなり面倒くさいと感じられていて、平安時代のあの十二単などはとても大変かと
思いきや、十二枚の着物を重ね着する時に、組紐は2~3本で済ませていたようだと。
その頃、寝間着がなかったので、夜は十二単を布団代わりにかぶって寝ていたとか。
そんな女性の寝所に「美人らしい」とのうわさを頼りに男性が忍び込み、いきなり
共寝をして、十二単を一枚ずつ脱がせるのは大変だなと想像していたが、上手くや
れば、十二単からするりと身一つだけを取り出せたそうです。残った衣は「裳ぬけ
の殻」。
当時の女性の価値は、①血筋、②教養(和歌の才能)、③容姿 の順であったそ
うで、価値観も相当違っていたのですね。妻は受け身で夫が通ってくるのを待つだけ、
その代わり夫が通ってこなくなれば、他の男を通わせるのは自由だったと。処女を
特別視する風習や不倫と言う倫理感もなかったそうです。 そして、当時は血筋の
価値が高く、娘が都の貴公子の血を引く子を産めば大変な名誉だったとか。
業平が東下りの折、各地の豪族の家に宿泊しましたが、その度 業平の寝所には
豪族の娘が送り込まれたそうだと。
「あはれ」は、平安時代に出来た概念で「あっぱれ」と同源とあります。「古今集」
の約100年後に出来た「源氏物語」には「あはれ」は大変な数が登場するそうです。
以降江戸時代に至るまで「もののあはれ」は日本文学の神髄となっているのです。
記事の中で『栄華を誇る権力者に「あはれ」は宿りません。権力から逃れた時、
初めて「あはれ」と出会うのです。私は「業平は“雅”に生きた男。 小町は
“あはれ”を生きた女」と考えています。』と。
小野小町
(ウイキペディアより)
奈良時代、漢字の音だけを利用して日本語を表記する万葉仮名が発達し、この万葉
仮名は仮名文字になり、貴族の女性の間で日記、手紙、物語などが大いに発展して
きたのです。漢字で公的な記録を残す男の文化から、仮名文字で心を表す女の文化へ
変遷していったと。 その転換点は、仁明朝(833~850)頃ではなかったかとあり
ます。
仮名が一般化したからこそ、掛詞、縁語、歌枕などの修辞が成立し。和歌は豊かで
奥深くなり、物語に出てくる男女の機微は一層繊細になりました。漢字だけを使って
いたら、平安古典文学の味わいは生まれなかっただろうとあります。
そして、掛詞、枕詞、歌枕などの技巧は、歌に深い、広いイメージを付加し和歌の
世界が大きく進歩したことを示しているとあります。すなわち、「ぬばたまの夜」
「あしびきの山」「久方の光」など、夜、山、光などの前に着く修飾句です。が、
「ぬばたまの」とだけ言えば、暗い夜を暗示するように一層洗練されてゆくのです。
さらに、地域もあります。「塩釜」といえば、海水から藻塩を焼く田舎の風情を
あらわし、「宇治」は「憂し」に通じ、和歌に宇治を読み込めば憂鬱な気分を表現
できるなど・・。「宇治の川霧」は、春の情景を表し、吉野といえば桜、竜田山は
紅葉というようなパターンを平安貴族は共有していたのです。
草花などを和歌に詠む際にも教養が問われるのですね。春は桐、藤、葵、梅、桜、
夏は朝顔、夕顔、芹、ナズナなど、秋は紅葉、芒、冬は椿、葛、ヤブコウジなど・・。
さらに、季節と方角も陰陽五行説に基づいて東は春、南は夏、西は秋、北は冬と。
なので、たとえば「東山の紅葉」はルール違反で、「東山は新緑」でないといけない
のですね。
以上の文化の香りは、ほんの一端に過ぎませんが、それから1000年余り過ぎて、
文明の発展と共に人々の価値観、生活様式、文化が大きく変遷してきたのですね。
宗教観までもが大きく変わってきている。 しかし、異なる民族、宗教は2000年
経っても変わらないのでしょうか? 中東の戦慄は1か月が過ぎました。
伝来した唐楽が、平安時代に普及したという「越天楽」がありました。
平調 越殿楽