福岡博多の街の日本庭園周りや神社や寺院の境内で土色した何やら模様のある「土塀」を見かける。「博多塀」ということが分かった。東京では谷根千ほかに「築地塀」が残っているが、それとは違いこの土塀は戦国時代、相次いだ戦乱で廃墟となった博多の町を豊臣秀吉が復興するとき、戦火兵火で焼け残った石や瓦等が塗りこめた「土塀」を造った。神社や仏閣や豪商の屋敷に数多く築かれ博多塀でといわれた。当時は長く続いたこの土塀を「博多八丁塀」と言っていた。歴史的な遺跡でそこには秀吉の平和への願いが込められている。この土塀は廃材活用の造り方をしていた究極のリサイクル土塀と言えるかもしれない。この「博多塀」がもっともよく残っているところは江戸時代の代表的な庭園様式を有し茶室を擁している「楽水園」である。当時の歴史を辿って復元されたものである。その他「櫛田神社」に博多商人・島井宗室の屋敷跡のものや御供所町の「聖福寺」や「妙楽寺」に復元された「博多塀」を見ることができる。この土塀は秀吉の太閤町割りによるまちの再興、都市計画であったかと思うと感慨深いものがある。(1809)














