蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

世界平和記念日  (bon)

2020-11-11 | 日々雑感、散策、旅行

 今日(11/11)は、1が4つも続くところから、麺の日、箸の日、チンアナゴの日、
煙突の日などいろんな記念日が設定されていますが、ここは、世界平和記念日な
んです。
 

 今から100年ほど前のことで、1918年11月11日に第一次世界大戦終結の日を記念
して定められました。
 『もう争うのはよそう。』との願いを込めてこの日 連合国、ドイツ双方で締結
されたのです。
       

          

 100年前の日本は、大正年間でした。いわゆる大正デモクラシーで、初めての政
党内閣 原敬内閣が誕生(1918年)しています。(当ブログ、「100年前の日本政治」
2020.1.26にも記事アップしています。) 
 1920年には、強い明治時代を見直す機運から明治神宮が創建され、3年後には関
東大震災が起こっています。 日本も、第一次世界大戦(1914年勃発)に連合軍
として参戦しています。

       第一次世界大戦
       (ネット画像より)

 第一次大戦で欧州列強に代わってアメリカ、日本は物資の生産拠点として、繊
維をはじめ軽工業、製鉄、造船などが大いに経済発展するのです。ネットに当時
の物価が出ていました。 大卒サラリーマン初任給は50~60円、職業婦人の平均
月給はタイピスト40円、電話交換手35円、事務員30円、コメ1升50銭、純金1g1円
73銭、(金は現在値では6500円くらいでしょうか?)
 また、大正ロマンといわれるファッションなども特徴的ですね。

        竹久夢二画(大正ロマン)
         (ウイキペディアより)

 このような時代に、ヨーロッパでは、悲惨な大戦が起こり、その停戦協定に調
印されたのです。 当ブログ2015,11,11に『世界平和記念日』を記事アップして
いますので、そこから要点を拾って再掲しました。

          

 1918年(大正7年)の今日(11月11日)、パリ郊外コンピエーニュの森に停車中
の食堂車の車内において、ドイツ軍代表団が連合軍との休戦協定に調印しました。
 開戦から4年余り、毒ガスなどの大量破壊兵器が初めて使用された人類空前の総
力戦を展開した第一次世界大戦が、ドイツ側の疲弊で事実上終結しました。ドイツ
では11月9日、共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えました。公式
には戦争はヴェルサイユ条約の締結(1919.6.28)によって終わりました。

 主戦場となったヨーロッパの各国では、第一次世界大戦を終えた調印の日(11月
11日)に「戦うことは もうやめよう」と決め、終戦の祝日としているのです。

       休戦協定
       (ウイキペディアより)

 

 しかし、第一次世界大戦は、世界平和記念日を制定し、ヴェルサイユ条約によ
り大戦は公式に終了することにはなりましたけれども、このヴェルサイユ条約は、
戦勝国の賠償規定であり、この大戦が過去に類を見ないほど悲惨な損害を生み出
した戦争であったため、戦勝国の敗戦国への報復的とも言える過酷な賠償条件を
含んだ内容となっていました。そのことが結果的に、ナチスの台頭の原因となり、
これがその後(20年後)の第二次世界大戦の遠因ともなってしまったのです。

 結局のところ、平和を願う心は万民共通であるにしても、平和記念日が制定され
その意識を高めながらも、20年後には再び世界大戦が起こり、実質的には何ら効
果をもたらしていないばかりか、100年経った今日もやはり各地で戦争が行われて
いますし、アジアにおける中国の台頭などのうねりもますます激化してきており、
東シナ海における資源開発問題、尖閣諸島周辺の領海内に侵入する行為等々不穏
な動向が報じられています。

 100年前の出来事からその時代を振り返って(想像して)現在とのギャップの大
きさに驚かされます。 文明はいよいよ進んで、生活様式や個人の行動などおよそ
100年前には想像できえなかった時代になっているのですね。

 そこで、今から100年後の状況を想像してみてもやはり皆目見当がつかない、ど
んな世の中になっているのでしょうか? 100年先は、そんなこと知る由もない・・
ですが、今生まれた赤ちゃんは、70→80→100才になっているのですよね。

 先に当ブログで、長寿を喜んでいる場合ではないと、寂しい感想を述べましたが、
人口減少,少子化による経済成長、社会保障制度が維持できなくなることによる
混乱、地球温暖化、エネルギー問題、食糧問題など暗い面ばかりがクローズアップ
されるのですが、世界はどのように進んでゆくのでしょうか?

