歴史の香りが今なお残る国分寺、その名の通り武蔵国の「医王山国分寺」と「武蔵国国分寺跡」があり古の面影を残している。その「医王山国分寺」を右へ進むと「お鷹の道」、「真姿の池」へ繋がる遊歩道が350mも続く。湧水群の清流沿いは江戸時代のお鷹場に由来する「お鷹の道」で国分寺を代表する名所のひとつ。右側には清流がサラサラと流れ、両脇の樹木には四季折々の花が咲き、ホタル池もあり風情・情緒たっぷりの癒やしの空間である。「真姿の池」は848年、重い病に苦しんでいた絶世の美女「玉造小町」は国分寺を度々参詣していた折り一人の童子が現れ「池で清めよ」との霊示をうけ快癒したとの伝えがある池である。近くには弁財天が祀られている。旧本多家住宅長屋門がありミニ七重塔が建てられている。この一帯は棟環境庁の「全国名水百選」のひとつに、東京都 の「名湧水57選」に選ばれておりなかなか趣きがある。(1512)
国分寺市西元町・東元町に古代寺院跡の「武蔵国分寺跡」はある。奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国(60余国)に国分寺に国分寺・国分尼寺の建立を命じた中のひとつがこの武蔵国分寺跡(史跡)である。現地案内板によると「天平13年(741)の聖武天皇の詔により、鎮護国家を祈願して創建された武蔵国分寺は、昭和31年以来の発掘調査によって東西720メートル、南北(中軸線上)550メートルの寺地と、寺地中央北寄りの僧寺寺域(360~420メートル四方)および寺地南西隅の尼寺寺域(推定160メートル四方)が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判明。更にこの中で寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されています。また、僧寺では諸国国分寺中最大規模の「金堂」をはじめ「講堂」・「七重塔」・「鐘楼」・「東僧坊」・「中門」・「塀」・「北方建物」、尼寺では「金堂」・「尼坊」・「中門」などが調査されている。武蔵国の文化興隆の中心施設であった国分寺の終末は不明であるが元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したと考えられる。史跡指定地域約10万平方メートルは現在「史跡公園」の整備に向けて土地の公有化が推進されている。武蔵国分寺跡は全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性が認められ大正11年に国指定史跡に指定された。なにしろ東大寺の東西南北とも8町に匹敵する大きさであり、かつての武蔵国の面影に触れることができる古代寺院跡地であった。(1512)