 

 

Nana Mouskouri - La Golondrina (Lyrics) Legenda Espanhol - Português

 

 

 

 


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4 コメント

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欧州の近世 (火の鳥草)
2020-11-11 22:07:23
別に、専門に学んだわけではありませんが、ここ150年の欧州の近代史の表面ズラを直感的に理解するには旧プロシアを含む「ドイツ」の版図(領土)を経年的に眺めるのが分かりやすいと思います。数次にわたる戦争でどんどん縮小して今の形があります。
例えば、図に示された第一次大戦後までは存在していたドイツの父祖の地プロイセンは、今次の大戦でポーランドとロシア領になり、数百万人が難民化して死亡、伝統のプロイセン文化は今や完全に消滅してしまいました。
東西ドイツ統合の時、時のコール首相が、現国境のオーデルナイセ線の東、旧来の(ドイツ固有の領土たる)プロイセンの一部を含むメーメル川まで国境を戻せ、と言い出しかねない雰囲気があり、各国は警戒しましたが、結局口に出さなかった。従って?、旧ドイツ国歌は復活させたが、領土を詠う1番は歌わないこととした、といった複雑な歴史がありますね。
返信する
コメントありがとうございました。 (bon)
2020-11-12 11:36:15
火の鳥草さん、深淵なコメントに感謝です。プロイセンの歴史をはじめ、ヨーロッパのこのあたりの変遷には凄いものがあります。日本国内でも、戦争は繰り返し起こっていますが、その規模や戦いの根っこに大きな違いが感じられます。
 難しい国家間のバランスの維持が一段と求められている時代に、トランプの4年間は正に雑音と不協和音に感じられます。
返信する
欧州の近世 (火の鳥草)
2020-11-12 22:03:27
こだわって申し訳ありません。続きです。
今から30年前、ちょうどベルリンの壁崩壊の時、ドイツに10日ほど滞在していました。仕事というよりも、「ビジネス」研修です。ドイツの近世を中心とした歴史も若い大学准教授から学びました。第2次大戦後、父祖伝来のプロイセンを含む東側領土が無くなったとき、ドイツ人が難民となって150万以上が死亡した歴史を彼女は涙を流して語りました。
西ベルリンに行った日の夜、正にブランデンブルグ門の壁を両サイドから人々がよじ登り、喚起してました。官憲は止めませんでした。私も誰かに肩車されて壁に登りましたが、外国人なので、官憲が引きずり下ろしました。翌日、正規の手続きで、東独の官僚の招待で東ベルリンに渡り、彼らとディスションしました。それはそれとして、。。。
そもそも、「固有の領土」との主張は、世界的にどのくらい普遍性を持つ主張なのか、考える時があります。
それと、戦争中、横暴の限りを尽くしたドイツを戦後、周りの各国が大目に見ているのは、ドイツが反省したとかそんな尾花畑的理由ではなく、やはりドイツ自身が膨大な犠牲(領土割譲、難民死)を強いられた、という事実があるからだと思うに至りました。どうも、それが事実のようです。長文失礼しました。
返信する
数奇な経験を・・ (bon)
2020-11-13 13:27:17
そうでしたか! なかなか、そのような経験はできないですね。そして正規に、東ベルリンにはいられたそうで・・。
当時、テレビでも大々的に取り上げられ、大きな歴史の変換器でした。思えば、その直前から、ソ連ゴルバチョフのペレストロイカが始まり、世界の一つの区切りを迎えたのでした。その底辺には、情報の広範囲な浸透があったと伝えられていますが、歴史の流れですね。
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